エピソード71 遙かなる故郷

「ちょっと寄りたいところがあるんや」

 劉玲はそう言って車のエンジンをかけた。あぜ道を脱出し、農道をさらに北へ向かう。伊織の隣に座る曹瑛はスモークガラスの向こうの景色をただ黙って眺めている。5分ほど走って、劉玲が空き地にベンツを止めた。周囲はには見渡す限りの麦畑が広がっている。遠くに農作業をしているおじさんがいるだけで、人気はない。車を降りれば、そこには古びた寺が建っていた。大きな門は立派な屋根に観音開きの扉、柱はかつて鮮やかな赤だったのだろう、今はすっかり色が落ちてしまっている。周囲は朱色で塗られた壁に囲まれている。一部瓦が地面に落ちて割れていた。


「ここは?」

 劉玲はなぜこんな古い寺に連れてきたのだろう。伊織は門を見上げた。門の屋根瓦には龍や蓮の花などの立派な装飾が並んでいる。

「ここはな、関帝廟や」

「関帝廟って、関羽さんを祀る場所?」

「そうやで、伊織くんは物知りやな」

 関羽は三国志に登場する義に厚い武将として知られている。故郷では塩の商人だったことから商売の神としても崇められ、中国だけでなく世界中に関帝廟は存在する。日本にも横浜や神戸など、中国に関わりの深い場所に立派な関帝廟がある。伊織は横浜の関帝廟に行ったことがあるが、とても立派で、鮮やかな色使いの建物に度肝を抜かれた。今、目の前にある関帝廟は煤けた廃寺のようだ。


 劉玲が大きな観音開きの門の横にある小さな扉から中へ入っていく。伊織も後に続く。振り返ると曹瑛は門を見上げていた。何か物思いにふけっているようだ。敷地の中には古びた建物があった。地面は草がぼうぼうに伸びて、ブロックは割れて掘り返されているところがあり、伊織は危うく躓きそうになった。赤い柱にお経のような漢字を書いた紙が貼ってある。香炉の前にはぼろぼろの座布団が置いてあった。ここに跪いてお祈りをするのだろう。見れば、線香を燃やした後があるので、この付近の農家の人々が時々はお参りにやってくるのかもしれない。


 劉玲が正面の扉を開く。薄暗い廟の中には、赤い顔の関羽像が鎮座していた。埃かぶった像は手に書を持ち、もう片方の手で髭を撫でている姿だった。

「あの本は春秋という昔の本や。関羽さんは強いだけでなく頭がええ、あの本を全部暗記しとったんや」

 劉玲が関羽について伊織に教えてくれる。横に控えている顔が黒い方が周倉、白い方は息子の関平。だいたいこの3人の配置になっているらしい。横浜に行った時には気にしていなかった。今度行くときはよく見てみようと思った。曹瑛もいつの間にか廟の中で関羽像を見つめていた。

「懐かしいやろ」

「・・・忘れた」

 曹瑛はそう言い、ふらりと廟を出た。外でタバコに火を点けている。


「ここが俺たちの故郷や、曹瑛とは小さい頃によくこの関帝廟で遊んでた」

「え、そうだったんですか・・・」

 そういえば、ハルビンでも田舎の貧しい村で生まれたと曹瑛は言っていた。まさかここがそうだったとは。曹瑛はどんな気持ちでいるのだろう。

「だだっ広い畑しかないやろ、昔もそうやった。遊ぶところなんか無い。それでよくこの関帝廟の庭で遊んでた」

 劉玲は懐かしそうに言う。


「曹瑛な、小さくて、近所の悪ガキによくいじめられよって。それで関羽さんみたいに強くなるんやってここで一生懸命お参りしてた」

 廟の外でタバコを吸う曹瑛は話が聞こえないフリをしているのか、反応がない。

「あいつ、小さかったから覚えてへんかもなあ」

 劉玲がフッと笑った。きっと、小さな弟の姿を思い出したのだろう。久々に会った弟は強くなっていたに違いない。いきなり刃物を交える本気のケンカというのは何という因果だろう。伊織は何も言えず、ただ押し黙っていた。


 劉玲がいこか、と関帝廟を出た。そのまま畑の中の一本道を進む。夕陽が空をあかね色に染めていた。気まぐれな風に金色に光る麦が揺れている。劉玲に、伊織、その後少し間を開けて曹瑛が続いている。長い道だ。どこまで続くのだろう。そう思っていると、劉玲が脇道に逸れた。


「うわあ、なんやここ、こんなになったんかい」

 頓狂な声を上げる。そこは土の道から綺麗なレンガの舗装に変わっていた。道に沿って花壇が作られ、色とりどりの花が咲いていた。向こうには休憩できる小さな庵もある。その一帯が広く遊歩道になっていた。劉玲が振り返り、曹瑛を見つめる。

「覚えてるか」

 曹瑛は黙ったまま劉玲を見つめている。

「あの日は雪が降ってた」

 劉玲は空を見上げる。

「俺はお前を助けよう思うて、必死で小さい手を広げてた・・・せやけど、助けられんかった」


「俺は」

 曹瑛がぽつりと話はじめた。

「お前が死んだと思った。自分のせいで兄を死なせた、その後悔だけを胸に生きてきた」

「俺もな、当初は弟は死んだと聞かされてたんや」

 無情にも、組織は幼い兄弟の絆だけでなく心までを引き裂いたのだ。二人は再びその場所に立っている。伊織の頬に熱い涙がこぼれた。


「うっ、なんてひどい話・・・ひどすぎる・・・信じられない・・・」

 伊織はあまりに悲しくて、涙が止めどなく流れた。止らない鼻水をすすり上げる。

「おい、お前が何で泣く」

 曹瑛があきれている。

「だって、そんな小さな子供をさらうなんて・・・可哀想すぎて・・・うぐ・・・」

「伊織くん、俺らはちゃんと生きて再会できたんや、それも伊織くんのおかげやで」

 河口湖の水滸館でお互いに兄と弟と気付きながらも、話かけるきっかけが掴めなかった劉玲と曹瑛を引き合わせたのは伊織だった。

「良かったあ、本当に良かったよ・・・」

 今度は感動して号泣している。それを劉玲と曹瑛が慰める謎の図式になっている。

「もう泣くなよ、顔がめちゃくちゃだぞ」

「めちゃくちゃって、お前口悪いで」

「ほら見ろ、鼻水が」

「伊織くん、俺のハンカチ使うか?」


「ごめん、俺のことはほっといて、話続けて」

「この状況で続けられるわけないだろう・・・」

 曹瑛があきれて伊織の頬を引っ張った。

「こら、伊織くんをいじめるなよ」

「ごめん、瑛さん・・・俺ちょっと向こうまで走っていって遠くで見てるから」

「だから、もういい」


「人生を取り戻す、か」

 どこまでも麦畑の広がるあぜ道を劉玲は曹瑛と肩を並べて歩いている。伊織はその後を劉玲に借りたハンカチで涙を拭いながらついていく。

「お前は強くなったわ」

 劉玲が曹瑛の髪をくしゃくしゃと撫でた。

「やめろ、バカ兄貴」

 曹瑛はさも嫌そうにそれを振り払った。夕陽を受けて金色の麦畑がキラキラと輝いていた。

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