第9話 境界線Ⅰ

 この夏、この時間に目を覚ますのは、一体何度目だろう。鳴り響くスマートフォンのアラームを止め、みなこはベッドから身体を起こした。


 目覚めがいいのは、昨日プールではしゃぎ疲れてよく眠れたおかげだろう。本当はベッドの中で杏奈とどう話すべきか考えようと思っていたのに、気がつけば夢の中へ落ちてしまっていた。


 制服に着替え、学校を目指す。昨日の夜中に雨が降ったらしく、アスファルトが少しだけ濡れていた。すっかり晴れ上がった空は、雨に洗い流され綺麗になり、透き通った水色が広がっていた。そこに綿菓子の切れ端みたいな雲がプカプカと浮かんでいる。錆びた階段の手すりやガードレールが、朝陽を浴びてキラキラと輝き、町全体が丸みを帯びた穏やかな光に包まれているようだった。


 学校に着いて、一応職員室を目指す。きっと鍵はなくなっているんじゃないかな。そう思いながら、キーラックを見れば、やはり部室の鍵はすでに貸し出されていた。急いでみなこは部室へと向かう。日時を指定してきたのは向こうだけど、こんなに朝早くから先輩を待たせるわけにはいかない。


 部室にたどり着き、みなこは覚悟を決める。奏の誤解を解く。里帆がみなこにあんな提案をしたのもそれを望んでのことじゃないだろうか。下手に上級生が動くよりも、同級生が間に入る方が奏の本心を知れると思ったはずだ。「奏は杏奈先輩のことを嫌ってなんていません。誤解なんです!」それを伝えるだけ。難しいことじゃない。


 みなこは短く息を吐き、ドアノブに手をかけた。「おはようございます!」そう叫ぶために今度はすっと息を吸う。そして、グッとドアノブを押し込んだ。


 だが、ドアノブはびくともせず、みなこの腕が詰まる。扉の鍵は閉まっていたのだ。キーラックから鍵は確かになくなっていたはずなのに。


 同時に、この間は音楽準備室にいたことを思い出した。またあそこにいるのかも、とすぐ隣の準備室に視線を向けると、そのさらに奥にある音楽室の扉が少しだけ開いていることに気が付いた。


 もし、吹奏楽部の人だったらどうしよう。そんなことを考えつつ、みなこはそっと音楽室の中を覗き込んだ。電気の付いていない静かな音楽室、その窓際から身を少し乗り出し、誰もいない校庭を杏奈が一人眺めていた。


「杏奈先輩?」


 みなこがそう声をかけると、杏奈は首だけをこちらに向けた。窓の外の落下防止用の棒を掴んだ手がグッと伸びる。涼し気な夏の風が、杏奈の髪をふわり持ち上げた。


「おはよう」


「おはようございます。なんで音楽室にいるんですか?」


「吹部は今日までお盆休みらしくて、こっそり借りてきた」


「こっそりは駄目ですよ」


「もー、清瀬ちゃんは真面目やなあ」


 ケラケラと笑いながら、杏奈は再び身体を窓の外へ持っていく。じわじわと教室内の影を侵食していく日差しが彼女の頬を明るく染めていた。


 けど、みなこが聞きたかったのは、そういうことじゃない。スタジオじゃなくてどうしてこっちにいるのかということだ。


「そうじゃなくてですね……。だって、スタジオの鍵も杏奈先輩ですよね?」


「うん、集合場所決めてなかったやろ? 学校に来てから、なんとなく音楽室がいいなぁって思って。ほら、清瀬ちゃんがスタジオでずっと待ってしまわんように、私が持ってたら別の場所を探してくれるやろ?」


 音楽室のドアを半開きにしていたのもわざとらしい。自由な先輩だな、とため息を漏らしたみなこを見て、杏奈はくるりと踵を返す。窓の縁に腰をつけて、涼し気な風を背中で浴びながら、彼女は柔らかく口端を緩めた。


「あ、でも、エアコン付けてないからあとから困るなー。……まぁみんな来るのはもっと後やろうしええか」


 冗談っぽい笑みを浮かべるが、その双眸の奥には戸惑いが漂っている気がした。こうして後輩に呼び出された理由を分かっている証拠だ。なら、遠回しに話を進める必要なんてない。きっと杏奈はもう誤魔化すことなんてしないはずだ。


「杏奈先輩……」


 そっと扉を閉めて、みなこは杏奈の方へ近づく。朝陽を浴びたみなこの影は黒い布がかけられているグランドピアノまで伸びて、光に染まった鮮やかな黒を侵していた。吹奏楽部の練習のために半円に並べられた椅子、その間を通っていく。


「そんなに気になる?」


 みなこが訊ねるよりも先に、杏奈が口を開いた。ひどく冷たい声色は、それ以上踏み込まないでという牽制のように思えて、みなこは思わず立ち止まった。


「清瀬ちゃんが聞きたいことは分かってる。けど、なんでそんなに気になってるんかなって」


 今度は広角を柔らかく持ち上げて、声を弾ませた。少し怯えた様子の後輩を見て、気が引けたらしい。その明るさはいつもの杏奈のものと少しだけ違っていた。


「それは……」


 詰まりそうになった言葉を、みなこは一生懸命に吐き出す。奏、それに里帆の顔が浮かんだ。ここまで来て怖がるな! 自分にそう言い聞かせる。


「……奏ちゃんは杏奈先輩のことを嫌いだなんて思ってないんです!」


 あまりに唐突だっただろうか。だけど、ようやく伝えられた。これで奏が杏奈を嫌っているという誤解は解けたはずだ。杏奈が部活をやめる理由は失くなった。万事解決。しかし、みなこの言葉を聞いた杏奈の表情は曇ったままだった。


 いや、曇っているというよりも困っていると言った方が正確だったかもしれない。


 杏奈の眉根がゆっくりと下がる。真っ黒な瞳が朝陽を受けて、茶色く光沢する。「なんで谷川ちゃんが?」と首を傾げた。


「だって、杏奈先輩が部活を辞める理由って奏ちゃんなんじゃないんですか?」


「どういうこと?」


 みなこの言いたいことが分からないと言いたげに、杏奈は自身の頬を掻いた。思わぬ杏奈の反応にみなこの脳内はパニックになる。それでも懸命に、杏奈の質問に答えようと頭を動かした。


「私は、奏ちゃんが杏奈先輩にうまく接することが出来なくて、いざこざが生まれているのかと」


「あー」


 杏奈の声が硬い水色の絨毯の上に落ちた。それは理解したニュアンスだったが、同時に上履きのかかとをコンコンと叩きながら首を横に振った。


「ううん。そんなことないで。谷川ちゃんはちゃんと良い後輩してくれてる……。けど、谷川ちゃんが私に気まずさを感じているなら、それは私の責任やわ」


 奏が気まずさを感じていたことを杏奈は自覚していたようだ。だけど、それは杏奈が部活を辞める動機ではないらしい。


「どういうことですか?」  


 理解が追いつかない脳みそが、みなこにそんな言葉を口走らせた。


「どういうことか……か。清瀬ちゃんは、私と谷川ちゃんを仲直りさせようと頑張ってくれたんやもんな。……里帆がなんか吹き込んだんかもしれんけど」


「それは……」


「別に里帆のことはええねん。あの子は後輩にそんな役割を強要したりはせえへんから。ここに来たんは、きっと清瀬ちゃんの判断やろ?」


「はい」


「やったら……隠しとくわけにはいかんか。……合宿の時に話し聞かれた時点で、深堀りされたら逃げれんなと思ってたし」


 杏奈はそっと窓から腰を浮かせると、徐に綺麗に並んだ椅子の一つに腰掛けた。


「清瀬ちゃんも座って。ずっと立たせておくのもあれやから」


 少しだけ恥ずかしそうに杏奈は自分の隣の席をパンパンと手のひらで叩いた。みなこは小さく頷いて、そこに座る。


「清瀬ちゃんはホンマに素直やなー」


「座ったら駄目だったんですか……?」


「こんなしょうもない先輩の言葉に乗ってくれるところが素直やの」


 杏奈は嬉しそうに品を作った。そんな先輩の内情がよく分からず、みなこの眉間にシワが寄る。それをまた楽しそうに杏奈はクスクスと笑いをこらえていた。


「真面目な話ですよね?」


「ごめんごめん。ふざけて誤魔化すんは悪い癖やな。里帆にもよく怒られる。うん。これはすごく真面目な話」


 杏奈の表情はスッーと引き締まっていった。ちぎれ雲に隠れて陽の光が途切れる。静けさと冷たさが一瞬だけ音楽室を支配した。そこからまた窓から陽が差し込んできた。暗い影の中から浮かび上がった杏奈の表情は柔らかく、色んなことを受け止める覚悟を持っている気がした。 


「ほら、聞いて。この間は誤魔化したけど、今度はもうそんなことせへんから」


 ――私が凡人やからかな。


 お盆休みの直前、音楽準備室で会った杏奈は、「どうして辞めるんですか?」というみなこの問いに、そう答えて誤魔化した。勇気を振り絞って、みなこが伸ばした手を杏奈は拒否したのだ。だけど、今度は違う。彼女は、みなこがそこに踏み込むことを許している。


 少しだけ埃っぽい空気を吸い込み、みなこは短く息を吐く。


「それじゃ、もう一回聞きますね……。杏奈先輩はどうして部活を辞めるんですか?」


「私に才能がないから」


「それって前と同じ返答じゃないですか……?」


 杏奈にふざけている雰囲気はない。きっと本音なんだろうと思った。つまり、ここからさらに踏み込むしかないのだ。目には見えない境界線。すぐ隣にいるのに、そこに踏み込む勇気は振り絞らないと出てこない。触れちゃいけないはずの人の心に触れる恐怖を、みなこはしっかりと持っている。


 けれど、ここまで来て尻込みするわけにはいかない。


「部活をするのに才能が必要なんですか?」


 プロを目指すというなら話は分かる。けど、これは部活動だ。どれだけ下手くそで才能がなくたって続ける権利はある。それに杏奈がそれほど才能に乏しいとは思えなかった。


「部活を続けるには必要ないかもしれんな。けど、才能がないと好きな楽器は出来ひんのやで」


「どういうことですか?」


 杏奈はスッと足を組む。片膝を手で抱えて、少しだけ背を曲げた。まるで表情を見られたくないように顔を伏せて、弱々しく声を出す。


「去年の今頃やったかな……。私はトロンボーンからベースにセクションを移ってん」


「杏奈先輩って初めからベース希望じゃなかったんですか?」


「うん。入部した時はトロンボーンセクションやった」


「それじゃどうして今はベースを……」


 杏奈がベースを弾いている。この春からジャズ研に入ったみなこにとって、それは当たり前の光景だった。だけど、それは本人の希望通りだったのか疑問に思ったことがないわけじゃない。 


 遠くから悲しげなトロンボーンのメロディが聴こえた気がした。それは準備室で杏奈と会った朝に彼女が演奏していたものだ。中学の吹奏楽部時代からトロンボーンだった彼女がベースに移動した理由。あの時のトロンボーンの音色に込められていた感情は、憂いだった気がした。


「去年からジャズ研にはベース担当がおらんかってん。空席やった椅子に私が座った」


「けど、杏奈先輩はトロンボーンがやりたかったんでしょ?」


「そうやな。でも、仕方なかってん」


「仕方なかったって……?」


 強要されたのだろうか。去年のことは分からないが、少なくとも今の三年生たちがそういうことをするイメージはない。自主的に手を上げない限り、希望もしないセクションに移動させるなんてことはしないはずだ。そもそもメンバーがいないなんて理由なら、春のうちからベースをさせるんじゃないだろうか。


「何度も言うけど、私には才能がなかった。諦めてん。あの子には敵わない。だから、誰もいないベースに移った」

 

 ――あの子には敵わない。そう繰り返して、杏奈がこちらを向いた。潤んだ双眸から今にも雫が零れそうになっていた。溢れ出しそうになっている感情は、悔しさだろうか。それとも。彼女の話す敵わない相手を、みなこは一人しか知らない。


「もしかして、里帆先輩とあの夜話してた互いに好きになれないのって……」


「うん。桃菜のこと」


 乾いた言葉は、しっとりとした空気に溶けていく。水分を多く含んだ杏奈の柔らかい唇が、彼女の感情を押し殺すように噛み締められて白く染まっていった。


「笠原先輩って初心者やったんですよね」


「そうやで。桃菜は初心者やった。だから負けるわけはないと思ってた。うちは経験者、吹奏楽部時代には部長として部員を引っ張ってやってきた自負もあった。やけど、今のあの子の演奏を聴いたら分かるやろ? あの子は特別やねん。吹奏楽部で三年間、全国を目指して練習を積み重ねてきた私の努力を、ほんの数ヶ月で抜いてしまった」


「けど、杏奈先輩だってほんの一年でベースをあそこまで弾けるようになってるじゃないですか」


「清瀬ちゃん、ありがとうな。……けど、それは普通のことやねん。一年間、真剣にやってれば、よっぽどじゃない限り上達はする。私の上達っぷりは凡人レベル。……ううん、普通以下かもしれん。谷川ちゃんも清瀬ちゃんも中学時代はほとんど独学やろ? それにジャズにはほとんど触れてなかったわけやし。けど、ちゃんとした環境を整えて、しっかりと教えてくれる人がいれば、ぐんぐん上達していく。現に、谷川ちゃんの吸収力はすごいよ。恐らく、来年の春くらいには私からコンボの枠を奪えるくらいになるはず」


 そうすれば私の立場はどうなると思う? そう言われている気がした。組んだ足を解き、杏奈が二本の足を揃えてグッと前に伸ばす。ピッタリと足にフィットした上履きが、そられた足の裏に合わせて筋張って歪む。


「だから杏奈先輩は奏に冷たくしてたんですか?」


「そういうつもりはなかったんやけど。谷川ちゃんがそう感じていたなら、私が最低やってことやな。……本当に冷たくするとか、無視してたとかじゃないよ。それに、教えられることはちゃんとしてたつもり。指導で手を抜いたことはないし、伝えられることを出し惜しみしたこともない。他の子と変わらんように接していたつもりではいる。これは本当。でもな……」


 言葉を詰まらせて、杏奈の足がパタンと絨毯の上に落ちた。膝の上に置いた手は、少しだけ振るえているように見えた。


「来年なったらおらんようになる先輩と仲良くなっても寂しくなるだけやん。谷川ちゃんはとっても良い子やから、そういう顔はみたくなかってん」


 それは杏奈の本音で、彼女なりの優しさだろう。けど、奏は本当にそれを望んでいるのだろうか。少なくとも、今の自分は奏の相談を受けてここにいるのだ。


「奏ちゃんは杏奈先輩と仲良くしたいと思っているはずです」


「けど、私はもう来月には部活を辞める。それやのに仲良くするなんて可愛そうや」


「どうしても辞めるんですか?」


「うん。続けたって見窄らしいだけや。それに文化祭でトロンボーンをやれるなら。私はそれに憧れてこの学校に来たんやし。本望やで」


 辞めないでください。そんな風に説得する権利は自分にはないように思えた。原因が奏とのことにあるなら、それは誤解と言えた。だけど、根本的な問題は別にあったのだ。杏奈と桃菜の関係について、自分に出来ることはなにもない。間接的に奏と関わっていたとしても、奏の為に居たくもない場所に居続けて欲しいなんて頼めるわけがない。


「桃菜とは性格も合わんかってん。あの子は静かやろ? けど、あー見えて芯はしっかりしてて意見を持ってる。私は明るいくせに芯がなくて……、それに実力も。まったく釣り合ってないやろ」


 自嘲気味にそう言って、杏奈は弾みをつけて立ち上がった。キラキラとした陽光を浴びて、身体をグッと伸ばす。制服の裾から白い肌が見えた。  


「谷川ちゃんがそう感じているように、私がいても部の空気は悪くなっていくばかりやろうし。この文化祭を区切りにきっぱり辞めるのがええかなって。ベースは谷川ちゃんがいれば問題ないし、トロンボーンは織部先輩も伊坂も出来る。秋の大会にも支障は出ない。中途半端な実力の私はいてもいなくても同じってこと」


 まるで自分にそう言い聞かせているみたいだ。そう思っても、それは口には出せなかった。


「部室のエアコンつけてくるわ。もう少ししたらみんな集まりだすやろうし」


 そう言って去っていく杏奈の背中を、みなこは見つめ続けることしか出来なかった。

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