第26話 いざ、初陣!①

 いつもより朝早くに目が覚めたのはやはり気持ちが昂っているからだろう。枕元の時計は5時を指していた。予め設定していた起床時間まではあと30分あったが、眠れそうにはない。二度寝を早々に諦め、大きくのびをする。「よし」

 ついに県大会の日がやってきた。


 出番が遅いこともあり、少し学校で音を出してからホールへ向かうことができるのは非常にありがたい。学校での最後の練習を終えてホールへ向かう道すがら、菜々子に話しかける。


「なんか話すの久しぶりじゃない?」

「そうやね、ずっと練習も別々やったし。今日一日も楽器下ろしてから結果発表までは別々やね」


 各学校に割り当てられた部屋で音出しをする管楽器と、楽器を組み立てて準備を打楽器は完全に別行動だ。菜々子を含め、一部のJメンバーはパーカッションのセッティングを手伝うため、自ずと別れることになる。


「楽器のセッティング、任せた」


 菜々子は数回目を瞬かせ、大きく頷く。


「任された。でも私は舞台に乗れへんから、演奏に関しては頑張って、としか言えへん」


 眼前にそびえたつレンガ色の大きなホールを見たまま顎を引く。「任せて」



 ホールの中ではすでに緊張した面持ちの生徒が足早に行き交っていた。


「こんにちは!」

「こんにちは」


 見知らぬ人であっても、他校の生徒や先生、大会の運営役員には挨拶をするのがマナーだ。しかし挨拶一つ取っても既に戦いは始まっていると言っても過言ではない。合同演奏会では学校同士の交流もあり和やかな雰囲気だが、コンクールは異色な空間だ。目に見える評価が下されるという特性上、そこには独特の空気がある。相手がどこの学校で、どのくらいのレベルか、楽器を手にしていればパートもわかる。「こんにちは」と言うその短い間に、ライバル意識なんて生半可な言葉では言い切れないほどの強い感情が水面下でぶつかり合う。

 荷物置き場へ向かうため、軽く会釈をしつつ他校の数人の女子の横をすり抜ける。


「こんにちは」


 当然のように「こんにちは」と返ってくる。アルトサックスが2人にテナーサックスが1人。フルートではなかったことにほんの少し安堵する。


「法蓮だ」

「あ、あの美人の先生が振ってるところでしょ」

「でもそんなに大したことないんじゃない」


 こちらを見ながら声を潜めて話していた。いや、わざと聞こえるように言っているのかもしれない。

 他校を気迫で相手を圧倒するような挨拶をする人たちもいれば、落ち着いたトーンで余裕を見せつける人たちもいる。そして、直接的ではないにしろ心無い言葉を投げかける人もいる。コンクール会場で衝突を起こすことはあってはならないため、絶対に言い返されないとわかっているのだ。

 ならば、予想を裏切る素晴らしい演奏をするまでだ。


 各学校に与えられた時間はリハーサル室で30分、小ホールで15分だけだ。リハーサル室の扉が係員によって閉められると、部屋の中はすぐに数多の音で埋め尽くされた。


「チューニングします」

「はい!」


 いつもの合奏と同様、桑島先生がハーモニーディレクターでB♭ベーを鳴らす。この機械は音程だけでなくテンポやリズムなどの指標となる、いわばキーボードのようなものだ。本番の演奏には必要ないが、ホールまで持ってきたのは限られた時間を有効に使うためであり、できる限りいつもの練習と同じような環境を作るためでもあるだろう。

 コントラバスやチューバなどの低音楽器からだんだんと中・高音域の楽器へと音の輪が広がっていき、最後にはエスクラリネット・オーボエ・フルート・ピッコロがピラミッドの一番上に乗る。絶妙なバランスの上に音楽は成り立っている。どこか一つでも崩れてしまうととたんに不安定なものに成り下がってしまう。

 前に立つ桑島先生は黒の細身のパンツスーツを着こなしていた。私たち部員はいつもと同じ白ブラウスにグレーのスカートだが、その丈はひざ下まで下ろされていて、否が応でもいつもとは違うことを実感する。それでも不思議とネガティブな感覚ではなかった。全員で変ロ長調ベードゥアのロングトーンをしながら、頭は冷たく冴えわたりつつも今この瞬間に気分が高揚しているのを感じる。


「課題曲、頭から」

「はい!」


 曲の冒頭というのは最も恐ろしい。冒頭だけで聞き手のイメージが決まると言われる一方、奏者の緊張は頂点に達し、そして冒頭を失敗すると精神的ダメージが大きく、挽回するのは難しい。冒頭部を重点的に確認する桑島先生も、おそらくその怖さをわかっているのだろう。イントロ部分を何度か繰り返したところで係員の生徒が時間を告げた。


 小ホールから大ホールへと移動する。通路を抜けると上手側の舞台袖に出た。

 薄暗く、半袖の制服にはやや肌寒さも感じる。聞きたくなくても直前の学校の自由曲が聞こえてくる。大神おおみわ高校。近年頭角を現してきた学校であり、去年は京終きょうばて高校とともに関西大会へ駒を進めていた。


「富士山、か」

「うまいね」


 『富士山〜北斎の版画に触発されて〜』は近年吹奏楽コンクールで演奏されることの多い曲だ。かなりの技術が求められる曲だが、その分演奏効果は高い。

 隣に立つ佳穂は右手で楽器を持ち、左手で楽譜の入ったファイルを抱えていた。いつもはセミロングの髪をまっすぐに下ろしているが、今日は黒い髪ゴムで一つに束ねていて、顔周りがすっきりとしている。


こま中で言われたんだけど、世界中で一番他校の演奏が上手く聞こえる場所って、舞台袖ここらしいよ」

「そうかも」


 バスドラムのように波打つ心臓を落ち着けるべく息をゆっくりと吐くと、佳穂が私の顔を覗き込んできた。


「緊張してる?」

「うん。でも、調子はすごくいい」

「じゃ、大丈夫」

「佳穂は? リードの調子どう?」


 リード楽器であるオーボエは温度や湿度によって影響を受けやすい。昨日吹きやすかったリードが今日になると吹きにくくなっている、ということもままあるようだ。佳穂が1週間ほど前から本番用リードの選定に神経を尖らせていたことは知っていた。


「最高。手塩にかけて育てた甲斐があった」

「リードって育てるものなの?」

「うん。水につけたり削ったり針金締めたりするの」

「へえ」

「フルートにはリードないもんね」

「ソロ、頑張って」

「ありがと」


 同じパートのファゴットの先輩に手招きされ、佳穂は楽譜を抱えた指先をちらちらと振った。


「かおるー」

「今行きます」


 舞台袖では静かにしなければならないため、自然とひそひそ声になる。瑞穂先輩に呼ばれ、小声で返事をしつつフルートパートの方へと向かう。


「みんな、お守り持ってきた?」


 ピッコロとフルートの両方を持つ優奈先輩は、フルートの面々を一人ずつ見た。本番が楽しみで仕方ない、といった表情の瑞穂先輩。締まった表情の千秋先輩。余裕を感じさせる陽菜先輩。


「ばっちり」

「ポケットに入ってます」

「私もポケットに」


 そして、私。「もちろんです」


 優奈先輩が満足そうな顔で頷きながら小声で、でもはっきりと、「頑張ろうね」と言ったのが聞こえた。


「絶対、関西行きたいです」


 口を横に結び、かみしめるように千秋先輩が言う。ふと中学の頃を思い出し、思わず口からついて出た。


「行きましょう、関西」


 私の言葉に千秋先輩が息を呑んだのが薄暗い中でもわかった。


「……薫って、自分からそういうこと言うんだね。でも、とってもいい顔してる」


 フルートパート全員の視線が集まる。今自分は一体どんな表情をしているのだろう。きっと悪い顔ではないのだろう。


「私もここで終わりたくないんです。もっと先へ行ってみたいんです」


 もっと先へ。もっと遠くへ。どこまでも。

 もっと、もっと、自由になりたい。


「ただいまの演奏は、大神おおみわ高等学校吹奏楽部の皆さんでした」


 壁を隔てたすぐ向こう側のはずなのに、アナウンスや観客の拍手はどこか遠くに感じられた。


「行くよ」


 5人の中で最初に入場する優奈先輩が振り返る。壁の向こう側は、他の誰のものでもない、私たちだけの場所だ。


「はい」


 さあ、私たちの舞台だ。

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