第3話 一番

 クリスマスまで一週間ほどとなり、教室内は年末最大のイベントごとと来たる冬休みにどこかざわめきだっていた。


「どう売れ行きは?」


 中腰になっためぐが、みなこの前の席の七海に問いかけていた。


 七海は、二年生の杏奈とともにチケットの窓口をやっており、各公演の売れ行きを計上している。チケットは無料なので、売上を勘定しているわけではないのだが、各公演には定数もあり、尚且、今回は人数分のお菓子も用意しなくてはいけない。それに外部からの訪問者は照会が必要なので、その管理も行っていた。


「結構、埋まって来てるで。もうちょっとで全公演予定集客数って感じ」


 七海がA4サイズの紙を、めぐの顔の前に突き出した。どうやら売上が記載されている資料らしい。


「ほんまや、私らの公演もちゃんと売れてるんやな」


「意外とうちらの演奏を楽しみにしている人はいるのです!」


 鼻息荒く七海が胸を張る。水を差すようで悪いと思ったが、「二年生が店番するからっていうのもあるんちゃう?」とみなこは前の席に向かって平たい声を出す。


「あー確かにそれはありそう」


 コロコロとした声を出しながら、めぐは机に頬をつけてこちらへ視線を向けた。みなこたちと話しているから気は抜けているはずなので、あざといこの仕草は天然のものだろう。ふわふわとした雰囲気と時折さらけ出されるガサツな物言いがめぐの魅力だ。


 大きく広がったツインテールを七海がふっと息で弾き飛ばした。


「なにすんのよ!」


「吹きたくなってんー」


 バッと勢いよく持ち上げられためぐの形相を見たはずなのに、七海は明るい声を漏らす。


「私の髪は蝋燭か」


「お誕生日!?」


「違うわ!」


 乱れたツインテールを細い指で梳きながら、めぐは立ち上がった。紺色のブレザーの下には、春先も着ていたピンクのカーディガンが見える。


 みなこは覗き込むようにして、七海が持っている資料を眺めた。


「二年生の一公演目は予定数に達してるやん」

 

「うちらの公演もホンマにあとちょっとやで!」


 後ろから覗き込むみなこが見やすいようにと、七海は紙をこちらへ近づけてくれた。若干、浮かせていた腰を椅子に戻して詳細を眺める。


「校外からも結構来てくれるんやな」


 資料には校外から来る人の名前が羅列されていた。個人情報をこうも気軽に見て良いものかとも思ったが、記載されているのは、予約番号と名字、必要なチケットの枚数だけだから、それほど問題はないはず。


 校外からのお客さんは、こうしてチケットの取り置きをする手はずになっていた。


「保護者の人もおるんやろうけど、私らの公演にも校外からお客さんが来てくれるのは嬉しいなぁ」


 めぐが染み染みと呟く。声音に安堵のニュアンスが多く混じっていたのは、自分たちの公演だけ人が入らなかったらどうしよう、と責任を感じていたからだろう。

  

「昨日も他校の子に頼まれて、うちらの公演のチケット取り置きしたで」


「へぇ、他校からも来てくれるんや。どこの高校?」


「朝日高校ってとこ!」


「この間、JSJFで最優秀賞取ったところやん」


「ほぉ!」と声を上げた七海に、「あんただって大会に出てたでしょが」とめぐが呆れた声と嘆息を漏らす。


「でも、二年生の公演なら分かるけど、わざわざ私らのところに?」


「同じ一年生やからちゃう?」


「一年の子なん?」


「松本陽葵って子やったかな」


「えぇ!」


「あれ、みなこの知り合いやったん?」


 本当にこの子は同じ大会に出ていたのだろうか。表彰式にはちゃんと参加していたはずだが。顎に指を当てて、うーんと唸る七海の後頭部に軽くチョップを入れてやる。


「サックスで個人賞取った子やん」


「おぉ! すごい子やねんな」


 脳内を過ぎったのは、陽葵をライバル視している佳奈のことだった。個人賞をかっさらっていった彼女が観に来るとなれば、より気合いが入ることだろう、と。佳奈に限ってそういうことは無いだろうけど、空回りしないか少しだけ心配だった。


「でも、七海のところに直接言ってきたん?」


「ううん。先輩同士が知り合いやったらしくて、ライブには別の朝日高校の人たちも来るんやけど。陽葵って子は、一年生の公演を見たいからってチケット頼まれてん」


 となると、やはり彼女は意図して佳奈を観に来るということだ。二人の実力は拮抗している。佳奈が個人賞を受賞しても何らおかしくは無かった。けれど、朝日高校が最優秀賞を取ったということが個人賞選出の理由の一つだろう。朝日高校は他の上級生を差し置いて、陽葵をメインに据えて演奏を行った。あの最優秀賞は、陽葵が取らせたと言っても過言ではない。つまるところ、MVPというわけだ。


 一応、佳奈にも報告しておこう。昼休み前は選択授業の音楽で佳奈と一緒になる。陽葵が来ると知り、気合いの入る佳奈の表情を想像して、みなこはくすりと笑みと溢れた。



 *


 音楽室に行くと優しいピアノの音が響いていた。ドビュッシーの『月の光』、弾いているのはめぐだ。どうやらクラスメイトにねだられたらしい。

 

「めぐちゃん、クラシックやってただけあってやっぱり上手やな」


 ガットギターを抱えた佳奈が、こちらに近づきながらとつとつと呟いた。どうやら今日の授業で使うものらしい。配られた楽譜を仕舞っている青色のファイルを机の上に置き、みなこもガットギターが仕舞われている棚の方へ向かう。


「ジャズの時と音の雰囲気が違うよな」


「うん。けど、柔らかい音が出せるのもめぐちゃんの魅力やと思う」


 ジャズとクラシックでは求められることが違う。楽譜の再現性が求められるクラシックに対し、ジャズはアドリブなどの独創性が求められる。めぐはそこに苦戦していたが、いまではすっかりジャズ・ピアニストだ。完璧に暗譜していないせいかもしれないが、いま演奏されているドビュッシーも少しばかりアドリブが入っているように聴こえた。


「そういえばさ、」


 なるだけ弦が綺麗そうなものを手に取って、みなこは佳奈の方を振り返った。真っ黒な瞳がめぐが織りなす月の光の中で揺れている。


「朝日高校の松本陽葵ちゃんっておるやん。この間のJSJFで個人賞取った子。私らのクリスマスライブに来てくれるみたい」


「ほんまに?」


「う、うん」


 ギターの抱える佳奈の手に力が込められる。あー、これは相当やる気にさせちゃったな、とたじろぎながら、みなこは徐々に変化していく佳奈の表情を見つめた。月の光に揺れていた瞳は、すっかり真っ赤な太陽みたく燃え上がっていた。


「向こうも佳奈のことを意識してるってことかな?」


「まるで私が意識してるみたいやん」


「違うん?」


「そりゃ、ちょっとは気になってるけど」


「いいライバルなんちゃうの?」


「この間、個人賞を取れなかったのはたまたま、」


 そこで言葉を濁して、佳奈は踵を返した。一歩踏み出そうとして、浮かせた足を、またその場に落とす。


「……松本さんは確かに上手やった。けど、松本さんに勝たなくちゃ、プロではやっていけない、……それどころかプロになれるかも分からん。そうやろ?」


 訊ねられたのは覚悟の話だろうか。最後の言葉だけこちらに顔を向けて、佳奈は首をわずかに傾けた。


 そうそう誰もがプロになれるわけじゃない。毎年、どれだけの人がプロになるのか分からないけど、少なくとも活躍している人たちは、世代トップの人たちであることは明白だ。


 そもそもプロになるということの本質は、さらなる高みを目指すためのスタートラインに立つということだろう。もちろんこれは、音楽だけに関わらず、スポーツでも文化系のプロでも同じ。積み重ねていく年齢という篩に幾度もかけられては、そこを勝ち抜き、トップを守り抜いた人たちだけがプロの門を叩ける。


「プロの枠が一枠やと私は思わんけど、個人賞の枠は一枠だけで、佳奈はそこも拘ってるってこと?」


「だって、二番よりも一番の方がプロには近いやろ」


「それはそうやろうと思う」


 つまり、音大へ行くだけでプロになれるわけはなく、音大へ進んだあとにも競争があり、そこを勝ち抜いていかなくてはいけない。それなのに、いまの段階で負けていてはプロになんてなれるわけがない、と。いくら陽葵が上手い演奏者で、ライバルであっても、自分が同世代のトップではないという事実が、佳奈を焦らせているんだろうと思った。


「みなこは、私と松本さんどっちが上手やと思う?」


「私ひとりの意見で個人賞の判定は変わらんやろ?」


「そこは私って言ってくれへんねや」


 はっきりと好きと言ってくれない彼氏に対する彼女の拗ねたような目がみなこを見つめる。それが愛らしくてつい意地悪をしたくなった。


「来年は、はっきりと佳奈って言わせてくれるんやろ?」


「頑張る。たくさん練習する」


 それじゃ、朝練でもしてみようか? そう言おうと思ったが、合宿の時のことを思い出しやめた。佳奈は朝が苦手だ。彼女は音楽教室にも通っているし、家には防音室もあるというから、わざわざ苦手な朝に無理する必要はない。


 けど、自分だけこっそりと始めてみるのも悪くないかもしれないとも思った。秘密の朝練特訓。舌の上で転がしたその響きは、実に青春っぽくて心地が良かった。

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