第36話 お祭り②

「ありがとうございました。いやあ、『バルス!』って感じの曲!」

「それ、違う映画。『魔女の宅急便』に出てくるキキは飛行石使わなくても空飛べますからね。皆さんがご存知のシーンもたくさんあったかと思います」


 司会を担当していた富田兄弟のやり取りに、笑いが沸き起こる。台本にないアドリブを加える圭太に冷や汗が流れ、笑顔が若干引きつるのを感じた。弟の暴投にその場で上手く返答した兄の亮太はさすがだと言わざるを得ない。ひとしきり笑いが収まったところで亮太が話し始める。


「そういえば、圭太、今年の文化祭のテーマって何やっけ」

「えーと、『広がる宇宙、広がる歴史、広がる法蓮』やったはず」

「おお、そりゃいいなあ。3曲目にお送りしますのは、酒井さかいいたるさん作曲、『たなばた』です。中間部は織姫と彦星が再会するシーンを表現しているそうです。圭太は七夕の夜に誰か会いたい人、おる?」

「えっ……⁉ おい、亮太」


 うろたえる圭太の姿にまたも笑いが起こる。普段なら虫が腕にとまっても振り落とすこともしなさそうな穏やかな亮太だが、弟相手だと様子は変わるようだ。人の良さそうな笑顔の裏に隠された双子の攻防に、部員の笑顔はさらに引きつる。


「ま、普段威勢いいくせに、いざというときに腰が引ける弟は置いといて、演奏に戻りましょうか。指揮は我らが顧問、桑島頼子先生です。それでは、お聞きください。どうぞ!」


 風船が割れるようなリムショットとともにまろやかなハーモニーが生まれる。一度聞くと忘れられないような親しみやすいメロディー。シンコペーションを多用したリズム。流麗な対旋律。軽やかで、楽しくて、愛おしい。

 やがて夜になり雲の合間から星が顔を出す。その場で鈴本先輩が立ち上がったのが視界の端に映った。目頭が少し熱くなるのは、その甘く艶やかな音のせいだけではないだろう。心を震わすビブラート。誰よりも厳しかったけれども、誰よりも音楽に真剣で、音楽を愛していた。

 川の対岸に引き裂かれた織姫と彦星は一年で一度だけ会うことを許される。それが七夕の夜だ。包み込まれるようなユーフォニアムとアルトサックスの音は絡み合い、織姫と彦星が手を取り合う。

 まろやかなトランペットからフルートへとソロが移り変わった。今回のソリストは、いつもフルートパートのムードメーカーとして気持ちを盛り上げてくれた瑞穂先輩だ。楽天的な姿には突っ込みたくなることもままあったが、ぶれない精神力には助けてもらうことばかりだった。

 先ほどの『魔女の宅急便』で優奈先輩がソロを吹いているときも今までのことが頭をよぎって仕方なかった。私たちには今しかないというのに。

 クラッシュシンバルが、星が華やかにきらめく。

 合宿の場で紗英は私に尋ねた。「もし流れ星があったら、何をお願いする」と。今なら答えられる。

 この今しかない音を捕まえたい。音に身を委ねるこの一瞬が永遠に続けばいいのに。もちろん、そんなことは絶対に無理だとわかっている。手ですくい上げようとすると、指の間から砂のようにすり抜けていく。だからこそ、この瞬間は尊いのだ。

 オーボエの余韻が消えないうちに曲のテンポが上がっていく。細かく刻まれるティンパニ。積み重なるトロンボーンにトランペット。鋭い打撃。うなるチューバ。

 フルートの速いパッセージは縦の線が合わず何度も練習を繰り返した部分だ。出来を振り返る間もなく一瞬で過ぎ去っていく。星のように音がきらめき、曲は主題へと戻ってくる。

 この高揚は曲調だけではない。自分の奏でる音が曲の一部となり、音楽を構成できることが嬉しくて、幸せで、それが一瞬であることが切なかった。

 そんなことはお構いなく、加速どころか暴走を始める音楽はこれまで部を牽引してきた3年生のようだ。普段の練習なら桑島先生がすぐに演奏を止めてその場で修正するだろう。

 でも今は本番だ。止まることは許されない。桑島先生は若干呆れたような顔をしつつも、少し笑っているようにも見える。

 勢いと情熱に溢れる先輩たちの最後のわがまま、こうなったらとことん付き合ってやろうじゃない。



 指揮台の上では海堂先輩が頭をくしゃくしゃとかき、体育館の真ん中では口元に手をあてた千秋先輩が声を張り上げていた。


「木管もっと吹いて! 全然飛んでこない!」


 前日に行われたリハーサルで、問題になったのは音量のバランスだった。

 演奏会用に設計されたホールとは違い、法蓮高校の体育館ではその構造上、木管楽器の音がとても聞こえにくいのだ。しかも木管は金管より一段低いところで演奏しているため、その傾向がより一層強くなる。

 リハーサルに使える時間は団体ごとに決められているため、少しずつ焦りが募っていく。海堂先輩に代わり、苛立ちを無理やり抑えながら千秋先輩が指揮台に上がる。


「とりあえず、全曲を通して木管はよく鳴らしてください。金管はラクに吹いてください。時間的に『ディープ・パープル・メドレー』に移ります。ソロ用のマイクと照明の確認があるので、最初に1回通します」

「はい!」


 今回の文化祭最後の曲は、イギリスのロックバンドグループ、「ディープ・パープル」の代表曲『Burn』『Highway Star』『Smoke on the Water』の3曲から成るメドレーだ。ロックならではの原曲の格好良さに吹奏楽の魅力を加えたアレンジで、演奏会などで使われることも多い。実際私や悠は中学のときにも一度演奏している。


「各パート、スタンドプレイの場所はしっかり確認しておいてください。立つの遅い人もちらほらいました。照明とかバリサク用のマイクはどうでしたか?」

「大丈夫です」


 千秋先輩の質問に、舞台から少し離れたところで機材を操作していた多恵先輩が親指を立てているのが見えた。紫や赤、オレンジ、青といった風に、曲の雰囲気に合わせてライトの色が変化させるのだ。その風貌はさながら職人といった風で心強い。


「演奏はなんていうか、アレですね。もっとお祭感がある方がいいです。せっかくの文化祭なので」


 険しい顔を崩さないまま千秋先輩が宙を睨んでいると、私の斜め後ろで声が上がる。驚いて振り返ると、鈴本先輩だ。膝の上に置いたアルトサックスに茶色がかった髪がかかっている。


「まずは振ってる日下部くさかべさんがはっちゃけた方がいいと思う」

「私が、ですか」


 千秋先輩は目をぱちぱちとさせながら人差し指で自分の顔を指していた。


「うん。陰気な感じで振るんやなくて、もっと日下部さん自身が楽しむ感じで振ったら、自然とみんなテンション上がってくると思うねん」

「はい」

「音楽室で合奏する前にウチのところ来て。今は時間ないから後で見てあげる」

「お願いします」


 かつては険悪だった、というか千秋先輩が一方的に鈴本先輩を嫌っていただけなのかもしれないが、徐々にその関係は改善してきているようだ。私たちが入部した頃には2人のこんなやり取りは想像もつかなかったため、少しだけ口元が緩む。


「とりあえず、文化祭なんで、全員楽しんで吹いてください。私もはっちゃけます」


 大真面目な顔で千秋先輩が言うので、返事をしながらも笑いが漏れる。


「トランペットとかトロンボーンとかサックスとか、みんなブイブイ吹いちゃってください。ちょっとぐらい音割れても大丈夫です、この曲に限っては。あと、袴田はかまだ君」


 そつなく仕事をこなす悠が個人的に指摘されることは珍しい。今回私は上手側にいるため、身体を捩じらなければ彼の姿を見ることはできないが、悠はエレキベースを手に淡々と演奏していることだろう。


「もっとアンプ音量上げられる? ベースラインもかなりカッコイイ動きしてるんで、それをお客さんに見せつけてください」

「……はい」


 悠の顔を見ることはできなかったが、声色から苦笑いしているのが感じられた。


「では、リハはここまで。本番と同じように撤収してください。6時からは音楽室で合奏をするので、クラスの手伝いに行く人もそれまでには戻ってきてください」

「はい!」



 しびれるような渋い音が上を向いたベルから勢いよく飛んでいく。指揮台の横に設置されたマイクの前で、バリトンサックスの3年生がアドリブソロを披露していた。高い位置で結わえたポニーテールが楽器の動きに合わせて大きく揺れ、ロック歌手のようなその姿は会場の視線を一身に集める。深々とお辞儀をすると拍手とともに彼女の名を叫ぶ声も聞こえた。

 本番前にあれほど言われていたはずなのに、指揮棒を振る千秋先輩の目元は既に真っ赤になっていた。笑って、泣いて、やっぱり笑って。全身からは躍動感がほとばしり、リハーサルのときとは別人のようだ。

 細かく刻まれるベースやティンパニのロールが気持ちの高ぶりに拍車をかける。

 ヒートアップする音楽に興奮と震えが止まらなかった。いや、止まりたくないのだ。何も考えず、音楽のノリに身を委ねるのがただひたすらに楽しい。そう感じているのはきっと私だけではないだろう。

 今日で引退する3年生も、いつも振り回されていた2年生も、初々しさが抜け、ようやく部に馴染みつつある1年生も。

 指揮者越しに観客へと意識を向ける。興奮しているのは演奏している私たちだけではなかった。演奏を聞くため駆けつけてくれた、友人、家族、地域の人、そしてまだ見ぬ未来の後輩たち。

 各々の高揚が伝播していきその興奮は共鳴し、体育館は大きなうねりに飲み込まれる。

 吹き過ぎだと言われようが、知ったことか。バランスなんて言葉は頭の中から消え失せる。もっと鳴らせと言われたことを免罪符に、木管も金管もパーカッションも力任せの危ういバランスでただひたすらに突き進む。

 フォルティッシモの全音符の裏でドラムが暴れ、名残惜しさを感じる間もなく曲が終わる。いつもそうだ。始まってしまえば終わるときというのは案外あっけない。


 スネアドラムの音が軽く鳴らされ、ベルアップの状態を解いてその場で立ち上がる。七十名近い部員が同時に動くと大きな音が鳴った。


「ありがとうございました!」


 藤原部長の明るい声が響き渡る。彼女の挨拶も今日で終わりだと思うと、鼻の奥が少し痛くなる。

 もっと、もっと、この時間を楽しんでいたかった。もっと、もっと、このメンバーで演奏したかった。

 ちらりと視線を横にずらすと、優奈先輩が軽く洟をすすったのが見えた。

 顔をまっすぐに上げ、息を大きく吸い込む。寂しさ以上に胸いっぱいにこみ上げる、この気持ちを伝えたかった。


「ありがとうございました!」


 一糸乱れぬ77人の挨拶には涙声もたくさん混じっていた。泣いていても反射的に動いてしまうあたり、さすが吹奏楽部だ。

 部を牽引してきた先輩が抜け、春には新しい後輩が入ってくる。そうやってこれまでこの吹奏楽部は回ってきたのだろう。そして、これからも、明日からも。

 私たちの奏でる音が止むことはないのだから。




第1章 初めての挑戦 (完)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る