エピソード36 潜入

 5階角部屋の前に立つ。ドアの鍵は開いていた。ただいま、と小声で言う。反応はない。部屋に入ると曹瑛は定位置のリビングのソファに座り、タブレットを操作している。食事の後片付けはもう終わっていた。

「長かったな」

「うん、ちょっと話してた」

 伊織は曹瑛の横に少し間を開けて座った。曹瑛は無言のままだ。ベランダのカーテンが風にそよいでいる。少し暖かい、心地よい乾いた風が吹き込んできた。遠く街の喧噪が聞こえてくる。


「俺、やっぱり出て行かないよ」

「勝手にしろ」

 いつものぶっきらぼうな返事。でも、ここにいることを許してくれた、良かった。伊織は嬉しくなってひとり微笑んだ。暖かい風がうなじをくすぐる。曹瑛の言葉に安心したのか、ひどく眠くなってきた。瞼がとろんと落ちる。伊織の体はソファの背からすべり、曹瑛の肩に体重を預けて止った。そのまま寝息を立て始める。


 曹瑛は伊織の頭を肩に乗せたまま、タブレットの画面を操作している。画面には地図が映し出されていた。横浜の海沿いにある小さな鉄工所にポインタが点滅している。

 電車と徒歩か、曹瑛は経路を頭に入れた。情報屋から聞いた取引の日付は今日。さらに精度の良い龍神がキロ単位で運び込まれ、顔見せと書類を交わす会談が行われるということだった。鉄工所は鳳凰会の管理物件で、邪魔が入ることはない。


「悪いな伊織」

 曹瑛は伊織の体をそっとソファに寝かせ、立ち上がった。食後の茶に睡眠薬を少量盛った。高谷を送りに行ってなかなか戻らないのでその辺の廊下で寝たらマズイと焦ったが、ちょうど良く効果が現れたようだ。このまましばらく起きないだろう。

 伊織が出ていかないと言うことは分かっていた。自分が追い出せないことも。クローゼットを開き、仕事道具を取り出す。黒のハーフコートの裏側にナイフを仕込んでいく。ショートブーツにも一本潜ませた。メイン武器の手になじんだ赤い柄巻のナイフ、バヨネットは背中にしまった。バッグには気休め程度の銃や弾丸のストックを詰める。

 コートのポケットから厚みのある長封筒を取り出し、伊織の眠るソファの前のテーブルに置いた。これで準備は整った。曹瑛はドアを開けようとして、立ち止まる。キッチンに戻り、メモを取った。


-出かける


 紙袋を重しに、メモを机に置いた。ベランダから入る穏やかな風にメモが揺れている。伊織の側に立ち、たたんでおいた毛布をかけた。未練だな、と曹瑛は自嘲した。次の瞬間、暗殺者の顔に戻り、静かに部屋を出て行った。


 新宿から横浜までJRで向かう。曹瑛は伊織にもらったペンギンのカードを取り出して改札にタッチした。絵本のペンギンか、このカードを見ると伊織との会話を思い出す。これが普通の人間の日常なのだ。

 ある意味、曹瑛にとってこの数日間は非日常だった。車窓を眺めると、過ぎゆくビルの隙間から漏れる夕陽のまばゆい光が瞼を射した。見慣れぬ景色もどこか懐かしく感じるのは何故だろう。

 

 気がつけば、横浜駅に到着していた。電車を乗り換え、関内で電車を降りる。空は残照で赤く染まっている。美しく、不吉な色でもあった。

 中華街を抜け、海沿いの鉄工所を目指す。観光地となっている中華街の喧噪はもはや聞こえては来ない。遠く高層ビルやライトアップされた観覧車が見えるが、この辺は明かりが消え、田舎の港町といった様相だった。

 降りっぱなしのシャッターにはスプレーによる雑多な落書きが続いている。タバコの吸い殻や紙くずが散らかる狭い路地を抜けていくと、灰色のトタン屋根の建物にぶつかった。ここが取引の場所だ。


 日が落ちて、辺りは闇に包まれている。周辺は小さな町工場が建ち並ぶエリアだ。明かりの漏れる割れたガラス窓から鉄工所内をのぞき込むと、古びた大型の機械がいくつも並んでいる。その合間に黒いスーツの男が立ち、タバコを吹かしていた。二階にガラス張りの監視室、そして壁を伝う廊下がある。その廊下にも監視役の男が立つ。

 曹瑛は鉄工所正面に近づいた。東京ナンバーの黒塗りのベンツ、BMW、レクサスと高級車が並ぶ。それに3ナンバーのワンボックスが2台。八虎連の連中はまだ到着していない。


 榊を殺しても、他の組織が動く。それは分かっていた。龍神は良心がありそうな榊の手で押さえておくほうがマシかもしれない。だだ、榊も預かった龍神を手元に持っておくことはできないだろう。どうあがいても市場に流れていく。

 取引の代表者を仕留めればこの話は飛ぶ。狙いは榊、八虎連の幹部、その2名だ。この取引を潰した後に、八虎連の生産拠点を根絶させる。曹瑛は革のグローブをはめながら鉄工所の屋根を見上げる。隣の工場の非常階段が視界に入った。


 曹瑛は敷地を仕切る壁に飛び乗った。壁を蹴って手すりに掴まり、非常階段に飛び移る。音も無く階段を駆け上がり、鉄工所2階の窓の前で身をかがめた。駐車場をヘッドライトが照らす。乗用車に挟まれて黒塗りのワンボックスがやってきた。点滅する街灯の光の中、中国マフィア八虎連の者たちが降り立つのが見えた。帽子を目深にかぶった黒いコートの男が詰め襟の黒ずくめの男たち側近5人を連れている。 

 それを迎える日本の鳳凰会は榊、舎弟や用心棒合わせて10名はいるだろうか。不穏な男たちはぞろぞろと鉄工所内へ入っていき、入り口のシャッターは半分下ろされた。


 曹瑛は階段から鉄工所の屋根に飛び乗った。開いている窓を見つけ、屋根から体を逆さにしてのぞき込む。窓から3メートルほど向こうに見張りの男が一人、死角になる位置にもう一人は配置しているだろう。

 曹瑛はそのまま窓から滑り込み、二階廊下へ降り立った。見張りの振り向きざまに延髄に衝撃を与えて気絶させ、廊下に転がした。物音に気がついたもう一人が叫ぼうとするのを、バヨネットを喉元に当て阻止する。そのまま背後に回り込み、首を締め上げて気絶させる。

 二人の男を引きずり、ロープで柵に括り付けた。叫ばれても面倒なので、バヨネットで男のシャツを切り裂き、即席の猿ぐつわをかます。通路の見張りはこの二人だけのようだ。身を低くして階下をのぞき込むと、交渉が始まろうとしていた。

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