第9話 此花学園

「げっ」


 佳奈が今までに聞いたことのないそんな声を漏らしたのは、デイジーの花の前で写真を撮ったあと、まだ時間に余裕があったので、みんなで屋台を回っていた時だった。


「あ、佳奈ちゃん久しぶりー」


 フランクフルトを片手に、少し離れたところから、元気いっぱいの陽葵がこちらに向かい手を振っている。グリーンのワンピースにカンカン帽という初夏らしい服装をしていた。


「別に久々ではないやろ」


「連絡しても全然お返事くれへんしー」


「あんまりメールよこさんといてって言ったやん」


「そうやっけ?」


 わざとらしい陽葵の言動に佳奈の眉根に皺が寄る。苛立ちを隠す素振りを見せないのは、陽葵に心を許しているからだろうか。人の懐に付け入ることは、陽葵の十八番なのかもしれない。


「えっーと確か、朝日高校の子やっけ?」


 警戒心が演出するめぐのぶりっ子な素振りに、陽葵もニッコリと笑顔を繕った。「陽葵です」と行儀よくお辞儀をされて、「めぐです」とめぐもパッと頭を下げる。


「今日はツインテじゃなくてポニテなんや?」


「本番やから」


「ふーん。めぐちゃんは、ピアノやったっけ?」


 コクリとめぐが頷く。白い歯を覗かせる陽葵の笑みは崩れない。


「クリスマスの時の演奏すっごく良かったわー」


「ありがと」


「それとおせっかいかもやけど、ツインテの方が可愛いと思うで?」


 歯に衣着せぬ陽葵の物言いに、かぁーとめぐの耳が赤くなっていく。これほど照れている彼女を見るのは初めてだった。


「う、後ろの二人は?」


 照れをごまかそうとめぐが陽葵の後ろを指差した。陽葵にばかり気をとられていたけど、そこには見たことのない女子二人がいた。陽葵の同級生かな、なんてみなこの想像をすぐ否定するように、「こっちは此花このはな学園のジャズ研の二年でー」と陽葵からの紹介が入った。


「ようやく紹介してくれたな」


 陽葵の紹介に、短髪で背の高い女子が、もう一人の大人しい印象の女子を引っ張るようにして前に出てきた。


「あたしは、上島明梨あかり


 よろしく、と手を差し出され、みなこは勢いのままその手を繋いでしまう。ぐっと込められた力は、嫌がらせのようなものじゃなく、親しみを込めた心地のよい加減のものだった。


「そいで。こっちのちっこいのが、安原やすはら詩音しおん


 みなこと繋いだ手とは反対の手の親指が、彼女の隣を指差す。黒い長袖のスウェット生地のパーカーを着た大人しそうな印象の女子が、「ど、どうも」と怯える仕草で頭を下げた。


 胸元まで伸びた長い黒髪がとても艷やかで、呼吸の仕方や身につけている服から育ちの良さを感じた。目尻の小さなほくろが、色白の肌にささやかなセクシーさを添えている。


 一方で、明梨の印象は詩音とは正反対だった。言葉をハキハキと話すし、Tシャツにジーンズと言ったラフな服装で、態度もガタイも大きい。綺麗に引き締まった筋肉が短い袖からひけらかすように顔を出していた。スポーツに活かせそうな恵まれた体躯だけど、何かやっていたのだろうか。楽器だけをするのは勿体ないと思った。シャツには、派手なサングラスを掛けたドレッドヘアーの黒人の顔がプリントされている。


「あ、確か、あんたはギターやったやろ?」


「う、うん」


「去年のJSJFでの演奏聴いたで。とっても良かった」


「あ、ありがとう」


 みなこの手の甲に食い込む明梨の指先が、僅かに固くなっているのを感じた。わざわざ注目して見てくれていたことを加味すると、おそらく彼女がやっている楽器は――――。


「あたしもギターやで。ほんでもって、この子がトランペット」


 真っ先に過ぎった思考は意外だった。それは明梨ではなく詩音の方。花形であるトランペット奏者にしては、彼女は大人し過ぎる。それが定番の持ちネタなのか、「こんな性格やのに、この子はトランペットやねん」と明梨がケラケラと大きな笑い声を上げた。詩音はすっかり恥ずかしそうに頬を赤くしている。


「此花学園っていうと大阪の?」


 訊ねたのはめぐだった。「有名な高校なん?」と七海が首を傾げる。


「ほぉー、うちらのこと知らんとは、なかなか挑戦的な子やな」


 みなこの手を握っていた明梨の手が解けて、すっと七海の方へと伸びていく。みなこの隣を横切って、明梨は後ろで控えていた七海の前に立った。二人の身長差は、十センチ以上あるため、七海は明梨を見上げて、敵対心を顕にするように目を細めた。その目に恐れの色はない。


「で、有名なん?」


「あんたに知られてないってことは、それほどなんかもしれんな」


「ふーん」


 ひどく冷たい視線をそらして、悪態をつくように七海はフランクフルトにかじりつく。弾けた肉汁が制服に飛んでしまわないか心配になった。


「此花学園は、一昨年に創部されたばかりの高校。去年の大会前に、期待の新星やって、説明してもらったやろ!」


 怪訝な空気を不安視しためぐが、叱咤のような口調で七海に向かって言い放った。


 此花学園のジャズ研は、創部した年のJSJFで圧倒的な演奏を披露して、大会を席巻した。最優秀賞には届かなかったものの、参加一年目で優秀賞といくつかの個人賞を獲得している。ちなみに去年も、此花学園は優秀賞を獲得している。


「あんたはドラムの子やったな」


「そうやで」


「クリスマスライブの演奏は少し走り気味やったな」


「ちょっと明梨」と窘めようとする陽葵の腕を明梨が振り払う。


「他の子たちが上手くても、あんたのドラムがお粗末なせいで全体のクオリティーが下がる」


「それくらい分かってるって」


「ほぉ?」


 お祭りのざわめきの中へ明梨の吐息が消えていく。それを飲み込むみたいに七海が語気を強めた。


「やから毎日練習してるんやんか!」


「どんな?」


「聞いて驚かないでよ! 演奏中に慌てないよう、普段からおしとやかに振る舞ってるんやで!」


 まさかの練習法に、みなこは心の中で「なんじゃそりゃ」とツッコミを入れる。というか、普段、あれでおしとやかに振る舞っているつもりだったのか。内緒の訓練には悪いが実を結んでいるとはお世辞にも言えない。


 険悪なムードに七海が余計な水を差したせいで、大きな決壊が起きるのではないかと心配したが、結果から言えば、みなこの杞憂に終わった。


 七海の言葉に、「それは分かる!」と明梨が声を明るくしたのだ。


「普段からおしとやかにしとけば、演奏中も先走ることがなくなるか……。たしかに詩音はリズムが安定してるな!」


「でしょ! ようやく話の分かる人が表れた!」


 話がよく分からない方向に流れていくのと同時に、場の雰囲気が穏やかなものに変わっていくのを感じた。二人の着地点の分からない会話は続く。


「やっぱり言葉も変えた方がええんかな? あたしってコテコテの大阪弁やからさ」


「ほぉー、言葉か……。お嬢様っぽくするとか?」


「なるほどですわ!」


「ええ感じやん! いや、ええ感じですわ」


 お嬢様言葉と関西弁の中間のイントネーションで発せられた笑い混じりのご機嫌な声が、青く澄んだ天高い空へと抜けていく。みなこは空に張り付いたような白いちぎれ雲を見つめ、揉め事にならなくてよかった、と浅く息を吸い込む。


 青い草花の香りと屋台の食べ物の匂いが鼻腔に優しい刺激を与えた。遠くから聞こえてくる音楽。自然と文化が絶妙な塩梅で混じり合っている。このイベントの心地よさは、そこにあるのだと、みなこはようやく気がついた。


「ごめん、明梨ってあーいう子やねん」


「いや、それはお互い様や。私らには知りえんけど妙に波長があったらしいな」


 陽葵とめぐが見つめ合いながら溜め息を漏らした。額に手を当てて、やれやれと声を揃える。自分たちと陽葵は、思わぬところで似た苦労を抱えていたらしい。みなこも二人に同情の深い頷きを送る。


「陽葵ちゃんとは大会で?」


 こちらも波長が合ったのか、奏が優しく詩音に話しかけていた。うるうるとした瞳を奏の方へ向けて、詩音はコクリと頷いた。


「明梨ちゃんが陽葵ちゃんに話しかけた」


「明梨ちゃんは、積極的ってぽいもんね。詩音ちゃんと明梨ちゃんもそうやって知り合ったの?」


 奏の問いに詩音は少し逡巡してから、小刻みに首を横に振った。


「違う。私から声を掛けた」


 噛み締められた唇と短く吐かれた息には、どこか誇らしさが混じっている気がした。二人の出会いがどんなものだったのか、みなこに想像がつかなかったけれど、奏は何かを察したように口角を上げて、詩音に穏やかな視線を送る。


「そっか。詩音ちゃんって優しいんだね」


「ううん。明梨がとってもいい子やったから」


「そっか」


 身長の差があるせいか、二人がまるで姉妹のように見えた。存外というべきか、奏は面倒見が良い。


 腕時計に視線を落とした陽葵が、「そろそろ時間ちゃう?」と時計の文字盤を指で叩いた。みなこもスマートフォンで時間を確認する。


「ほんまや、もうすぐ集合時間や。早く、戻らな」


「ステージ楽しみにしてるでー」


 よほど気があったのか、明梨と七海はずっと話し込んでいた。「ほら戻るで!」とめぐが七海の首根っこを引っ張る。


「うわぁー、本番や……緊張してきた」


 どうやら緊張をしていなかったのは、本番までの時間があったかららしい。不安そうにする七海の背中に向かって、「がんばれ!」と明梨が激励を送った。  

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