episode 5

「まったく……とんだウェネの思い違いだったじゃないの」


 瑞々しく果肉がはちきれそうな夏蜜柑にフォークを刺して口に放り込み、フィカは恨みがましく睨めつけた。


「あの標的女の人、私のひいおばあさまの管轄だったのだけれど、全然あの時が死期なんかじゃなかったじゃない」

「ごめんごめん。あの再試は暴風だけどうにかすれば良かったみたいだね。お陰様で合格したからこうして長期休みになったよ。ありがとうって」


 汗をかいたグラスの中で氷を掻き回し、ウェネはフィカから眼を逸らして蜜入り紅茶を飲み干した。


「詳細聞いてなかったけど、あの手紙、あの女性ひとのお父さんからのだったって?」

「そうよ。男性……のちには彼女の旦那様だけど、彼は職人さんで、そのお師匠が女性の父親。あの日より少し前に亡くなったお師匠様が、お弟子さん……あの男の人に渡すよう書いた手紙ですって。彼女が悔やんでいたのはそれが渡せなかったことだった、って言うのがひいおばあさまの説明」

「恋文じゃなかったんだとはねぇー。ざっと見ただけだけど、弟子への奥義伝授とか?」

「それもないとは言わないけれど、弟子に伝えたい感謝とか心得とか、色々だったということよ」


 フィカは目の前の若葉色に透けるグラスから苔桃のムースを掬う。砕いたピスタチオのエメラルドがグラスに落ち、乳白色のソースを飾った。一口ムースを楽しむと、フィカはホイップの乗ったコーヒーのカップを手に取る。


「私も、あんなにたくさんの使役魔がいたから、ウェネの言葉を信じてしまったけれど」


 でしょ、と言い訳の機会を得たとばかりに眼を輝かせてウェネが顔を上げた。


「あの娯楽施設の向こうに墓地とか思わないじゃないか。しかも飛んだが霊が帰ってくる万霊節だなんてさ」


 フィカ達の世界の死神に仕える使役魔が霊を迎えにいくのは、生命が途絶える時だけではない。死者の魂が一年の決められた時に地上へ短期帰省(死神達はこう呼ぶ)する時にも、黄泉と現世の出入り口になる墓所まで送り迎えをするのだった。


「それも相当、あの使役魔を遣わせたひいひいお爺さまに怒られたわ。邪魔したのはお前か、と。使役魔は殺さないで退散させただけだったからまだ良かったけど……代わりに怒られて欲しかったくらいよ」

「ごめんって。ほら、機嫌直してよ。約束通り、フィカのお願いきいたからさ」


 この通りとウェネは手を合わせ、片目を開けてフィカの様子を窺った。それにつられてフィカもつい、しかめっ面を緩めてしまう。

 くすり、と笑って、目の前に並んだ品々の間でフォークを迷わせる。このレストランの特別プレート、その名も「海の煌めき」。玉虫色に光る貝殻付きの生の魚介類にディルとオリーブ、トマトを刻んだソース。滑らかな帆立のポタージュにはパセリを混ぜた翡翠色のクリームが線を描く。パンの上ではアメリケーヌとチーズが香ばしい音を立て、その横の鱈のスフレの表面では澄ましバターが色付き黄金色に輝く。

 スイーツプレートも全てのデザートメニューを盛り合わせたものだ。カスタード入りのフィスタージュ、木苺のシャンティと黒すぐりのコンポートを間にして積み上げたジェノワーズ、ナッツと蜂蜜のペーストを挟んだサンドイッチ、滑らかにとろけるルビーチョコレートのムース、シトラスとホワイト・チョコレートのムラング……薔薇やカーネーション、カルミアとミントで飾った皿。

 風通しの良いカフェのテラスから向こうには、対岸に魔法学校の寄宿舎を望む入り江が見える。きらきら水面が光って眩しい。春の穏やかな陽気の中では潮風すら心地よい。フィカが再試を手伝う代わりにウェネに出した「交換条件」だ。


「そういえばフィカ、今日何か感じ違うね」

「え」


 突然言われて、フィカはコーヒーカップを傾ける手を止めた。

 普段はゆるく結ぶだけの灰青の髪を、今日は後ろへ三つ編みに編んで結い上げた自分の顔が、カップの中に映る。足元こそ飾り気のないいつもの虹色の靴だが、服も普段の灰色の長衣ではなく、薄紅色の花の刺繍を襟元に施し、短い袖の縁がふわりと波立つ真っ白なブラウス。座ってしまうと見えないが、月の光と星屑を集めて作った濃紺のスカートは、歩くと星辰と同じように一瞬、一瞬、光を変える。


「ウェネなのに、気づいたのね」


 わざと斜めに見上げて言ってみる。ところがウェネは、妙に心配そうな顔つきになった。


「いつも少食なのに……こんなに地上食、食べていいの? 帰れなくなる……って!!」


 膝に走った激痛にウェネは椅子の上で悶え、何すんだ、と涙目でフィカを訴えた。フィカはウェネの抗議を無視してフルーツ・タルトにたっぷりアーモンド・リキュールのクリームをつける。


「覚悟しておいて。たくさん食べて、春の間ずっと付き合ってもらうから」


 薄く桃色に色付けた唇を遠慮なく大きく開けて、クリームの乗った白桃を口に運ぶ。ちょっとビターなリキュール・クリームのおかげで、果物の蜜がいっそう甘い。


 ——今日は楽器を置いて、夜まで潮騒と鴎の鳴き声を聞こう。


 Fin.

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