大体、他人が何か意見を表明しただけで猛然と食って掛かるとか、<ストレス耐性の高い人>のすることじゃないよね?

そうだよ。本当に、


『ストレス耐性が高い』


なら、


『生徒一人一人がそれぞれの家庭で普段から受けているストレスの度合いを詳細に確認して、その上で学校で掛かるストレスについて個別に精査する』


程度の手間で受けるストレスくらい、余裕で対処できるでしょ?


できないって言うなら、ストレス耐性なんて全然高くないじゃん。


大体、他人が何か意見を表明しただけで猛然と食って掛かるとか、<ストレス耐性の高い人>のすることじゃないよね?


だからさ、<ストレス耐性>なんて言葉を好んで使うのは、実はストレス耐性が低いからだとしか思わない。


そもそも、学校で勉強することだって、勉強が嫌いじゃない子はそんなにストレスも感じないかもだけど、勉強が嫌いな子は、『勉強する』ってこと自体が大きなストレスになるんじゃないの?


勉強が好きな子と、勉強が嫌いな子とじゃ、掛かるストレスが全然違ってくるよね?


逆に、運動が得意な子は体育の時間とかはそんなにストレスにならないかもだけど、運動が嫌いな子は体育の時間がすごいストレスになるんじゃないの?


しかも、体育はあくまで教科の一つでしかないから、当然、国語算数理科社会を合わせた時間よりも圧倒的に少ないよね?


だとしたら、


<『勉強は好きだけど体育は嫌い』っていう子>


と、


<『体育は好きだけど勉強は嫌い』っていう子>


に掛かるストレスも全然違っちゃうじゃん。なにこの<不公平>?


おかしいじゃん。


ああでも、念のために言っとくけど、私は別に、学校のカリキュラムにケチをつけたいわけじゃないよ?


『ストレス耐性ってのを云々するなら、こんな不公平があっちゃおかしいでしょ?』


って言いたいだけだから。


ストレス耐性云々って話なんて、これっぽっちも科学的じゃないじゃん。


で、こうやってツッコまれたら、ブチ切れるんでしょ?


うん、やっぱ、<ストレス耐性>なんて高くないよね。


『理不尽な意見に対して抗議するのはストレス耐性とは関係ない!』


とか言うかもだけど、


『<ストレス耐性>なんてものが本当に存在するなら、ちゃんと体系化して数値化して論理的にシステマチックにカリキュラムを構成するべきでは?』


という意見の何が<理不尽>なの?


『生徒一人一人が家庭で受けてるストレスについて無視して、しかも、一律で掛けることにしてるストレス自体が個人によって間違いなく違ってるはずなのにそれさえ無視して画一的に対応する』


ことの方がよっぽど道理に適ってないと思うけど?


あと、ストレス耐性が高いなら、理詰めで正論並べられても、


<ロジハラ>


とは感じないんじゃないかな?


ちなみに私はストレス耐性が高いとは自分では思ってないから、


『理不尽なのはお断り』


って普通に言うよ。


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