うたかたに消える
「あなたが殺す気なら、私はそれで構わない」
マースリンは彼女だけを見据えて、繰り出した。
なんて中身のない発言。
ただで殺される気なんてない癖に。
むしゃくしゃとしてきて、奥歯を噛みしめる。
なにもかもがどうでもいい。
世界もろとも消えてしまえ。
めちゃくちゃのギタギタにして、二度と立ち上がれないくらいに、力を削ぎ落としてしまいたい。
激しい感情が心の底からあふれてくるのに、ナイフを持つ手が震えていた。
足が地面に張り付いて、一歩も前に進めない。
それならばと手のひらを翻しながら左の腕を伸ばし、手を広げる。
細い指先が空気に触れた。
刹那、水の刃が四方に発生。
襲いかかった。
マースリンは派手に動いて、避けようとする。
波はしつこく追ってくるも、詠唱の時間稼ぎをしているだけなので、問題はない。
ちょうど詠唱は完了。模倣が発動し、同じ技を返す。
二つの技は衝突し、弾けた。
その様はシンメトリーでまさしく鏡だ。
フラン・マースリンの力を持ってすれば、防御は容易い。けれども――
「無駄よ。あたしの魔力は無尽蔵。あんたごときが敵うわけないじゃない」
塔から見える景色は海に沈んでいる。
地表を覆う水は全て、マリエッタ・ローレライが手中に収めた。
無限の魔力をもってすれば、敵はない。
消しても消しても、新たな波が出現する。
彼女が魔力を操る度に鱗は肌を侵食。腕全体を覆い、顔にも広がり目の際にまで伸びていった。
一方でマースリンはすっと手を下ろす。
抵抗をあきらめたようだ。
マリアは一歩前に出て、距離を詰める。
ナイフを構えたまま、ゆっくりと。
突き刺せば、終わる。
彼を殺せば自分は生き残れるし、解放されるのだ。
分かっている。
簡単なことだと。
震える手を動かし、ナイフを振り上げた。
だが、それでも――
動きが停まった。
頭を駆け巡ったのはかつての思い出。
万華鏡かステンドグラスのように彩られた、いくつもの情景。
よく行くカフェのケーキの甘さと、コーヒーの香ばしい匂い。
いつか味わったレモンの酸っぱさ。
夕焼けに漂う泡。
砂浜と青い海。
白いワンピースを着た少女と、フォーマルな格好をした彼。
今、小指にはめたガラスの指輪が透明な輝きを放った。
ああ、やっぱり――
本当は分かっていた。
自分に彼は殺せない。
死を受け入れるように腕を下ろす。
瞬間、氷が割れるような音がして。
肌から剥がれた鱗がきらめきながら、宙を舞う。
天から月の光が差し込み、彼女の肉体を通り抜けた。
上体が傾く。
すぐ後ろは展望台の端。
少女は吸い込まれるように、下へと落ちる。
彼女の身は濁流の中へ飲み込まれていった。
少女の身は沈む。
ダークブルーに染まった水の、奥深くまで。
やがて独りで泡に消える。
なんてむなしい運命。このまま消えるのは惜しく、未練があった。
だが、仕方がない。やりすぎたのだ。
間違いを犯して落ちるところまで堕ちた少女。彼女に手を伸ばす者など、いるわけがない。
自己嫌悪混じりに思った矢先、五本に広げた指が見えた。
何者かが手を伸ばしているのが分かって、彼女は目を大きくする。
「マリア!」
声が届く。
それはずっと聞きたかった、永遠に求めていた、青年のもの。
たちまちマリアの表情が変わる。
目が垂れ、眉を曲げ、口の形がぐにゃっと崩れた。
彼が近づく。
青年の赤髪と燃える瞳が視界に飛び込んだ。
瞬間、空気の流れが止まる。
視界に色ガラスのような幕がうっすらとかかった。
目に映るものがスローモーションに見える。
時すら停まってしまったかのように錯覚する中、やがて全てがゆっくりと動き出す。
波は加速し木の葉が水を流れていった。
「マリア……! すまない、私は……」
青年は眉を寄せる。
彼の声は波の音にかき消された。
代わりにマリアの脳裏によぎったのは、いつか彼が打ち明けた言葉だった。
――「私の本当の名は、ケビン・マースリンだ」
そう、彼が口にしたのは、死んだはずの弟の名だった。
それが彼女が知った真実。
「いいの」
仮に赤い宝石が存在しないとしても。
「あんたの正体が誰だろうとあたしにとっての灯火は、あんただけ」
灯火の名はフラン・マースリン。
彼女が憧れた人間だ。
対して、フランは表情を歪める。
今にも崩れそうな張り詰めた顔だった。
なおも彼の手は届かない。
距離は離れていく。
水流に身を任せてマリアは落ちてゆく。
「ごめん、なさい」
口を開く。
「約束を守れなかった。化け物に成り果ててしまった」
合わせる顔がない。
まっとうな人間でいなければ悔いしか残らないと分かっていたのに、絶望的で愚かな結末しか選べなかった。
捨てられなかったのだ、澄んだ海のように美しい力を、嫉妬としての自分を。
胸の中で黒い炎を燃やすたびに心地よい気分に浸っている。
他者への嫉妬が彼への好意の証明になっていたから。
「違う。あなたは約束を守っていた」
フランは真剣な目で彼女を見据え、引き結んだ口を開いた。
「嫉妬を冠し、黒き感情に支配されてなお、友情を失わなかった。私たちを思ってくれていたじゃないか」
切実な想いのこもった言葉に、心が揺れ動く。
目を丸く見開き、瞳を震わす。
けれども少女は悲しげに目を閉じて。
「茶番だわ。あたしたちの友情なんて偽物じゃない」
マリアは最後にフランを消そうとした。
なにより両者は敵同士。馴れ合っていただけだ。
どうしようもないと知っていたのに、運命に逆らった。
そうでもしなければなにもなくなってしまうから。
彼らと過ごした日々に意味はない。
マリアが抱いた感情も、フランが感じたであろう友情も、価値を失っている。
「そうでもないんじゃ」
声がした。
シンプルなブラウスにハーフパンツを合わせた女。曙の御使いが光の粒を纏いながら浮いている。
「わしは記憶をなくしとったからな。あのときのわしは一人の女として、主と接しとったんじゃ」
もしも記憶があればアウローラはマリアに近づかなかっただろう。
だから本物だと言いはる女。
それでもマリアは受け入れられず、突っぱねる。
「本物だと、言うの? こんな、あたしたちのことを」
「当然じゃ」
断言する。
「わしは偽物を本物に変える存在じゃ。その程度、たやすい」
胸を張って言ってのけた。
なんて軽々しく、晴れやかに。
だけど、アウローラの自信に満ちた態度には、救われる。
本当はマリア自身が一番に、否定したくなかったから。
フランとか変わった日々は大切な思い出。
それだけは誰にも覆せない。
たとえ彼らの関係がもろく儚いものだったとしても。
「あたし、本当は、違うのよ。本当は……。終わらせたくなかった」
嘆くように本音をこぼし、うつむけた顔を、両手で覆う。
「それでよかったのだよ、あなたは。自分の感情を素直にぶつけても、それで」
彼は少女の気持ちを受け入れた。
また、瞳が揺れる。
顔から手を外して、上を向く。
見えた。
炎のような輪郭が。
月光が差し込む。
神殿の中のように、神秘的。
その光の中を青年は突き進む。
降りていく彼。
反対に透明な泡は螺旋を描きながら、上っていく。
フランは手を伸ばす。
もはや間に合わない。
それでも最後くらいは受け入れてもいいだろう。
逆に手を差し伸べるように、腕を伸ばした。
指と指が絡まる。
そして二人の手はきちんと結ばれた。
いずれ消える命でも、意味をなくしたものだったとしても、こうして最後に繋がったものもある。
ああ、これでよかった。
心の中でうなずく。
同時にほしかったものも、ようやく分かった。
それは感謝の心と万人を受け入れる度量。
どれも彼女にはないもの。
結局は手に入らなかった。
だけど見つけることはできた。
ゆえにマリアは顔を上げる。
口元に花の微笑み。
勿忘草色の瞳で青年を見上げて。
少女の体は光と共に薄れて、足元から泡に溶ける。
やがて輪郭もとらえられなくなり、完全に水の中に消えた。
唯一残ったガラスの指輪は透明な光を放ちながら、水の底へ落ちていった。
彼女の終わりを見届けた途端、急に体が重くなる。
すっと穴に落ちるように降下、地に足が着いた。
じんわりと水が引いて濡れた道路が顔を出す。
マースリンは即座に立ち上がり、あたりを見渡した。
マリアの姿を探すけれど、見当たらない。
代わりに目に入ったのは、ガラスの指輪だった。
持ち主を失って地面に転がっている。
近づき、拾い上げた。
そばにアウローラが降りてきて、生やした翼をそっと仕舞う。
二人は口を開かなかった。
風もなくあたりに静寂が包む。
本当に終わったのだ、なにもかも。
けれども実感が湧かない。夢の世界をふわふわと漂っている気分だ。
心には塩辛い感情が広がっている。
それでも、青年は前を向いた。
残った希望を拾い上げ、今宵の出来事を受け入れる。
かくしてフラン・マースリンは彼女がいた場所に、背を向けた。
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