死神と黄昏庭園《3》
マリーが遺した資産を糧に、霧島貴音として生きることに没頭した。威厳ある屋敷の
僕の中を巡り、苦しみを呼んだリオンの記憶。それを和らげてくれたのは、リリスから渡された一冊のノート。
——苦しみと嘆き……思うままに書いてみればいいわ。そして自分を見つけていくの、リオンの想いを受け止めながら。長い時の中で見つけるものは何か。あなたはあなたとして生きていくのよ。人が繰り返す命の終わりを見つめながらね。あなたは特別な人。私達が秘める苦しみを
日々ノートに書き続けた。
時々アルバムをめくり描いたマリーのスケッチ画。
ノートを閉じたあと書庫室に籠り夜を迎えた日々。本を読み漁る中、僕に芽生えたのは創作への願望だった。
世界を描き育てていけるなら。
自由に、思いのままに……と。
ドアをノックする音が僕を弾く。
今日はやけに感傷的になっている。
ノートを手放し、ダークティアラの仮面を捨てたというのに。
破ることも、燃やすことも出来なかったノート。それは人知れず眠り続けていくだろう。いつか世の中に忘れられていく、寂れた店の片隅で。
「貴音様、少しいいですか?」
閉ざされたドア越しに聞き慣れた声が響く。
召使い、
「貴音様、今日はチョコチップを入れてみたんです」
可愛らしくラッピングされたクッキー。屋敷に仕える中、クッキーを焼く余裕があることに驚かされる。
「今夜はステーキのようですね。雪斗様はナイフとフォークに慣れたのかしら」
屋敷に仕える召使い達。
雇いたての頃、誰もが僕の顔を見て
リリスにノートを渡される前、僕は自身の顔を切り裂いた。
黄昏に染まる庭園で。
痛みと苦しみの果てに手に入れた、美しさとおぞましさが混じる顔。
リオンの記憶から逃れたかった。
僕の中を巡る記憶は僕のものじゃない。それなのに……
リオンの
リリスは現れた。
血に濡れた僕を、驚きもせず見つめながら。
——坊っちゃんったら。私と同じ顔が気にいらなかったの?
リリスの声は僕の心を
——冗談よ。リオンの呪縛から逃れたかったのね。生みの親として、坊っちゃんのことはわかってるつもりよ。
僕に触れたリリスの手が血に染まった。
——坊っちゃん。自分を傷つけるのはそこまでにして。あなたが望むまま残してあげるから。生の希望と不死の絶望を刻む
あれからどれだけの月日が流れたのか。
召使いを雇い、活気を取り戻した屋敷の中で物語を執筆し始めた。
傷ついた左目は眼帯で隠されたものの、傷痕は生々しい赤みを帯びて頬を覆っている。今にも血が滴りそうな傷痕を前に、美結は何故笑っていられるのか。
「君は……僕が怖くないのか?」
「どうしてそう思うんです?」
ラッピングを開ける音が響く。香ばしい匂いに包まれる中、美結が取り出した一粒のクッキー。
「私を雇ってくれたことに感謝しかないです。私に出来ることは、貴音様に喜んでもらえる召使いになること」
美結はクッキーを食べ微笑む。
いつもなら、押しつけられるように渡されるクッキーだが。
「チョコ入りも、たまには悪くない」
手を伸ばすと、美結は意外そうに目を見開いた。受け取ったラッピング袋がカサカサと音を立てる。美結の前でクッキーを食べるのは初めてだ。
「チョコを入れた分、クッキーの甘さは控えました。口に合えばいいんですけど」
「仕事に戻ったほうがいい。別の召使いが夕食の知らせに来る頃だ」
僕の助言に、美結はぴくりと肩を震わせた。美結はここで召使いに鉢合わせ、何度か注意されている。
「すみません、貴音様に迷惑をかけてしまいますね。私は召使いの中1番の下っ端ですし」
ペロリと舌を出した美結。
僕を見る大きな目は猫を思わせる。疑いを持たず、親しみを込めた目で飼い主を見るような。
猫か。
僕が霧島貴音として生き始めた頃、屋敷に現れた1匹の白い猫。ガムテープを体中に巻かれ、傷だらけの姿で助けを求めてきた。艶やかな毛を染めた血の色は、今も僕の脳裏に焼きついている。
住人達が去り、廃墟の群れとなった町を猫はどんな思いで彷徨い、
手当てをしてから息絶えるまでの数日間、猫は僕のそばから離れなかった。僕を見る目に滲んだ温かな光。それは生きる喜びを感じさせた。
僕の膝の上で、眠るように息絶えた猫。
「出来るだけのことをします。私の夢は、1番の召使いになって貴音様を守っていくこと。ずっと……貴音様に仕えさせてくださいね」
美結は頭を下げ、足早に部屋から離れていく。
僕を守る……か。
叶わない願いを美結は秘めている。
時の巡りの中、召使いの採用と解雇を繰り返してきた。僕が歳を取らず、死なないことを気づかれないために。
美結……願いは叶わない。
いつか君を、解雇する時がやって来るから。
リオンが願いながらも、人として生きることを許されなかったように。
ドアを閉め窓の外を見た。
夜の闇に落ちた黄昏庭園。
遠のいた過去の中。
リオンが翼を斬り落とし、僕が顔を切り裂いた
僕とリオン。
ふたつの不死の血が混じり生みだした異形のもの。
妖魔が眠る庭園に誰が近づくことも僕は許さない。
醜く哀れな僕達の分身。
ドアをノックする音が響く。
ドアを開けるなり、目を丸くした召使いが見えた。ドアがすぐに開いたことに驚いたのか。
「驚かせて悪かった」
「いえ、持っているのはクッキーですか? さっきまで、夢道さんがここに?」
「あぁ、仕事に集中するよう注意したが。君も食べるか?」
差しだしたクッキーを前に召使いは首を振った。彼女は仕事に対し、随分と真面目なようだ。
「夕食のお時間です。どうぞ、食堂にお越し下さい」
頭を下げる召使いを前に、微笑む美結の残像が浮かぶ。召使いの中、僕が名前を覚えてるのは美結だけだ。美結の親しみに満ちた目の輝きは僕を温かく包み込む。
僕の中を巡る……白い猫の残像と共に。
次章〈オモイデの目覚めと転校生〉
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