第2話 防衛術

 阪急西宮北口駅の改札を抜け、人波に従ってショッピングモールに続く連絡デッキを進んでいく。一歩先を歩く黒のコートに置いていかれないように、みなこはわずかに歩幅を大きくした。


「早かった?」


「別に大丈夫」


 優しさを向けられて、みなこは視線を自分の真っ白なスニーカーに落す。黒のソックスにチェック柄のプリーツスカート、他所行きのコートまで着込んで目一杯のお洒落をしているのは、別に航平と一緒だからというわけではない。文字通り他所に行くことになったからだ。


「すぐ人混み抜けるやろうからはぐれんようにな」


「子どもちゃうねんから」


 航平が足早になったのは、周りの人波に合わせたせいだということは分かっていた。金曜日とは言え、すっかり日が沈んだ平日のこの時間、誰も彼ものんびりはしていない。早く買い物を済ませて、家路を急ぎたい気持ちが群衆からは溢れていた。


「制服のままでも良かったかもな」


「でも、制服でぶらつくにはちょっと遅くなり過ぎるから」


「まぁ、そうなんやけど」


 コートの襟元から白のパーカーが覗き、航平の手がその首元を撫でる。少し高い位置にある彼の背中は、イルミネーションが瞬くショッピングモールのコンコースの方へと流れて行った。


「首元、寒くないん?」


「まだ大丈夫かなぁ。パーカーってわりと温かいし。みなこは寒いん?」


「だから、マフラーしてんでしょうが」


「そりゃ、そうか」


 ケタケタ、と軽い笑い声は濃紺の寒空へと溶けていく。大会のあった先週までは、まだまだ秋の心地だったのに、カレンダーに合わせるように季節は一気に冬へと移ろった。


「そういえば、そのマフラー去年もしてたな。お気に入りなん?」


「うーん、まぁそうかな。でも、ちょっとほつれてきてるところがあるから、買い替えなきゃと思ってたんやけど、急に寒くなったからタイミングを逃してて。……って、なんで去年もこのマフラー着けてたこと知ってんの?」


「受験の時、着けてたやん」


 みなこは灰色のマフラーをぐっと抑える。ふーん、と喉を鳴らして息を吐いた。一瞬だけ過ぎったなんとも甘い思考は、吐息と一緒にショッピングモールの温もりの中へ消えていく。


 どうしてこんな時間に、ショッピングモールへやって来たか端的に言うと、佳奈に余計なはからいをされたせいだ。無事にクリスマスライブのセットリストが決まり、明日から練習に入るのだが、そのための楽譜が揃っておらず、調達してきて欲しいと頼まれた。


 奏とめぐは用事があるらしいから仕方ないとして、音楽教室の日でもない佳奈は一緒に買いに来られたはず。なのに、七海をわざわざ足止めして、航平と買いに来させるなんて――。


 余計なお世話以外の何物でもない。


 案内板を眺めようとする航平に、「東館の三階やで」とエスカレーターを指差す。


「詳しいな」


「学校の帰りに何回か来たことあるから」


「ギターは弦をよう代えるもんな」


「むしろ航平は来たこと無いんや。トランペットどこで買ったん?」


「梅田の楽器屋さん。ほら、ロフトのところ」


「そっか、家からなら、そっちの方が近いか」


 学校の帰りに奏やめぐたちと来ることが多かったので、つい西宮を指定してしまった。


「いつものノリでこっちに来てもうた……。今日は梅田にすれば良かったかな?」


「ええんちゃう? そんなに所要時間変わらへんし、俺は初めての楽器屋の方が楽しいから」


 今度は、場所の分かっているみなこが一歩先に立ち楽器屋を目指す。すれ違う人波に自分たちはどう映っているのだろう。背伸びした格好の高校生カップルだろうか。でも、そういう距離感じゃない。手を繋ぐことも並んで歩くこともない。幼馴染であり友人である絶妙な距離感がそこには確かに存在している。一人では曖昧に思えていた線は、明確に可視化されていた。


「買わないとあかんのは何やっけ?」


 航平にそう訊ねられ、みなこはスマートフォンのメモアプリを立ち上げた。佳奈に指示されたのは三曲だ。


「『あわてんぼうのサンタクロース』『Don’t Know Why』『What Am I To You?』、他の曲は部室にあったみたい」


「『あわてんぼうのサンタクロース』は置いてるかな?」


「うーん。クリスマスの時期やしあるんちゃうかな? ジャズの楽譜はないやろうけど。どのみち佳奈が編曲してくれるし」


「井垣はすごいなぁ」


「頼ってばっかじゃあかんけどな」


「俺らが編曲を出来るようになるなんていつになることやら」


「けど、一人じゃ大変やろうし、どういう風にしたいかくらいの意見は伝えるべきなんかな?」


「難しいところやな。井垣がどうして欲しいと思ってるか、次第って感じかな」


「まぁそうなるよね」


 相手がどうして欲しいと思っているか、というのを考えるのは難しい。それはプレゼントもまた同様で。結局は本人に直接訊ねるのが手っ取り早く確実だ。


 楽器屋に着くと、二人は真っ先に楽譜コーナーへ向かった。壁に並んだギターが気になったけど、ウインドーショッピングをするのは、頼まれたお使いを済ませてから。佳奈に指示された曲の楽譜を見つけて、レジに向かおうとすれば、航平が店の奥を指差した。


「ギターとか見んで大丈夫?」


「なんで?」


「見たそうな顔をしてたから」


 みなこがムッと眉根に皺を寄せれば、航平はおっかないと言いたげに肩を竦ませた。けど、見たそうな顔をしていたのは事実だ。


「じゃあ、せっかく来たし、ギターの弦とピックも買っときますぅ」


 みなこが拗ねた口調でそう告げれば、「ほな、行こかー」と航平は楽しげに声を弾ませた。


 腹立たしさが込み上げて来ているのは、自分の返答がやけに子どもっぽかったからだ。プレゼントに悩んでいるのだって、余計な意識を航平に向けているせいで……。あっちは深い意味などなく誕生日にプレゼントをくれたはずなのに。


 いくつかの透明な枠に縁取られたケースに入ったカラフルなピックを見つめて、みなこは生暖かい息を肺から吐き出す。君たちもまたクリスマスみたいに色づいて、と。


「そういえばさ、」


 いつも使っている青のピックを摘み上げて、航平の方へ顔を向けた。キョトンとした顔がなんだか懐かしくて、ふいに漏れそうになった笑みをぐっとこらえると、溝落の辺りがチクリと傷んだ。


「航平はクリスマスになんか欲しいものある?」


「え、クリスマスに?」


「だって、誕生日やん?」


「あー。そっちか」


「そっち?」


 小鼻を掻く仕草を隠すように、航平はチューナーが並んだ棚の方へ視線をそらした。店内には試奏のベースの音が響いていて、ドスドスとした低音が心臓の底辺りを撫でてきた。そのリズムが心臓の鼓動のリズムを狂わせる。


「ほら、誕生日に定期入れ貰ったやろ。お返しせな悪いなって」


「別にええのに」


「そーいうのは、逆に気ぃ使うから」


「まぁみなこがそう言うんなら、有り難く受け取るけど」


 ふいに綻んだ彼の目元からみなこは目を逸らせなくなった。どうしてそんな顔をするのだ。懐かしさから大人っぽさへの切り替わりはまるで暦を急いだ冬みたいに、準備をしていなかったみなこを襲う。冬の寒さなら去年のマフラーを巻けば凌げるのに、無垢な青年のふいの仕草に対する防衛術をみなこは知らない。


「ほ、ほら、何が欲しいの?」


「あー、そうやな。あんまり高いものねだるのも申し訳ないし、」


 魔法みたいに視線を逸らせなくなっていたのは、みなこだけだったようで、航平は店内を見渡し始めた。気が付かないうちにベースの試奏は止んでいる。静かな店内に、知らない洋楽が流れていた。


「やっぱり楽器関係のものがええかな」


「楽器関係?」


「トランペットを拭くクロスとか貰えたら嬉しいかも」


「クロスかぁ。分かった考えとく」


 やっぱり本人に訊ねてみるものだ。確かにクロスなら値段もそれほどしないし、実用的な消耗品でもあるから、もらう方も渡す方も気を使わない。恋人っぽいお返しばかりが浮かんでいたみなこでは思いも付かなかったものだ。


 クリスマスの呪いが一つ解けたことで身体が軽くなり、みなこは弦とピックを手に、レジへと向かった。


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