エピソード63 旅の支度

 春秋航空のフライトスケジュールを確認し、出発は2日後に決定した。客人たちが手分けして片付けをしてくれたので、キッチンは何事も無かったかのように片付いていた。

 伊織が広告代理店で働いていた頃、職場の同僚数人を狭いアパートに上げて飲み会をしたときは酷いものだったのを思い出す。ビールの空き缶は何本もそのまま、床に飲みかけのビールはこぼれておつまみの袋はいくつも開けっぱなしで放置。酒盛りの後、伊織は一人虚しく片付けたのを覚えている。

 強面の男たちの方がよほど行儀がいい。


「明日はアパートにパスポートを取りにもどるだろう」

 定位置のソファでタバコを吹かしながら曹瑛が伊織に声をかける。Tシャツにジャージ姿で、仕事人の黒づくめのスーツ姿とのギャップがありすぎておかしくなる。

「うん、海外に行くなら準備が必要だし」

「俺は烏鵲堂に行く」

「じゃあ、俺も一緒に行きます」

 烏鵲堂に行けばハルビンのガイドブックがあるだろう。


「瑛さん、中国ってどんな感じ?持って行くといいものある?」

「この時期は気候はこっちと変わらない。時々急に冷えるから上着はあった方がいいだろう。必要なものはなんでも現地調達できる」

 伊織が同行するのを渋っていたわりにはちゃんとアドバイスをしてくれた。ハルビンは大都市と聞く。買い物には困らないだろう。着替え、洗面道具、胃腸薬、お金とスマホ、パスポートがあればいい。


 翌日、曹瑛と伊織は連れだって池袋へ向かった。改札を出て、伊織のアパートへ。荷物をまとめるので、曹瑛には先に烏鵲堂へ行ってくれていいと伝えたが、ついてくるという。二人並んで住宅街への道を歩く。

「何だか昨日のことみたい」

 伊織がしみじみ呟く。

「何がだ」

「瑛さんと初めて会って、俺のアパートに一緒に行ったこと」

「あのとき、お前は俺をまこうとしただろう」

 改札からアパートまで、伊織はあわよくば得体の知れない男から逃げだそうと、わざとわかりにくい道順を選んで歩いた。


「え、バレてたの・・・」

「当たり前だ」

 伊織は何だか恥ずかしくなった。あの背中を刺すような緊張感は今でも忘れない。隣を同じ歩調で歩いているのが不思議に思える。あれほど逃げだそうと必死だったのに、今や危険と分かりながら自分から中国までついていきたいと思っているなんて。


「良かったら部屋で待つ?」

 曹瑛は頷いた。アパートに到着し、久々に部屋の鍵を開ける。

「狭いな」

 伊織のアパートに入り、開口一番曹瑛が呟いた。6畳のリビングにキッチン、ユニットバスの部屋はマンスリーマンションに比べたら狭いだろう。それでも都会の真ん中に持った小さな城だった。シングルベッドにノートパソコン、小さな本棚に洋服ダンス。本は好きだ。実家の部屋はまだ残してもらっており、高校から大学時代に読んだ本は全部とってある。

「何もおもてなしできませんけど」

 伊織は冷蔵庫にストックしてあるミネラルウォーターをテーブルに置く。曹瑛は座布団を取り、あぐらをかいて座った。


 スーツケースを取り出し、タンスから適当に服を詰め込んだ。洗面道具は新宿のマンションにある。机の引き出しからパスポートを取り出し、念のため期限を確認する。胃腸薬も見つけた。準備はすんなり終わった。

「俺の荷物、これでいいや」

 振り向けば、曹瑛が伊織の本棚を眺めていた。好きな作家の小説や仕事の指南書などジャンルはばらばらで、本棚のスペース分だけを置いていた。曹瑛が本を一冊手に取り、ページを捲りながら眺めている。それは空の写真集だった。建物や海外の美しい風景の写真集が並ぶ。


「こういうのが好きなのか?」

「うん、ぼーっと眺めていると癒やされるよ。瑛さんは本を読む?」

「読む。だが、本棚はない」

 曹瑛の自室はどんなところなのだろう。きっと殺風景だ。

「本を買わないの?電子書籍とか?」

「読んだら処分する、そもそも定住している場所はない」

 ものに執着しないどころか仕事柄できないのか。それも何だか可哀想に思えた。伊織は本棚から一冊の本を取り出した。日本の四季の美しいカラー写真集で、お気に入りの1冊だった。

「これ、瑛さんにあげる」

 曹瑛はそれを黙って手に取った。表紙をしばらく眺めて、もらっておくとだけ行ってバッグにしまった。


 アパートの施錠をしっかりと確認し、烏鵲堂へ向かう。駅近くのカジュアルショップの前を通ると、この間曹瑛の服を見繕ってくれた店員がまた来てよ、と声をかけてきた。

「よく覚えてましたね」

 驚いてつい反応してしまった。あのとき一度行ったきりの店だ。

「モデル顔負けなの、彼。服を選ぶの楽しかったよね」

 相変わらずいけ好かない話し方だ。伊織は愛想笑いで適当にやり過ごした。曹瑛はすたすたと先を歩いていく。

「モデルみたいだって瑛さん」

「顔を覚えられたくない」

 曹瑛はむすっとしてポケットから取り出したサングラスをかけた。それはそれでかなり悪目立ちしているのだが、伊織はあえて突っ込まないようにした。


「いらっしゃい、あんたたちか。そろそろ来ると思ってたよ」

 相変わらず客がいない。烏鵲堂の老店主はニコニコと2人を出迎えてくれた。本棚の隠し階段を降りていく。老店主はポットでお茶を沸かし始めた。

「日本での取引は阻止できたか」

 老店主が中華文様の白い器に茶を淹れてくれた。澄んだ橙色の茶は武夷水仙という。蘭の香りが鼻に抜ける。芳醇な味だった。

「おかげさまでな、世話になった」

 曹瑛が厚みのある封筒をテーブルへ置いた。結構な金額が入っていると思われた。老店主はそれを差し戻した。

「これは受け取れん」

「ボランティアでやっているわけではないだろう」

「龍神の件はわしらも助かっておる、それにこれから本拠地へ向かうんじゃろう?これは餞別じゃ」


 老店主がファイルを差し出す。曹瑛はそれをパラパラとめくる。伊織が覗き込むと、何枚かの写真や地図が入っていた。

「黄維峰が所属する八虎連支部の情報じゃ。龍神の源にはさすがに辿りつけんかったわ」

「いや、助かる」

 曹瑛はファイルをバッグにしまった。茶を飲み干し、席を立つ。

「もうここに来ることはないだろう。おやじ、元気でな」

 曹瑛は口角を上げて笑みを作った。

「おやじさん、俺は時々本を買いにくるよ」

「いつでも待っとるよ」


 もうここに来ることはない。曹瑛の言葉がひっかかった。それは烏鵲堂だけでなく、日本にもだろうか。明日から出発するというのに、落ち込んでいてはいけないと思いながら、どうしてもその先のことを考えてしまう。なるべくその気分を顔に出さないように努めた。


「回る寿司を食べに行こう」

 曹瑛のリクエストで回転寿司の店に入った。ネタが大きく、新鮮でリーズナブルな人気の店だ。カウンターへ座り、メニューを見る。伊織はお茶を入れた。先ほどの繊細な中国茶とはほど遠いが、寿司屋の濃い緑茶は結構好きだ。レーンの上を寿司が回っていく。曹瑛はその様子をじっと見ている。


「面白い仕掛けだな」

「本当は回らない寿司がいいんだけどね」

 回転寿司も日本観光の思い出にはなるだろう。伊織がタッチパネルで赤だしと茶碗蒸し、適当に握りを注文する。日本での滞在で生ものを食べて、抵抗がなくなったのか皿がどんどん積み上がっていく。曹瑛は伊織が納豆巻きを食べているのを見て、顔をしかめた。

「それだけはダメだ・・・」

 曹瑛はステレオタイプな反応を示している。伊織は子供の頃から食卓に納豆が並ぶ家だったので、臭みは全然気にならないがダメな人にはダメらしい。


 新宿駅で交通カードを解約をしようと提案した。曹瑛に渡したカードには1万円をチャージしてあり、まだ半分は残っているはずだ。

「このまま持っておく」

 どういうつもりか分からないが、解約はしないという。そういえば、カードに書いてあったペンギンを気にしていた。解約すればカードは返却となる。もしかして、と伊織は思ったが聞くのはやめておこうと思った。

 

 マンションに戻り、部屋をざっと片付けた。明日は早朝から成田空港へ向かうため、このマンスリーマンションは今日で最後になる。当初ここに来たときには曹瑛と一緒に生活する羽目になるとは思っていなかった。この部屋では伊織のこれまでの人生に無かった出来事が凝縮されている。なんだか名残惜しい気分だった。


 曹瑛はベランダで1人タバコを吸っていた。伊織はその横に立つ。一緒に景色を眺めてみる。なんでもない、都会のビルの谷間にいるだけだ。夕陽が一気に最後の輝きを増す。

「今日で終わりだね」

「そうだな」

 曹瑛はタバコの煙をゆっくりと吐き出した。

「悪かったと思っている」

「・・・え?」

 思いがけない言葉だった。

「伊織をここまで巻き込むつもりは無かった」

「自分でもこんなことになると思ってなかったよ。これまでの人生にないことばかりだったけど、楽しかった」

 楽しい、という言葉が自然に出てきたことに伊織は自分でも驚いた。それは嘘の無い言葉だった。曹瑛はフッと小さく笑った。そのまま空が紫色に染まるまで2人はベランダに並び、佇んでいた。

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