刃を向ける
***
朝方の屋敷は物々しい空気に包まれていた。
「さっさと怠惰の野郎を潰してこい。それが貴様の役割だ。分かってんだろ?」
武器庫に呼び出すなりユーロンは命令を下す。
逆らえば未来はない。
それでも彼女は『はい』とはすぐにうなずけなかった。
今になって葛藤が生じる。
クリスが屋敷から逃げた後も、エミリーは考えていた。
怠惰を倒すという行いは、本当に正しいのかと。
彼は怠惰であり、愚かな人間だ。
しかし、悪ではない。
青年は屋敷にとらわれている娘を助けようとした。
そんな相手に刃を向けることは、許されない。
顔に汗が浮かぶ。
エミリーは拳をギュッと握りしめた。
「嫌です」
顔を上げ、青竹色の瞳で相手を見上げる。
「私はあなたには従えません」
強い決意を持って答えを繰り出す。
男は彼女を冷ややかな目で見下ろした。
「おいおい、聞こえなかったか? それとも意図が伝わらなかったか? 貴様、本当に賢者の娘か?」
言葉に煽りを含ませ、彼は問う。
彼女は答えない。
「こうしなけりゃ分からんと? 貴様のようなおめでたい頭をした女には」
言うが早いか、男は壁にかけた棚に手を伸ばす。
矛を掴むと、彼は娘と相対する。
やっぱり。
心の中でつぶやく。
「あたしだって理解していたわ。最初からあたしを始末するつもりで、呼び出したってことを」
「そうかよ。なら話は早い。ここでくたばれや。貴様はすでに用済みなんだよ」
口角をつり上げ、解答を繰り出す。
「そんな真似をして、ただで済むとでも? あたしは人質のはずよ。もしも危害を加えたら、彼らはあなたを許さないわ」
エミリーは毅然とした態度で相手と向き合う。
「ハ。なに寝ぼけたこと抜かしてんだ?」
男は彼女を鼻で笑う。
「やつらが助けてくれると思ってんのかよ? 甘いな。これだから貴様らはぬるいんだよ」
嘲るように言葉を発するユーロン。
対するエミリーは言葉を失い、立ちすくむのみ。
「そんなはずは……。だって、あたしたちはそういう契約だったでしょ?」
動揺で声が乱れている。
表面上は冷静でいようとしたが、張り詰めたものがいつ切れるか分からず、気が気でない。
「分かんねぇのか? 現実逃避もいい加減にしろや。貴様に人質のしての価値はねぇ。そう言ってんだよ」
ユーロンは彼女を指した。
ドスの利いた声が迫る。
途端にエミリーは固まった。
信じていたものが崩れ落ちる。張り詰めていたものが溶けていく。そんな感覚がした。
心が震える。
でも、そんなはずはない。
仮にも血の繋がった親子であり、賢者の一族。
見捨てるなんてありえない。
何度も自分に言い聞かせた。
「やつらの気持ちはよく分かる。誰が助けるかよこんな役立たず。さすがにもっとやれんだろと踏んではいたが、現実はこの体たらく。まさか怠惰の野郎を殺す度胸もないとは思わなかったぞ。おい、どうしてくれんだ? 俺の期待を返せや」
挑発ではなく、本当に怒っている。
そんな口調だった。
「そして貴様を助けに来るものは現れんときた。こいつが答えだ」
言葉が耳に入ってくるのと呼応するような形で、心臓の音も加速する。
焦りと動揺が表に出ていた。
頬を汗が伝う。
自分を保つことで精一杯だった。
「さすが賢者だ。賢明な判断を下した。当然だよなぁ? こんな無価値な存在、わざわざ捕まえに来るわけがないよなぁ?」
歪んだ目つきで、彼女を見下ろす。
暗緑色の瞳が青ざめた顔の娘を映した。
彼女は反論の言葉を持たない。
両親ならば見捨てる。
確信めいたものを感じていた。
それではやはり、両親は娘を用済みと判断したのだろう。
ぞっとした悪寒が走った。
彼女の脳内は空白に染まる。
周りの色が消え失せた。
「あほらし。ショック受けてんのかよ? どんだけおのれに期待してたんだ?」
口を右側へ上げ、彼は嗤う。
知っている、そんなこと。
分かっている。
こうなることも、全て、なにもかも。
「これで分かっただろ? 貴様は誰にも愛されんとな」
ああ、最初から、知っていた。
屋敷に捕われる前から、内心は自覚していた。
両親が自分を愛しているわけがないと。
なぜなら彼女は誰にも褒められなかった。
覚悟はしていたが実際に答えが出ると、悲しくなる。
ひょっとしたら想ってくれているのではないかと、淡い希望を抱いていたのに。
それらはあっけなく散り、残されたのは深い絶望のみだ。
娘を救う者は現れない。
誰も。
味方も。
家族すらも。
ただの娘はあっさりと捨てられる。
それを理解していなかった。
人質になってさえいれば解決すると、勘違いをしていた。
こんな外れだから、せめて役に立てたらと……。
甘かった。
とんだ勘違いだった。
本当は価値など持たない、石ころに過ぎないのに。
理想も夢も、とうの昔に蒸発していたのに。
終わった。
崩れていく。
自分の中から手から、心から。
「貴様の次は賢者だ。俺は全ての障害を排除する。邪魔する者は許さんさ」
矛を突きつける。
「彼らは関係ないわ。なぜ狙う必要があるの? 宝玉には興味を失ったんじゃ、なかったの?」
「知らんな。俺以外の全ては敵だ。障害物なんだよ。だったら全部ぶっ壊すだけだ。そんなことも分かんねぇのか?」
当然のように男は声を大にして叫ぶ。
彼は目的を達成するためなら、手段を選ばない。
他者を蹴落とし、殺戮しようと平気でいられる。
それが彼にとっての正しさだからだ。
あらためてエミリーは理解する。
彼は野放しにしておけない。
「やはり、あんたは悪だわ」
「それがどうしたよ?」
挑発的な目をして問いかける。
「善も悪も関係ない。頂点を取れりゃあ、それでいいんだよ」
当たり前のように言い切る。
瞳の色はどす黒いのに、言葉には迷いがない。清々しいほどに。
それゆえに断言できる。彼の本質は黒だ。
「悪は排斥しなければならない。だからあたしは、あんたに刃を向ける」
手のひらを開く。
中心に棒状の霧が出現。
それは漆黒の槍を形成。
柄を掴む。
ギュッと握りしめ、構えた。
穂先を男へ向ける。
自分自身の敵へ。
主へと。
それが最も正しい道だと信じて。
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