第4話 萎れた花のように

 あっという間にテスト期間は終わりを迎えて、全体練習が始まる金曜日になった。この日から三年生が練習に復帰する予定だ。


 めぐは大丈夫だろうか、と今日までみなこは見守ってきたが、彼女に変わった様子はない。受験関係の説明会で遅れている三年生を待っている間に、一年生だけで演奏会の確認をしている今だって、なんとも無い顔で演奏を続けていた。


 航平が言うように、むしろ音に異変が出ているのは自分たちの方かもしれない。子どもたちが楽しめるように選んだ曲たちは、どこかしょんぼりして俯いているように感じた。


「みなこ、もっと明るく弾んだ音にしな」


「ごめん」


 呆れた様子で七海がため息をこぼす。胸元のリボンが緩んでいるのは、テストが終わった気の緩みのせいだろうか。


「どうしたん? そんなにテストの出来悪かった?」


「七海じゃないんやから」


「今回のうちはそれなりに良い出来なんですぅ」


「ほんまに?」


「数学以外、七十点は硬い!」


 胸を張れるほどではないように思うけど、決して悪くない点数だ。彼女は頑張れば、勉強だってそれなりに出来る。普段はやらないだけで。


「偉いねー」


「気持ちがこもってない!」


 こちらのやり取りを見て、めぐと奏がクスクスと笑いを溢している。こうしていると、普段と変わらない気がしてしまう。けど、何も知らないフリをしていたって、現実は常に非情で目の前にある事実を突きつけてくる。このままでは本番の舞台にめぐはいないのだ。


「アドリブとかは良くなってきてるし、技術的な向上はしてると思う。けど、大西さんが言うように、もう少し楽しそうに弾いた方がええかな」


 佳奈があまり強い口調で注意してこないのは、これがメンタリティーの問題だと分かってくれているからだろう。めぐの問題をこちらに任せてしまっている責任も感じているのかもしれない。それに彼女自身の演奏も、いつもより覇気がないのだ。それは、ほんの些細な違いだけど。いつも彼女に注視していなければ、違いに気づけないくらいの僅かなものだ。


「技術的なミスがないのは救いやな。本番になったら嫌でもテンションは上がるやろし、今日はこれくらいにしとこ。もうすぐ三年生も来るんちゃう?」


 こちらを心配してくれたのか、航平の一言で練習はそこで打ち切りとなった。



 *



 全体練習が始まったのは、それから十五分ほどしてから。知子が手を打って、準備をしていた部員が彼女に注目する。


「みなさん、お疲れ様です。大会の本番まで三週間となりました。テスト期間も明けたので、本日から本格的に大会本番に向けての練習に入っていきます。平日もセッションの時間を多く取っていきたいと思いますので、模試や用事などがあるとは思いますが、積極的な参加をお願いします」


 淡々と話す知子に様子の変化はない。めぐは、七海の隣で丸椅子に腰掛けたままその話をじっと聞いていた。


「みちる、他に何か報告ある?」


「あ、一年生は今週の日曜日に、毎年恒例の保育園での演奏会があります。明日の午後はその練習時間に割いてあげたいから、大会練習のセッションは午前中を予定しています。用事があって来れない人は、学年リーダーか同じセクションの三年生に連絡してください」



「今回は、川上先生の引率なしやけど、迷惑のないように気をつけてください。まぁ、みんなならそういうことはないやろうけど」


 こちらを見つめるその眼差しは、信頼と優しさを混ぜ合わせた色に染まっていた。みなこの知っている知子の瞳の黒だ。いつもと変わらないところを見るたび、この間の出来事が夢だったように感じてしまう。「当日の詳細は、今日の練習が終わったらまた教えるね」とみちるはめぐの方に目配せを送った。


「ほんなら、練習始めようか」


 全体練習が始まって、真っ先に感じたのは上級生のメンタルの強さだった。今回のオーディションを引きずってしまっている一年生と同じように、不満を抱いているはずの二年生の演奏に狂いはない。


 もちろん性格上の理由で気にしていない部員もいるだろう。今回の決定に、桃菜は私には関係ないというスタンスのはずだ。それに同学年の問題かどうかも関係しているのかもしれない。けれど、明らかに演奏のクオリティーが落ちている一年生に比べて、二年生の演奏はいつもと遜色のないものだった。


「はい。ストップ、ストップ」


 曲の中盤で知子が演奏を止めた。ペダルで打ち止めされた音が、重たい緊張感を部室に張り巡らさせる。何を言われるのか、覚悟が出来ている一年生はその瞬間にスッと下を向く。


「全然、鳴ってへんで? 特にギターとサックス」


「すみません……」


 下げた視線を僅かに上げて、前髪の隙間から見つめた知子の目は、いつになく厳しいものだった。大会が近いのだから、厳しくなるのは当たり前のことかもしれない。何も無ければ、厳しい指摘も愛情のあるものだと受け入れることが出来るはずだ。けど、知子の背後にめぐをオーディションで落とした思惑の影がちらついてしまう。


「ほら、調子の波はあるからね。本番まで二週間あるから焦らずに」


 凍り付いた空気を嫌ったのか、みちるが明るい声を出す。それを遮るように「けど、」と知子が怪訝そうな顔つきで口を開いた。そばにあったペットボトルを手にとって、水を口に含んでから続ける。


「もうすぐ大会。気を抜いてもらっちゃ困る。私は、井垣さんや清瀬さんのベストパフォーマンスを知ってる。こんなもんじゃないよな?」


 素直に受け取れば叱咤激励だ。知子の実力は間違いない。そんな彼女に、「あなたはもっとやれるはずだ」と言われることは光栄なことのはず。けど、みなこの中でその価値観がグラグラと揺らいでしまっている。知子の言葉を百パーセント素直に受け止められなくなってしまっているのだ。


「すみません。集中します」


 悔しさがうるうると水滴になって佳奈の瞳にまとわりついていた。プロを目指すと決めた彼女は、今この瞬間に求められているものと自分の中に生じている感情の差に戸惑っているんじゃないだろうか。


 みなこなら、「演奏なんてめぐのことが心配で集中できない」と弱音を吐けるだろう。でも、夢を目指す彼女にとって、その言葉はあまりに自分の弱さを露呈しすぎてしまっている。


 それに二年生たちは演奏に影響は出ていないのだ。みなこ以上に佳奈は精神的な実力の差を思いしったのかもしれない。


「理解してるならええねん。メンタル的な問題はテクニックで修正できる。井垣さんにはそれだけの力はすでにあると思うから」


「……はい」


 弱々しい佳奈の返事を、部員たちはただ静かに見つめることしか出来なかった。普段なら、里帆や杏奈がフォローをしてくれるはずだけど。きっと、彼女たちも演奏に支障をきたさないように保つのが精一杯なのだ。


 傍から見れば、絶対的な権力を持つ部長が一人の部員を責め立てているように見えるだろうか。航平が言った「イジメ」の文字がちらつく。けど、はっきりと「これはイジメだ! おかしいじゃないか!」と声を上げられないのは、みなこ自身の弱さではなく、明らかに罪の意識を感じている知子の表情のせいだ。


 どうして知子はそんな顔をしているのだろうか。「それじゃ、『Rain Lilly』を続けます」と知子の視線はピアノの鍵盤へと落ちていく。それを合図に全員が楽器を構えた。


 悲しく切ない秋のメロディが部室に響く。雨に濡れた一輪の花は、今にも枯れてしまいそうなほど小さく萎れてしまっていた。

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