2:薬屋

 《ガンズビル》と書かれた、朽ちかけの木製看板がかかる廃ビルを見上げて、ハナコはひとつため息をついた。


「まったく、《蜘蛛の巣》の近くなんかに住みやがって。あのジイさん、酔狂にもほどがあるよな。まいどまいど届ける方の身にもなってほしいよ」


 腹立ちまぎれに、山積した雨ざらしの木箱を蹴り飛ばすと、


「同感です」


 木箱の重さに音を上げかけたトキオがうなずく。


 廃ビルの前には、パラボラアンテナなどがゴテゴテと取りつけられた、用途不明の白いバンが停められている。


 灯りのついた二階の一室を目指してビルに入ると、例えようのないえた臭いが充満していた。鼻を左手で覆いながら、ハナコは「この依頼、受けなきゃよかった」と本気で後悔した。


 ちらと見ると、木箱のために両手がふさがったトキオは、すでに涙目になっている。


 気合いを入れるために短く息を吐き、ホルダーから警棒を引き抜いて、階段に足をかけながらかまえる。お届け先に着くまで、最後の最後まで気は抜けない。辺りを警戒しながら一段一段のぼり、ゆっくりとだが確実に強くなる臭いにせてしまいそうになった頃、ようやく二階にたどり着いた。


 目の前の壁には、《人生より美しい芸術はない》と、下手くそな落書きがされている。

 これは、《蜘蛛の巣》のガキどもが書いたものだろうか? 

 それともジイさんが?


「やっと来たか。待ちくたびれたわい」


 あかりのついた部屋から、ゴーグルをつけた、真っ白い顎髭を伸ばした老人が顔を出した。嬉しそうに開いた口には、あわれにも二三本の歯しか見当たらない。


「ます臭いをどうにかしろよ」

「おお、すまんな」


 言って、部屋に戻る老人の名は、ガンズ・トヤマ。

 界隈では《薬屋》と呼ばれる、今回の依頼人だ。


 ここ数年にわたり、街で強奪さわぎが起こるほど流行中の《ピーク》という覚醒剤の発明者である。そのために羽振りが良く、ハナコたちのお得意様でもあるが、用途不明の医療器具やクサイ食べ物ばかりをやたらと依頼してくる、食えないジイさんだった。


 部屋に入ると、ガンズは、不気味に泡立つ抹茶色の液体が入ったビーカーを、開け放した窓辺にうつして、うちわで扇いでいた。


「なんなんだよ、そのえげつないヤツは?」

「うーむ、わしの特製健康ジュースなんだが、そんなに臭うか?」


 トキオがもはやゲッソリとしながら、部屋の中央に据えられた、場違いなマホガニー製の丸テーブルに木箱を置いた。


「コレも臭いし、ソレも臭いっすよ。ネエさん、金をもらって、さっさと帰りましょう」

「そうだね」

「待て待て。久しぶりの客じゃて、ご馳走してやる」


 満面に笑みを浮かべるガンズが、コブシ一家よりも難敵に思えて仕方がなかった。


 二人の眉間のシワをどこ吹く風とばかりに、矍鑠かくしゃくたる老人はビーカーを窓縁まどべりに置いたままにして、木箱をおもむろに開けはじめた。


 臭いがどんどん強くなってくる。

 サイアクだ。


「これじゃこれじゃ」


 中の物を取り出そうとするガンズの手を、ハナコは警棒で止めた。


「なんじゃ?」

「金が先だろ?」

「抜け目がないのう」


 言ってひとつため息をつき、得体の知れない無数の染みがついた前掛けのポケットからくたびれた茶封筒を取りだしたガンズは、その中からしわくちゃの紙幣を抜き取って、ハナコに手渡した。


「……二十万サーク、たしかに受け取った。毎度あり」

「ボロい仕事じゃな」

「ふん、クサい仕事だったよ」


 ハナコの皮肉に、黄ばんだ歯の隙間から笑い声を漏らし、ガンズは、木箱から取り出した、両端が縛られた紡錘状の藁の包みを開いた。中には焦げ茶色の豆がぎっしりと詰まっている。


 臭い。


 ガンズは思わず後ずさるハナコを見ながら、その一粒を箸でつまみ上げた。

 糸が引いている……


「なんだそれは?」

「ナットウじゃ」

「だから、なんなんだよ」

「大豆を発酵させて作った食べ物で、これがまたなかなかの健康食なんじゃよ。《以前》にはまさに腐るほどあったんじゃが、《以降》ではなかなかお目にかかれなくてな」


 言って、笑うガンズ。


 ガンズが言う、《以前》と《以降》とは、そのまま四十年前に起きた独立戦争以前と独立戦争以降を指す。


「五番から手に入れたのか?」


 地獄の九番から遠く離れた、山向こうの《クニオ五番街》は、街とは名ばかりの農村地帯で、おもに一番、二番街に暮らす《貴族》たちへの食糧供給源になっている。


「そうじゃ。半分はわしが食べるが、あとの半分は売りさばくつもりだ。お前らドン・イェンロンから、なにも聞かされていないのか?」

「オヤジはブツの説明はなにもしてくれないよ。あたしたちに、外のことはあまり教えたくないらしくてね」

「まるで飼い犬じゃな。鎖でつながれ、目と耳まで塞がれとる。生きてて楽しいか?」

「楽しく生きてるヤツなんて、この街にいるの?」

「ホッホ、飼い犬には似合わぬ強い目じゃ」

「ネエさん、さっさと帰りましょう」


 トキオが苛つきながら二人を遮った。


「せめて一口は食べてみろ」


 ガンズは慣れた手つきでナットウをかき混ぜ、その一塊をすくい上げてハナコの鼻先まで運んだ。


 改めて思う、今まで嗅いだこともない臭いだ。


 だが、目の前の憎たらしいジイさんにナメられるのはごめんだ。

 負けん気に負けて、ハナコは息を止めたままナットウを口に入れた。


 初心者にとって、あまりに刺激の強い味と臭いが、口内を駆け巡る。


「ぐっ……」


 吐き出すのをこらえるハナコを笑い、ガンズは、窓縁に置いていた謎の液体の入ったビーカーを差し出した。


「それで飲み下してしまえ」


 すでに屈辱と反発心で頭がパンク寸前にまで差し迫っていたハナコは、言われるがままにそれを一気に飲み干した。


 途端に、生ゴミをぶち込まれたかのような臭いが口内で爆発する。


「キュンッ!」


 マヌケきわまりない声を漏らして、ハナコはのけ反るように床へと崩れ落ちた。


「ネ、ネエさん!」


 相棒の叫び声をはるか遠くに聞きながら、鼻っ柱の強い三つ編み少女は恍惚と不快の渦に沈んでいった……


◆◆◆


 ……こめかみを、まるで万力に締めつけられているような痛みで目を覚ますと、電線に細切れにされた雲ひとつない青空が、視界いっぱいに広がっていた。


 雨は、いつのまにか、やんだようだ。


 すぐに、自分がリアカーに乗せられているのに気がつく。


 起き上がって振り向くと、トキオが息を切らしながらリアカーをく姿。


「トキオ……」

「お、気がつきました?」

「まさか、気を失ってたの?」

「はい。ありゃ毒です、まちがいない。ネエさん、泡を吹いてましたよ。まあ、イイモノを見れたなとは思いますがね」


 笑うトキオの背中を小突いて、ふたたび空を見上げると、そこには目をみはるほどキレイな虹がかかっていた。


 まだ母が生きていた頃、空に虹が架かるたび『虹のおとぎ話』を聞かされたものだった。

 あの話は好きだったけど、今はもうあまり思い出すことも少なくなり、地獄の九番の生活に追われるうちに、いつのまにか空を見上げることさえ忘れてしまっていたようだ。


 だから虹を見るのは、本当に久しぶりだった。


「雨上がりには虹が出る、か……」

「え、なんです?」

「なんでもない。それより、すまないね」

「いえ、おれにできるのはこれくらいですから」

「リアカーは、ジイさんの?」

「ええ、ぶんどってやりましたよ。ハハハッ」


 のんきな笑い声に、少しだけ救われる。


 五つも年上なのに、組んだ頃から「ネエさん」と呼んで尽くしてくれるトキオは、失敗ばかりやらかす頼りない男だが、それでもいい相棒だとつくづく思う。


 トキオは、もとは《クニオ六番街》の出身者であり、そこでを起こして地獄の九番まで身を堕としてきた、いわゆる《脱落者ディフェクター》だった。六番街での失敗のことをトキオはあまり語りたがらず、なにが原因でここまで堕ちてきたのか、未だにハナコは知らなかった。


 トキオと組んでからもう二年は経つだろうか?


 鼻をすすりながら、「二年前、あたしはまだ十五だったな」と懐かしんでみたが、楽しかったことは、なにひとつ思い出さなかった。


「気が強いのはけっこうですけど、危険に飛び込むことだけが勇気じゃありませんからね。差し出がましいかもしれませんが、ちょっとは慎重さも身につけたほうが身のためですよ」


 トキオが珍しく、説教じみたことを言う。


「……ああ、いま胸に刻み込んだ」

「ハハ、大げさな。おれはオヤジじゃないですよ。まあ、店に着くまで寝てて下さい」


 言われてあおむけになったハナコは、うずく右太ももの古傷をさすりながら、ふたたび虹をながめた。


 遠い。


 ものすごく。

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