第2話 一言

「ただいまー」


 家に帰って、まっすぐに台所の方へ向かう。買い出しを頼まれていた牛乳を母に手渡し、みなこはソファーに腰を沈めた。


「今週はテストでしょ? 勉強は大丈夫?」


「七海よりかは安心してええと思うけど?」


 ガラステーブルの上に、世界史のプリントを置き、ぼんやりと眺める。勉強は決して苦手な方ではないが、単純な暗記ものはみなこの得意分野ではない。暗譜は難しくないのに。そんなことを心の中でごちる。


「でも、帰り遅かったわね。部活は無いんでしょ?」


「演奏会が近いから一時間だけ練習してんねん。その後は、七海の家で数学を教えてた」


 もはや、テスト期間前は七海に数学を教えることが習慣になってしまった。自身の復習にもなるし、七海が解いている間に別の勉強だって出来る。七海の前でサボるわけにはいかないので、自室でするよりかは集中出来ている気がした。


「そうそう。晩御飯は、ハンバーグにするんやけど、みなこは目玉焼き乗せる?」


「乗せるー。あとチーズも」


「テストを頑張ってくれるならね」


「毎回、ちゃんと頑張ってるって」


 過去二回の定期考査の順位は、中間よりもやや上位。めぐや佳奈、奏には負けているけど、悪い数字ではないはずだ。それに、誰にだって得意不得意な教科はある。少なくとも数学は、誰に見せても誇れる点数だったはずだ。


「良い点取れたらご褒美に何か買って上げてもええかもね」


「ほんとに!」


 母の言葉を聞いて、みなこは沈んでいた身体を一気に持ち上げた。ソファーがびっくりしたようにギギっと音を立てる。

 

「何でもと言っても高いものはあかんよ」


「えー」


「ギターが欲しいって思ったでしょ」


「まぁ……」


 頭に過ぎったのは、大樹も持っているフルアコのギターだった。せっかく大会に出るのだから、良いギターで演奏がしたい。中学時代に父が買ってくれた今のエレキギターも十万円以上するものだけど。フルアコに憧れるのは、大樹がかっこよく演奏している様をいつも見ているからだ。


「でも、みなこが真剣に楽器を続けているなら、お父さんが買ってくれるかもね」


 文化祭を観に来てくれて、父はかなり喜んでくれていた。大会で、もっとたくさんの人の前で演奏している娘の姿を見れば……。そんな淡い期待を込めて、みなこは「大会は観に来るん?」と母に訊ねてみる。


「そりゃ、行きたいけど。チケットってどうやって取るん?」


「そっか。また先輩に聞いとく」


「お願いね」


 明るい母の声と共に、ジューっとフライパンの上でうねりを上げるハンバーグの音が聞こえてきた。テストを頑張れば何か買って上げるだの、目玉焼きは乗せるかだの、さっきからやけに機嫌がいい。結婚記念日が近いからだろうか。父がどこかレストランを予約したのかもしれない。「結婚記念日くらい夫婦水入らずで過ごしな」と中学生になった頃から、みなこは自ら進んで留守番役になって、毎年二人きりにさせてあげていた。 


「今年もどっか行くん?」


「日曜日に三ノ宮のレストラン」


「そっか」


 メッセージでのやり取りだったら、母の言葉尻には音符の絵文字がついていることだろう。ハンバーグの焼ける音さえも、愉快な音楽のように聞こえてくる。


「みなこは何か出前取る?」


「ううん。その日は保育園の演奏会やから、友達と食べて来ると思う」


「打ち上げやな」


「そんな感じ」


 母は、鼻歌交じりでハンバーグの焼き加減をチェックしていた。



 *



 食事を終えて、お風呂に入ろうと思ったタイミングで、スマートフォンにメッセージが入っていることに気づいた。階段の途中で立ち止まり、みなこは通知が来ていたアプリを開こうとスマートフォンを操作する。その瞬間、ヴーヴーと手の中で振動し始めた。急に着信画面に切り替わった驚きで、思わず「わっ」と声が出る。


 表示されていたアイコンは航平だった。彼からの電話は初めてだろうか。昔は固定電話でやり取りをしたことはあったはずだけど。こうした電話のやり取りは、思えば小学校の低学年の頃以来かもしれない。遊ばなくなったのは、きっとそれくらいからだ。幼稚園生の頃は、家族ぐるみで仲が良かったから、よく母に連れられてお互いの家に行っていた。


 会話を聞かれたくなくて、みなこは慌てて階段を駆け上がり、自室に入ってから電話に出た。


「もしもし?」


「おっす」


「何?」


 少しだけ声が上ずる。真っ暗だった部屋の電気のスイッチを入れて、勉強机の椅子に腰掛けた。


「メッセージ見てへん?」


「今、見ようとしてたところ」


「そうか、ほんなら、ええタイミングやったな」


 電話に気づいてくれて良かった、と言いたいのだろうけど、こちら側にしてみれば、決して良いタイミングではない。驚いたせいで、心臓がほんの少しだけドキドキと脈を早めている。


「それはどうも」


 嫌味ったらしく返せば、航平から笑い声が漏れた。耳元に感じるその声がなんとなく懐かしい。変声期を経て、声はすっかり低く変わってしまったけれど、笑い方はあの頃のままだ。無意識のうちに、机の下で足の親指をこすり合わせている自分の仕草がなんとも女子っぽいことに気づき、みなこは咳払いをして話を元に戻す。


「それで何のようなん?」


「今から出てこれる?」


「今から?」


「うん。今回のオーディション……、っていうか伊藤のこと。川西能勢口の方で話しせん?」


 時計を見れば、まだ八時を過ぎたところだった。川西能勢口なら十五分ほどで着く。けど……。


「……別にええけど、なんでわざわざ川西能勢口なん?」


「井垣にも声掛けたら、来れるって言ってくれたから。ほんなら、二十分後に川西能勢口に集合で。いける?」


「うん。大丈夫」


 佳奈もいる。航平のその一言は、みなこの心に安心とモヤモヤを同時に引き連れてきた。

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