8:アリス

 窓框まどかまちに腰掛けて外を眺めながら、どうして「その依頼、あたしたちにやらせてよ」だなんてバカげたことを言ってしまったのだろうと、ハナコは我ながら驚いていた。


 ドンに言った借金の件が最大の理由なのだとは思う。この立ちゆかない八方塞がりの現状は、すべて借金というクソッタレな足枷からくるものではある。


 だがしかし、本当にそれだけが理由なのだろうか? 


 とっくの昔に、他人へ対する優しさやなんかは心から掃き出してしまったつもりだったけど、もしかすると年端のいかない謎の少女に、わずかばかりの同情の念を抱いてしまったのかもしれない。あの《血の八月》の頃におなじくらいの年齢だった自分自身とを重ね合わせて、「可哀想に」と、らしくない感情でも芽生えてしまったのだろうか?


 ……分からない。


 あの事件から十二時間以上が経ち、もう昼前になるというのに、蒸し暑いバラック小屋に否応もなく閉じ込められていると、つい考えなくてもいいことを色々と考え込んでしまう。


「ネエさん、ほんとうに本気なんですか?」


 もう何度目かの、トキオの質問が飛ぶ。


「本気だよ。しつこいな」


 振り返り、青く塗装されたウッドチェアに座って背もたれに顎を乗せた仏頂面のトキオを見やると、当てこすりのような深いため息をつかれた。


「さっきからため息ばっかりね」

「そりゃそうっす。オヤジのあの態度じゃ、たぶんネエさんのワガママを受け入れちまう。いつものことですよ」

「なにが不満なわけ?」

「不満っていうか、この先の展開を考えてたら、あーりゃりゃな気分になっちゃったんす」

「この先の展開?」

「おれも、ネエさんのワガママには逆らえないってことですよ。オヤジが了承すれば、おれも行かざるをえなくなる」

「嫌なの?」

「嫌じゃないですよ。だから嫌なんです」

「なにそれ?」


 言ってハナコは苦笑し、ベッドに眠る少女を見やった。


 静かな寝息をたてる少女は、昨晩のあの事件からずっと眠ったままだ。


 ドンが気を回してやってきた、口がかたいのだけが取り柄の闇医者、黒縁眼鏡のドクター・ビスケットによれば、「すこし熱があるが、特に問題はない」ということで、今のところ心配はしていないが、それでも、透きとおるように白い肌や、陽光をやわらかく反射する金髪を見るかぎり、あまり体力がある方ではないように思える。


 ドンが言ったとおりのことを信じるならば、少女は《ムラトの娘》なのだろうが、かすかな違和感をおぼえる。その正体がなんなのかまでは分からないが、この少女がツラブセに長いこと匿われていた本当の理由は、他にあるような気がしてならない。


「……この娘、ほんとになんなんだろうね?」

「ムラトの娘。それだけで、十分に狙う価値があるでしょう」

「政府軍にとってはそうだろうけど、やっぱりアイツがどうにも気になっちまってね」

「ピクシー、ですか?」

「そう」


 やはり、あのバケモノのことがどうしても気がかりだ。


「うーん、でもおれたちはそういう諸々の事情なんてどうでもいい立場じゃないですか。『例えどんな代物であろうが、依頼されたブツは絶対に目的地まで運ぶ』ってのが《運び屋》の流儀でしょうに」

「……そうだな。それに、まだあたしらがやるとは決まってないしね」

「そうそう」


 呑気なトキオにすこし気をそがれていると、ベッドから物音がし、見ると、少女が寝ぼけまなこで半身を起こしていた。


「……」


 呆けたように口を開き、少女は部屋を見回した。


「ここは……どこですか?」


 透きとおる声で言って、少女がハナコに視線を据える。


「あ……ああ、ここはあんたを悪いヤツらから守るための場所だ」


 言いながら、一瞬、少女に心奪われたことをハナコは強く意識した。


「守る? 誰からですか?」


 つづけて少女が言った。


「それは……」


 困って二の句を継げずにいると、


「悪い奴らのことはおれらもよく知らないんだよ、お嬢ちゃん」


 と、トキオが助け船を出してくれた。


「そうそう、あんたは――」

「アリス」


 ハナコを遮り、少女が言った。


「え?」


 思わず聞き返すと、


「アリス。アリス・サーティーン・ヒエダ。わたしの名前です」


 と、少女は壊れそうな声音で名乗った。


 その、アリスという名前に、なぜか胸がうずく。


「……できすぎた名前ね。あたしはハナコ・プランバーゴ。とにかく、あんたはいま安全な立場にはいない。だからここでしばらく大人しくしてもらう」


 言って、窓外に目をやると、通りにチャコとケンジを連れ立ったドンの姿があった。


「アリス、今から事情を説明してくれる人が来てくれる。無理かもしれないが、あまり驚かないでくれよ。あたしはうるさいのが嫌いだからさ」


 立ち上がって見ると、アリスは静かにうなずき、


「分かりました」


 と言って、窓へ目をやった。


 そのうなじには、《十三》という黒い刺青が彫り込まれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る