第4話 曲目

 翌週、二年生が修学旅行に向かったため、部室は一年生と三年生だけになった。おまけに三年生は受験を控え、模試や予備校があるため、毎日全員が顔を出すわけではない。閑散とした部室を眺めながら、みなこはぼんやりと保育園で演奏する曲を考えていた。


「どうしたん? ぼっーとして?」


 ふと背後から声をかけられて、思わず「ひゃっ」と声が漏れる。ビクッと振るえた肩を見て、クスクスとみちるが笑みをこぼした。


「驚かさないでくださいよ」


「部室で声かけて怒られるなんて……」


 しゅんとしたみちるに、みなこは「反射的に出た言葉で怒ったつもりじゃなかったんです」と伝えたかった。けど、こちらが言い訳を並べる前に、彼女はおどけた仕草で赤いリボンを揺らしながら、「集中してたんやね。ごめんなー」と隣に腰掛けた。


 静かで優しい笑みには、みちるの人柄の良さが出ている。部長である知子が部全体を引き締めて緊張感を出す役割だとするなら、逆に副部長のみちるは引き締まりすぎた緊張を解いてくれる。正反対の二人は、互いに足りない所を補えるいいコンビだ。


「ちょっと、保育園の演奏会の曲目を考えてまして」


「おっ! しっかり考えてくれてるんやね。さすがジャズ研のナンバーフォー!」


「まだナンバーフォーじゃないですよ」


「今は、二年生がおらんから。みなこちゃんがナンバーフォーなんよ」


 学年ではなく役職だけで考えれば、そういうことになるのかもしれないけど。その場にいるメンバーだけが反映されるなら、保育園の演奏会に行く時は、自分は紛れもないナンバーツーになるらしい。みなこの背は少しだけシャッキと伸びた。


「どんな曲がいいと思いますか?」


「うーん。みんなが好きな曲を演奏すればいいと思うけど」


「去年も演奏会はあったんですよね?」


「そうやよ」


 おそらく演奏会に行ったのは、今の二年生たちのはずだ。どういう曲目だったのか、事前に確認しておけばよかった。今頃、先輩たちは遠い空の向こうにいるはずだ。


「去年は、『さんぽ』や『アンパンマンのマーチ』とかを演奏してたみたいやよ」


「やっぱりそういうのがいいですよね」


「なるだけ、子どもたちが知ってる曲にした方がええかな。知らない曲やったら中々、集中して聴いてくれへんから」


「そうですよね」


 どうしたものか、と考え込んだみなこを見て、みちるは嬉しそうに頬を緩める。その目はまるで子どもを見つめる親のようだった。


「選曲って難しいですね」


「私の大変さ分かった?」


「痛感してます」


 みちるは、普段からジャズ研が演奏するほとんどの曲を決めてくれている。例年は、部長と副部長で決めるらしいが、知子にその気がないせいだ。別にみちるに押し付けているわけではないはず。ただ単純にみちるを信用して、全権を預けているんだと思う。


「みちる先輩はどうやって曲目決めてるんですか? 基準とかそういうのはありますか?」


「その時の全員の実力ももちろん考えてる。難しすぎる曲をチョイスすれば、グダグダになって収集がつかへんようになってしまうしね。何曲も演奏するライブの時は、全体のバランスも考える。盛り上がりとかも意識しつつ、違和感のないように。曲の認知度はもちろん、誰が目立つ曲なのか、ずっと支え役をやっている人はいない編成になってるかとか。……でも、結局はみんなで演奏して楽しそうなセットリストが一番かな」


 ――――楽しそうな。


 その一言に、みちるの曲決めの信条が集約されている気がした。


『楽しく演奏して、勝ちにもこだわる』


 入部したての頃、先輩と一枠しかないポジションを争うことに悩んでいたみなこは、大樹にそう教えられた。楽しく勝つ。それがこの部活のコンセプトだ。


「私はみちる先輩の選ぶ曲、とっても気に入ってます」


「ほんと! ありがとうねえ」


 破顔したみちるは、さっきまでとは正反対に、まるで幼い子どもみたいだった。照れくさそうに前髪のリボンに触れて、指先でコロコロと回す。


「『Rain Lilly』もめっちゃ好きです。ちょっぴり暗いシーンもありますけど、……それにとっても難しくて。でも、最後に嵐の中を駆け抜けていくあの感じが凄くかっこいいんです! びしょ濡れになりながら、淀んだ空の果てにある『晴れ』や『虹』を探してるみたいな。なんというか、そういう感じです!」


 自分の中にある曲のイメージを伝えるのは難しい。けど、溢れてくる情熱を言葉という形にする作業は、演奏をしている時に似ている気がした。言葉にするか音にするか。たった、それだけの違いだ。


「そう言ってくれるとうれしいわぁ。選んだ甲斐があったよ」


「大会もこの曲で行くんですよね?」


「一応、そのつもりやけど、最終判断はオーディション明けやね。三週間で初見の曲を仕上げるのも難しいから、少なくともこれまでに演奏したことのある曲になると思うで」


 そう言ってみちるは、スタンドに掛かっていたテナーサックスを手に取った。傷一つない金色の光沢。みちるの胸元にはこの金色がよく似合う。彼女が生み出す優しく穏やかな音色は、みちるの性格そのものだ。


 このあとは、一年と三年でセッションを行う予定になっていた。恐らく、『Rain Lilly』の演奏もするはずだ。


「みちる先輩は、どうして『Rain Lilly』を選んだんですか?」


 これまでにイベントなどで演奏してきたジャズのスタンダードナンバーに比べて、『Rain Lilly~秋雨に濡れるゼフィランサス~』は、かなりマイナーな曲らしい。それに最近、発表された曲で、……と言ってもジャズの世界でだけど。この二十年ほどで発表されたこの曲を、ジャズに詳しい沖田姉妹もタイトルくらいしか知らなかった。


「ちょっと特別な曲なんよ」


 首からぶら下がったストラップを、みちるはサックスへつける。白い歯を見せながら、金色の光沢を見つめるその双眸は、なんだか誇らしく少しだけ悲しそうに見えた。

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