第86話 解き放たれるは、八つの災厄


「すまんな、青春ごっこはここまでや」

 

 そう悲しげに呟いた芦屋あしやは、いつの間にか手に挟んでいた呪符じゅふを発動し、風に包まれ姿を隠す。


 彼を包んでいた風が晴れると、その様相ようそうは一変していた。


 えりが丸く、そでの広い漆黒の狩衣かりぎぬ烏帽子えぼしを纏ったその姿はまるで陰陽師そのもの。

 ショートヘアに切り揃えられていた黒と白の入り混じる髪は腰よりも長く伸びている。

 首には勾玉のネックレスをげている。

 何より、その瞳が異形だった。

 角膜黒目は黒のままであるが、そこに紅蓮の螺旋模様が加わり、瞳孔は黄金に輝いている。

 

芦屋道永あしやみちながとは仮の名。儂の真名は蘆屋道満あしやどうまん。一〇〇〇年以上の永き時を生きる、平安時代に晴明せいめいめと覇を競った陰陽師よ」


 変わり果てた姿となった彼を前にしても、風早かざはやはその事実を認められなかった。

 認めたくはなかった。


「違うだろ、お前は芦屋道永だ!! 蘆屋道満はお前の紋章じゃないか!」

「もしかして……」


 雨戸あまどの脳裏に一つの可能性が過ぎる。

 それは、ネットでささやかれる、ある都市伝説であった。

 反英雄はんえいゆうと呼ばれる、人類史において悪とされる偉人の紋章者は、紋章覚醒時に人格を奪われる場合があると。


 だが、


「反英雄特有の紋章覚醒による人格の乗っ取りなんか起きてへんで。そもそも、儂の紋章は偉人格:蘆屋道満なんかじゃないしな」


 高専に提出していた情報すらも嘘であった。

 その証とでも言うように、彼は右手の甲を風早らへ見せる。

 そこにあった六芒星ろくぼうせいの紋章はかすみと消え、その下からは飢えた獣を思わせる九画の紋章が現れた。


「これで分かったやろ? 儂はお前らをずっと騙してたんや。芦屋道永なんて奴は最初はなからおらんかった。まやかしの存在でしかなかったんやって」

「……冗談じゃ、……ないんだよね」


 あっけらかんとした態度でこれまでの日々が全て幻だったのだと告げる芦屋——否、蘆屋——へと、風早は声を震わせて問いかけた。

 その問いに対する答えは、これまでの飄々ひょうひょうとしたものではなく、どこまでも硬く芯の通った言葉だった。


「悪いな、今回ばかりはマジや。お前に譲れん夢があるように、儂にも譲れん野望があるんや」


 予備動作など存在しなかった。

 蘆屋が雨戸を一瞥いちべつする。

 たったそれだけの動作によって術が発動し、彼女が握りしめていた、蘆屋から貰った御守りを起点として空間が歪む。

 そして、雨戸はその歪みの中へと消え去った。

 しかし、ここで誤算が生じた。


「——!! ……今のに反応できるとは、成長したもんや」


 空間の歪みに消え去る雨戸を抱き抱えて、風早も同じく空間の歪みの中に消え去ってしまったのだ。

 本来、計画に必要だったのは雨戸ただ一人。

 彼女の紋章、概念格:拡張の紋章さえあれば良かったのだ。

 だが、この程度なら計画に支障はない。

 風早一人捩じ伏せるのに大した労力も時間も必要としないからだ。


 それよりもまずは、


「一番厄介な奴の対処をせんとな」


 関係者用観客席から飛来した、音速を遥かに越える速度の炎弾を蘆屋は右手一本で防ぎきる。

 それはただの炎弾ではなかった。

 太陽の表面温度にすら匹敵する高熱の炎を纏った朝陽であった。


 その瞳は結膜が黒く染まり、角膜は赤みを帯びた金色という異形のもの。

 身体の要所と手足、肩には日輪の如く輝く黄金の鎧。

 その内には漆黒の衣を纏い、それら全てを黒き闇のようなファーコートが覆い隠す。

 そして、耳には日輪を抽象した耳輪。

 

 彼の身を守る最強の防具、生来より纏う日輪の輝きを具現化した鎧——『日輪は生誕を言祝ぐスーリヤ・パドマ・チャクラ』——を纏った完全なる臨戦態勢だ。

 それに加えて、ムカデの紋章災害の時には使用しなかった武具すらも顕現させている。

 

 『神々を葬る必滅の槍マヘーンドラ・シャクティ

 太陽を象った、日輪が如く輝きを放つ焔といかずちを纏いし神槍。

 

 インドの叙事詩じょじしマハーバーラタにて、カルナはたばかりに気づきながらも、皮膚と一体化したその鎧を引き剥がす痛みに耐え、インドラ神へ譲り渡した。

 この槍は、その高潔さと献身けんしんに感嘆したインドラ神より授けられし、神すらも殺してみせる槍だ。


 本来ならば、顕現させるだけでも鎧を代償としてしまう上に、一度しか使えない。

 だが、紋章を極めた彼は伝承を超克し、己の常識で捩じ伏せたが故に、鎧を失う代償も、一度限りしか使えないという制約もない。


 逃げ惑う観客は係の者の誘導に従って、関係者観覧席を更地にして作った平地に天羽あもうが紋章術で築いた、光り輝く樹木のシェルターに避難をしている。

 幸いなことに、最も危険な蘆屋付近の避難は既に完了していた。


 そして、この者には朝陽といえど手加減できる相手ではない。

 故に、最大最強の槍にて、の敵を葬る。


「加減はなしだ」


 太陽を象った黄金の槍に炎雷を纏った凄まじい突きを放つ。

 先のルークの全霊を込めた一撃すら児戯じぎに思える程の規格外の破壊力。


 その余波だけで観客席が焦土と化し、あまりの高温に溶解する。

 スパークを起こす雷電だけで周囲を次々と炭化させていく。


 その絶大な槍撃が激突する蘆屋の周辺に至っては、あまりのエネルギー量に空間すら歪んで見える。


 しかし、蘆屋道満。

 平安時代より一〇〇〇年以上の時を生きる陰陽師は、その槍撃を右手一本で易々やすやすと防いでみせた。

 

「ハッ! やっぱ最強の名は伊達やないなぁ。儂の概念結界を突き破りそうやないか」


 ほんの僅かであるが、朝陽の槍は蘆屋の身体へと届いていた。

 彼の槍を防いでいた右手には槍が食い込み、血が流れ出ている。

 彼に一切の攻撃が通じなかったのは、彼がその身に不可侵の概念を宿した結界を纏っていたからだ。

 本来ならば、術の起点となる霊装れいそう——紋章術魔術に用いる物品——を破壊しなければ、どれだけ強大な力であろうと傷一つつけることは敵わない。


(それを力と技術だけで空間を捻じ曲げて、正面突破するとはなぁ。儂が言うのもなんやけど人間業にんげんわざやないでホンマに)


 人類の最高到達点に立つ男の強さに思わず武者振るいし、口角が上がるのを自覚するが、今は悠長ゆうちょうに遊んでいる暇はないと自身を律する。

 後ほんの数秒で自身を護る結界は力業で捩じ伏せられるだろうことは容易に想像できたからだ。


「ごめんやけど、アンタはお外で遊んできてくれへんか」


——術式起動・羅針天陣らしんてんじん


 蘆屋が目視不可能な速度で左手を動かして空中に印を描く。

 瞬間、広大なバトルドーム全域を覆う羅針盤のような魔法陣が展開すると、眼前にいた朝陽は姿を消した。


 否、姿を消したのは彼だけではない。

 特務課第一班構成員にして、朝陽に比肩する実力を持つ柳洞寺紫燕りゅうどうじしえん

 特務課第三班構成員にして、一〇〇〇年以上の時を生きる元死刑囚、シュメルマン。

 両名もメインスタジアムからその姿を消した。


 蘆屋道満は平安時代から今まで野望を果たす為に、研鑽けんさんと計画の準備を怠らなかった。

 これもそのうちの一つ。

 何百年も前から日本全土に原子よりも更に小さい、素粒子レベルの大きさの式神を空気中に散布していた。

 その総数は最早数字に表すことも馬鹿馬鹿しい。

 空気中に含まれる酸素原子にさえ匹敵するといえば、その莫大な数を想像できるだろう。


 それら極小の式神を呼吸によって、知らず知らずの内に体内へ取り込んでしまったことでマーキングは完了。

 後は、術式を起動することで、指定した人物を指定の場所へと転移させたのだ。


 先程雨戸を転移させた術式の原型とも呼べる術式であり、彼女に施したものは、これの発展系。

 拘束術式も組み込んだ特別製だ。

 故に、極小式神では発動できず、彼女に御守りと称して術式起動の為の霊装れいそうを手渡していたのだ。


 次いで、彼は更なる術式を発動する。


「術式起動・四方界牢しほうかいろう

 

 蘆屋は人差し指と中指を立てて、天高く振り上げる。

 その動作に呼応し、メインスタジアムを囲うように淡い光の壁が天高く伸び、やがて天をも閉じる。

 敷地の外縁部を沿うように展開された半透明な結界により、メインスタジアムは外界から完全に断絶された。


 否、断絶されたのはメインスタジアムだけではない。

 クラウスのいる東京湾沿岸。

 朝陽が飛ばされた北海道オホーツク海沿岸。

 柳洞寺が飛ばされた京都府嵐山。

 シュメルマンが飛ばされた栃木県那須なす町。

 バトルドーム全域。

 

 それぞれの地域が結界に覆われて、外界から完全に断絶されてしまった。


 当然、用意周到な彼がこの程度で終わらせるはずもない。


「ほら、仕事の時間や。さっさと起きて働いてこい」


 ダダン、ダン! と禹歩うほと称される独特のステップを踏むと、各地に眠らされていた式札が起動し、合計八体の式神が各地に現れる。


 東京湾沿岸には、三メートルはある大柄な鬼。

 

 北海道オホーツク海沿岸には、高さ三〇〇〇メートルを越す巨大な苔生こけむした土の巨人と、それと同程度の巨体を誇る海水で構築された巨人。


 京都府嵐山には、骨で形作られた、牙を想起させる大剣を担ぐ、緑髪長髪で耳の長い、羽衣はごろもを纏った美女。

 

 栃木県那須町には、金毛金眼にして、麦を思わせる九本の尻尾を持つ巨大狐。

 

 メインスタジアム外、バトルドームには、鍛錬場などの敷地が並ぶ北部に巨大な骸骨の怪物。


 オフィスや社宅が並ぶ南部には頭襟ときんを被った、鼻の長い白髪の老婆。


 そして、メインスタジアムには観客席を押し潰して八つ首の巨大な大蛇が現れた。


 各地に現れた怪物はこの日の為だけにこしらえた特別な妖怪達。

 計画の邪魔をさせない為だけに用意された足止め要員。


 かの陰陽師が式神として従えたのは、かつて平安の世を席巻せっけんした怪物だけではない。

 遥か太古の時代、神秘色濃き神代を生きた怪物すらも、星の記憶アカシックレコードへ直接赴いて従えてみせた。


 彼ら八体の怪物はその全てがレートにして7。

 たった一体で世界規模の災厄を引き起こす怪物。

 それが、ただ野望を果たす邪魔をされたくない、という理由だけで日本各地に解き放たれてしまった。


「さて、それじゃお姫様を迎えに行こうかな」


 八つの災厄を解き放った元凶は、軽い調子でそう呟くと、空間の歪みに消え去った。


 後に残るは八つの災厄が一つ。

 神々がまだ存在していた太古の日本にてその猛威を奮い、建速須佐之男命たけはやすさのおのみことによって討伐された八つ首の大蛇。


 八岐大蛇やまたのおろちがメインスタジアム全体を震え上がらせる産声うぶごえを挙げた。

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