第6話 濃霧の彼方

 中間試験も無事に終わり、ジャズ研もイベントに向けて、残り少ない活動を再開した。本番は土日。テスト明けの木曜日と金曜日は、短縮授業となるため、毎年、練習時間を多く取れる。


「うそっ!」


 休憩中につぐみの練習を見て上げようと思い、小スタジオを訪れたところ、つぐみ、すみれ、佳乃の三人が仲良く談笑していた。どうやら佳乃もつぐみとすみれの様子を見に来たらしい。佳乃は、ビッグバンド合格者であるが、つぐみとすみれは次回の合格を目指し別で練習に励んでいる。


 みなこが扉を開けた瞬間に聞こえてきた驚きの声は、すみれのものだった。


「みなこ先輩はテストどうでしたか?」


 入室してきたみなこに気がついた佳乃が、おっとりとした口調とともに視線をこちらに向けた。つんと跳ねた前髪を彼女は細い指先で押さえる。


「テスト? そこそこって感じかな」


「みなこ先輩は、数学が得意なんすよね!」


「まぁ、比較的ね」


「尊敬するっす!」


 尊敬という単語は、つぐみの口癖の一つなのだろう。尊敬の安売りは如何なものかと思うが、彼女の本心ではあるはずなので、控えめに受け取っておく。


「テストの話してたん? 三人はどうやったん? 高校、初めての試験」


「バッチリっす!」 


 大きなピースサインを作ったつぐみに対して、残りの二人は少しだけ浮かない顔をした。失礼な話だけど、つぐみが良い点数を取るイメージはなかったので、二人が謙虚なだけかと思った。良い点数の基準に個人差があるのはよくある話。つぐみに取ってピースをしたくなる点数は平均レベルであることだってある。だけど、どうもそうではないらしい。


「つぐみが一番成績いいなんて信じられない」


 悔しさというよりも驚きが多分に含まれた表情で、すみれがつぐみを見つめる。つぐみは破顔したまま、「へへへ、私も存外出来るんすよ!」とこちらにウインクを一つ飛ばした。


「そんなにつぐみちゃん点数良かったん?」


「平均95点らしいです」


「うそっ!」


「その反応はひどくないっすか!」


 流石に失礼だったと、みなこが「ごめんごめん」と謝れば、つぐみは「分かれば良いんです!」と鼻息を荒く偉そうに胸を張った。


 *


 本番前日の緊張感も随分心地の良いものに変わってきた。いつもよりも僅かに早い心臓と、期待と不安の絶妙なバランス。こうして落ち着いていられるのは、去年のイベントでカメラマンとしてステージの雰囲気をしっかり感じることが出来ていたからだろう。


 長袖もそろそろ暑くなってきたなと思いながら、パジャマに袖を捲くりあげ、ベッドに腰を下ろす。そのタイミングで、枕元に置いていたスマートフォンのバイブレーションが作動した。


 画面に表示されたサックスのアイコンを見て、みなこは慌てて通話のボタンをスライドする。


「もしもし?」


「もしもしー? みなこちゃん?」


「そうやけど」


「久しぶりー」


 声の主は陽葵だ。久々と言っても、春休みに行われた朝日高校が主催するイベントを観に行った時に会っているので、二ヶ月ぶりくらいなのだけど。「別に久しぶりでもないやろ」と、みなこが毒づけば、「寂しいこというなぁ」と彼女の可愛げたっぷりな吐息が耳朶を打った。


「急に電話なんてどうしたん?」


「ほら明日、宝塚南が出るイベントあるやろ?」


「そうだね」


「観に行こうと思ってさ」


「来てくれるん! 嬉しい」


「でしょー」


 へへへ、と喉を鳴らす陽葵の笑顔が脳裏に浮かぶ。彼女はいつも明るくて人懐っこい。みなこは枕を手繰り寄せて、あぐらを掻いた太ももの上に乗せた。壁に背をつけながら、まばゆいシーリングライトを見つめる。


「でも何で私に言うん?」


 そういうのは佳奈に言って上げるべきだ、というニュアンスは陽葵に伝わったらしい。


「だって、佳奈ちゃんに電話したらなんか不機嫌になるし」


 なるし、と言うことは何度か実行済みらしい。連絡先を交換したあの日に交わした約束は守られてはいないようだ。


 みなこがそのことを追求すれば、「くどくって言ったから」と彼女の声がいたずらっぽく歪んだ。へりくつだ。


「宝塚南の出番はいつ?」


「私たちの出番は夕方くらいかな」


「りょ。そういえば、宝塚南の一年生はどんな感じ?」


「うーん。みんないい子やで。ちょっと大人しい雰囲気はあるけど」


「そういうんじゃなくて! 演奏の話」


「あーそっちか」


 朝日高校も公立高校ではあるものの、ジャズバンドは全国で有名だ。故に、各地から朝日高校のジャズ研に入るために受験する生徒も何人かいると聞いたことがある。きっと、陽葵のような即戦力が今年も何人か入学しているのだろうと思った。


「うちはスーパースターが入ってくるような学校じゃないから」


「それでも去年は佳奈ちゃんが入った。その前はトロンボーンの笠原先輩が入ってる」


 佳奈はともかくとして、桃菜は少し毛並みが違うのかもしれない。彼女が音楽を始めたのは、高校でジャズ研に入ってから。同期の杏奈の心を折り絶望させるほど恐ろしいスピードで成長していった。宝塚南の急激な成長があるとすれば、桃菜のように覚醒する隠れた素質の入部しかないのかもしれない。


「今年はどうかなぁ」


「イマイチなん?」


「そんなことないよ。トロンとサックス、トランペットには経験者の子が入って来てくれたし。でも、みんなジャズは初めてで慣れていってるところ」


「小、中の頃からジャズに慣れ親しんでる子は少ないからな。正直、うちの部も吹部かブラスバンド上がりって子が大半やで」


 朝日高校ですらそうなのだから、入部してくれた新入生の大半が楽器経験者だったことに感謝するべきだろう。おかげで、ビックバンドでも去年と遜色ない選択肢と音のバリエーションを保つことが出来ている。もちろん、三年生が抜けた穴は大きいけれど、残りの半年で詰めていくしかない。


「みんなで上手くなっていくしか無いよなぁ」


「それは真理やな。もちろん一人でやって上手くなっていく人もいるんやろうけど。そこにはいつか限界が来ると私は思ってる。バンドだからこそ奏でられる音があって、その時のメンバーだからこそ生まれる音楽がある。瞬間、瞬間の音を楽しむのがジャズやからな。楽しんで成長していけば、立ちたい舞台に辿り着くって信じてる」


 少しクサかったかな、と陽葵が柄にもなく恥じたように声を細めた。「そんなことない」とみなこは見えないだろうけど、首を小さく振ってみせる。まだ僅かに濡れた髪が壁紙を優しくなでた。


「陽葵ちゃん言ってたやん。プロになるって。佳奈にも同じ夢があって。私は二人がいつか同じプロの舞台で共演してるんじゃないかって思う」


 陽葵の雰囲気に飲まれたせいか、明日の本番で舞い上がっているせいか、陽葵の言葉に乗せられたのか、みなこもついクサイ言葉が出てしまう。けれど、妙に恥ずかしくないのは、出てきた言葉が本心だったからだ。


「ありがと。でも、みなこちゃんは?」


「わ、私?」


「将来、どうするん?」


「まだ分かんない。けど、私がプロになるっていうのは無謀かなって思う」


「そっか」


 強い否定の言葉が陽葵から出てこないのは、みなこ自身の言葉は、客観性を良く持っていたものだったからに違いない。みなこには佳奈や陽葵ほどの才能や実力はなく、プロを目指す器でないと陽葵も感じているのだ。


 それでも、陽葵は甘い香りがスピーカー越しに漂って来そうな吐息を吐きながら続けた。


「みなこちゃんのギターは優しくて好きやで。バンドを一つにまとめる力がある。佳奈ちゃんや笠原先輩、去年の織辺先輩のように、みんなを引っ張って別の次元へ連れていくことは出来ないかもしれないけど。みなこちゃんみたいな、人をまとめられる素質を持った人はバンドには必ず必要」


 それは去年のみちるのような役割だろうか。優しく温もりのこもった陽葵の言葉には、慰めのようなニュアンスはなく、純粋な本音だけが込められている気がした。


「自分の役割は分かってるつもり。色んなピースが揃って音楽が成り立っているってことも。その一つひとつが重要で無駄なものなんてないってことも」


「そうだね」


 明るい声がみなこの鼓膜を揺する。腿の上にある枕をギュッと握りしめた。


 もし、遠い将来、佳奈と陽葵がお互いプロになったとしたら、二人は何度も舞台の上で共演するはずだ。だけど、みなこは……。霧がかかったような自分の未来は、想像すら出来ない。


 迫りくる受験、就職、将来……、そういう濃霧の彼方にあるものを考えると頭が痛くなってくる。遠い問題は先送りにするのが自分らしさだから。けど、霧の中でも目の前に見えているものがある――――、


「佳奈と舞台に立てるのは今だけやと思う。やから……、この時を懸命に楽しみたい!」


「そっか」


「陽葵ちゃんともいつか一緒にやりたいな」


「それは私も!」


 佳奈と立てる舞台の数は、指折り数えられるだけなのかもしれない。その事実は恐ろしいほど寂しくて、けれど同時に、すごく誇らしくもあった。


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