第9話 結果

 空き教室へみなこが向かうと、先にオーディションを終えた四人が待っていた。オーディションを終えた緊張感から開放されたのだろう。七海は片頬を机につけて突っ伏したままこちらを向いていた。


「おつかれー」


「おつかれ」


 そう返して適当な席に着く。前の席に座っていためぐと奏がこちらを振り向いた。


「どうやった?」


「うーん。どうなんやろ? まだまだ初心者やし手応えとか分からん」


「そうやんなぁ」


「私たちも同じ感じだよ」


 どうやらここにいるジャズ初心者組の手応えは、みなこと同じらしい。椅子に座ったまま、奏は手と足をまっすぐ伸ばして「あー」と声を震わせた。表情は明るいが、駄目だったー、と言いたげだ。頬杖を突きながら、めぐがその様子にくすりと笑みをこぼす。


「奏ってたまに変な行動してるよな」


「えっ、そんなことないよね?」


「ほんとにたまにね」


 顔を真っ赤にして、奏では恥ずかしそうに顔を伏せた。「奏ちゃん、かわいいからええんやでぇ」とめぐがからかうように奏の肩を擦る。


「もー、めぐちゃん私のことからかってるでしょ」


「奏が愛おしいゆえやんか」


 ニタニタとめぐの口元が緩む。帰り道、駅からはいつも二人きりだ。そこで距離感は随分縮まっているらしい。


 窓際に一人で座り、こちらの様子を気にしていた航平が切なげに一人ごちた。


「俺は織辺先輩に、基礎練習をひと月でここまでこなせたのは偉い。ビッグバンドに入れるようにこれからも精進するように、って言われたわ」


「それは不合格決定的やな……」


「期待はしてなかったけど、もうちょっとドキドキさせて欲しかった……」


 大きくため息を吐いて、彼は窓の外を見つめた。暖かな陽射しが航平の影の色を濃くする。黄緑のカーテンを揺らす風は、春というよりも夏の気配を教室に運んできた。きっと知子は褒めたつもりなのだろう。航平も彼女の性格を分かってか、怒っている様子はない。むしろ、ほんの少しだけ嬉しそうだった。


「やっぱり、うちら一年の中で合格可能性あんのは佳奈くらいなんやろなぁ」


 七海は机につけていた顔を持ちあげた。小さな手のひらで擦る頬は、ほんのりと赤くなっている。航平が七海の言葉に反応する。


「そうかもなぁ。小スタでの練習を聴いてても群を抜いてうまいであいつ。音が違う」


「お、高橋もそう思った?」


「航平、初心者のくせに」


「初心者の俺が聴いて分かるくらいうまいんやって」


 佳奈が上手だということは否定できない。定例セッションの時の佳奈の演奏は中々のものだった。そう分かっていても、なんとなく航平に食って掛かりたくなる。無意識的に航平に向けた自分の目は細くなっていた。


「へぇ、みちる先輩や里帆先輩よりも?」


「そこまではどうとも言えんけどさ」


 航平の視線はどこを見ているわけでもなく、黒板の方へと逸れていった。あっさりと躱されたことがなんとなくつまらなく、「ふうん」とみなこは唇を尖らせる。


 その時、教室の扉が開いた。


「おつかれー」


 みなこが入って来た時と同様、七海がそう声をかければ、佳奈はこちらを一瞥して「おつかれ」と短く返した。首から下げたストラップは、彼女の胸の膨らみを強調している。佳奈のしなやかな体躯を、みなこは思わずまじまじと見つめてしまった。佳奈は無言のまま、前方の席へと向かう。


 会話は聞かれていなかっただろうか。別に陰口を言っていたわけじゃないのだけど。不安がるみなこを他所に、七海は明るい声で言葉を続けた。


「佳奈はどうやったー?」


「どうって?」


 椅子を引き、佳奈は席に着く。質問の意図が分からないと言いたげに、ポニーテールが傾いた。


「ほら、手応えやん。佳奈はうちらと違って上手やから、ビシッとカッコよく演奏したんかなって」


「手応えってほどのものは別に……」


「えぇー、ホントは結構、自信ありなんちゃうのぉー」


 佳奈は明らかに嫌がっている。身体は半分こちらに向いているが、目線は七海の方を向いていない。こんなことにも気づかない。七海はあまりに鈍感すぎる、とみなこは思った。


「自信とかそういんは特にないけど」


「あんなにうまいのに?」


 不穏な空気が教室内に漂う。その発信源は間違いなく佳奈だ。


「ほら、七海そのへんで」


 みなこは、やんわりと七海を静止した。この間の帰り道の時のように、七海を連れて無理やりこの場を離れるわけにはいかない。だから、早く佳奈の不機嫌さに気づいてくれ、と必死に目で訴えかける。


「もー、佳奈は謙虚やなー。ん? 佳奈が終わったってことはもうすぐ結果発表やん!」


 こちらの合図に気づいたわけはないだろうけど、七海の意識は結果発表の方へ向いてくれた。佳奈はスッと身体を正面に向ける。その頭部に揺れているポニーテール。七海がそこに飛びついた時、きっと良くないことが起きる。みなこは、直感的にそう思った。 




 *




 しばらくして、空き教室に審査員の三人が入って来た。知子の手には二つ折りにされたルーズリーフが握られている。教卓の前に立ち、知子はこちらを睥睨した。


「おまたせしました。オーディションの結果が出たので発表します。合格者の名前を順に呼んでいきますので、呼ばれたら返事してください」


 教室内に緊張が走った。合格者の名前を呼ぶ。つまり合格者がいたということだ。それに順ということは複数人。みなこが周りを見れば、奏もめぐも祈るように手を組んでいた。


 当面の目標は、大樹とも話していた通り、秋までにビッグバンドに参加出来るようにするというもの。だから、今回は落ちても仕方ないと思う。その一方で、たくさん練習してきたのだから、あわよくば受かりたいと欲を出す自分もいた。オーディション本番では、自分がやれる限りのことはやれた。大樹に教わったこともすべて出し切れていた。だから合格したい。


 みなこが目を瞑ったのと同時、知子の手に持っていたルーズリーフが開かれる音がした。薄いその紙に、合格者の名前が書かれてあるに違いない。みなこの鼓膜が知子の息を吸う呼吸音を感じ取った。今から告げられる、そう思うと胸の鼓動がうるさいくらいに激しくなった。


「それでは、ビッグバンド合格者を発表します。……ドラム、大西七海」


「はい!」


 がたん、と隣の席で椅子が弾けた。きっと、七海が喜んで立ち上がったのだろう。みちるが「七海ちゃん落ち着いて」と座るように促す。


「ごめんなさい、つい」


 へへ、と言いながら椅子を引いた七海は照れていたのだろうか。目を閉じたまま祈っていたみなこには、その表情を想像することしか出来ない。七海が座ったことを確認して、知子がさらに続ける。


「次に、ベース谷川奏」


「は、はい」


 まさか呼ばれるとは思っていなかったのか、奏の声は少し裏返っていた。「良かったやん、おめでとう」とめぐが声をかける。発表されているのは、きっとオーディション会場に呼ばれた順だ。だとすれば、めぐは落ちている。彼女はそれを分かっているのだろう。奏を祝福する声は、少しだけ悲しそうだった。


「最後に、サックス井垣佳奈」


「……はい」


 佳奈の名前が呼ばれた瞬間、自分がオーディションに落ちたことをみなこは悟った。駄目だった、という落胆よりも次こそは頑張ろうという気概の方が大きかった。きっと、川上にかけられた言葉のおかげかもしれない。


「以上三名は、今回からビッグバンドへ参加してもらいます。明日、また詳しい話はしますが、本番までは二週間ちょっとしかありません。しっかりと練習をして、本番では楽しみながら良いパフォーマンスをしましょう」


「はい」


 落ちたみなこたちも一斉に返事をした。知子は後輩の相手は苦手なのだろうけど、リーダーシップに優れている。人前に立てば、皆の注目を集める上に、程よい緊張感も作り出すことが出来る。きっと真面目の彼女の性格ゆえだろう。不思議とこの人の言うことを聞かなくてはいけないという気持ちにさせる。


「落ちちゃった人は落ちこまんように、みんな間違いなく上手くなってるからね。次のオーディションでは受かれるようにこれからも練習頑張って」


 みちるが意図的に、こちらに視線を向けた。二人はいいコンビだ。互いが互いの持ち得ない部分を補完している。


 川上が腕時計に目線を落とした。


「本番まで二週間ということは、中間テストも二週間前。少し早いけど、今日は帰ってしっかり勉強しておきなさい。中間テストの前の週から部活は出来んからな。直前に練習時間が欲しければ、今のうちから試験勉強をやっておくこと」


 オーディションということですっかり忘れていた中間テスト。今の所、みなこは勉強についていけていないということはないけれど、高校生になって初めてのテストに少しだけ怖さを感じた。中学生の頃とは違い、きっと難しいはずだ。


「特に大西。数学で赤点を取って、本番に出られると思うな」


「は、はい」


 僅かばかりの不安を感じているみなことは比べ物にならないくらい、涙目の七海が隣で小さな悲鳴を上げた。

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