『うまく言葉が話せない』『うまく自分の気持ちを表現できない』からって、『何も考えてない』『何も感じてない』とか、そんなわけないじゃん

『うまく言葉が話せない』


『うまく自分の気持ちを表現できない』


からって、『何も考えてない』『何も感じてない』とか、そんなわけないじゃん。


とにかく、自分が楽になるように、自分にとって都合が良いように解釈しようとする。親の愛情を理解してないと考えたらうまくいかないことを子供の所為にできるからね。


最初から、子供の所為に、自分じゃない相手の所為に、するために、乳幼児が言葉を話せない、うまく自分の気持ちを表現できない、うまく自分の考えを表現できない、という事実を、都合よく解釈してるだけだよね。


私はそれを<甘え>だと思う。甘えだと思うから、私は、子供達に接した時の印象を、その時に見た事実を、きちんと受け止めようと思うんだ。


私が穏やかな気持ちでいる時は、子供達も穏やかな様子だった。


私がイライラしてる時は、子供達も不安そうにしてた。機嫌が良くなかった。


子供の方だって、がっちり、しっかり、感じて、考えて、<気持ち>というものを自分の中に作り上げているんだよ。


言葉を学んでいる途中だから、自分を表現する方法を学んでいる途中だから、上手く表現できないだけでしかない。


それを、


『親の愛情が伝わってない』


『親の愛情を理解してない』


そう解釈するなんて<甘え>だと思うし、逃げだと思う。


なるほどそれを認めたら手間が増えるし、面倒も増える。それは事実だ。邪魔くさいと思って認めたくないなら認めなくてもいいと思うけど、ただその結果、後で自分に返ってくるものが望んだものじゃなくっても、それはまさに<自業自得>というものなんじゃないの?


私は本当は<自業自得>という言葉が嫌いだけど、それでも、手を抜いた結果が自分に返ってくるなら、これはやっぱり<自業自得>というものだとは確かに思う。そう思うからこそ誰かの所為にせずに済んでると思うからね。


何しろ、作品づくりでも、手を抜けば、手を抜いただけの結果が返ってくる、そういう事実があるから。子育てだって同じじゃん。


仕事で手を抜いた結果が自分に返っても受け止められて、どうして<子育て>ってことになった途端に、自分の手抜きの結果がよくない形で返ってきたら、それを認められないの?


自分の手抜きが自分に返ってきたのを受け止められない親の姿を、子供に見せてて、どうしてそれで子供が自分の責任を受け止められる人に育つと思えるの?


自分が子供の目の前で、自分が手を抜いた結果を受け止められないという<悪い見本>を見せてて、それを子供が真似しないとどうして思えるの?


おかしいじゃん。


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