第22話 覚悟と決意①

 結局いつも通り夜7時まで自主練習を行い、重い身体を引きずりながら昇降口へと小走りで向かった。

 パート部屋に戻ってから、とんでもないことを口走ったかもしれないとはたと気づき、一瞬で顔が熱くなった。映画や小説などでは、一緒に下校することで男女間の仲が深まるのが通例だし、年頃の少女としては意識しまいとしても少しは意識してしまうのだ。火照った顔はおそらく野球応援による日焼けだけではない。


「ごめん、遅くなった」


 無言で片手をあげる悠の姿が見える。すのこの上をスリッパで走ると大きな音がなった。恥ずかしまぎれにローファーを床に落とすと砂が舞う。

 私の顔よりわずかに高い位置にある悠の顔を見る。相変わらず何を考えているのかわからない表情だ。

 いつも通りの悠を見ると、それまでいろんなことを考えていたことが馬鹿らしくなる。ばれないようにこっそりとため息をついた。

 昇降口を出てグラウンドの横を通り、階段を下りる。「最近、どう?」

 悠は私の質問の意図を図りかねているのか、やや眉間にしわが寄っている。


「どうって?」

「まあコンクールも近づいてるし、どうかなって」

「別に。調子は悪くない」

「野球応援とか、あんたは吹いてないけど楽器運びとかもあるし。暑いけど、体調とか問題ない?」


 悠の眉間のしわが取れ、すっと顔から表情が消える。


「調子はすごくいい。改善すべき点は山のようにある。でも全く問題ない」

「そう、それはよかった」


 いらついたように、能面のような無表情ではねのける悠を見ると、その言葉とは裏腹にどこか不安を感じずにはいられない。重い沈黙が二人の間を支配し、ただひたすら足元だけを見て駅まで歩く。


「それで? 今日は何の用?」


 カラオケボックスの前を通過し、横断歩道の向こうに駅がちょうど見えてきたとき、突然悠が口を開く。


「え?」

「いきなりなんだよ。俺たち誘い合って一緒に帰るような仲じゃないだろ」


 体内の血が急激に下がるような感覚がした。その場で急に立ち止まった私を見て、悠が振り返る。


「おい」

「……だめなの?」

「え?」


 足先に、指先に、そしてのどに力がこもる。かみしめた歯の間から、言葉を絞り出す。


「用もなく、あんたの心配もしちゃだめなの?」

「何の話だよ」


 感情を押し殺したような低い声を聞き、抑圧していた感情が爆発するのを感じた。


「ふざけないで。あんた最近絶対ヘンだと思う」

「練習にも毎日出てるし、何も問題ないだろ」

「そういうことじゃないから。無表情の鉄仮面顔に貼り付けてさ。一体なんなの」

「……黙れよ」

「黙らない。じゃあなに、身近なところで誰かが潰れるのを指くわえて見てろってわけ。あんたがそこまで薄情だって言うなら私もそうする」


 勢いに任せて早口で一気にまくし立てる。息を荒げて肩を上下させていると、少しずつ気持ちが落ち着いてくるのを感じた。ヘッドライトを点灯させた車が横を通り過ぎ、一陣の風が吹くとともに困惑した悠の顔を照らし出す。


「ごめん、こんな言い方するつもりなかった」


 顔も見ずに駅へ歩き出す。運悪く、ホームに入ってきたのはクロスシートタイプの電車だった。一緒に帰ろうと誘った手前、別れるのはためらわれる。苦々しく思いつつも隣り合った空席を見つけ、窓側のシートに身を沈める。

 本当に、馬鹿みたいだ。長年隠した恋心を打ち明けるならまだしも、理性を持たない子供みたいに高ぶった感情をそのままぶつけるなんて。窓に反射した自分の顔を見て、私らしくないな、と笑う。窓の中の私はひどく弱々しく見えた。

 そうか。私は疲れていたのか。至極当たり前のことに今更ながら思いいたる。今日だけではない。積もり積もった疲労により、理性という枷を外された結果がこのざまだ。

 情けない。自分の状態を把握することもできないなんて。八つ当たりを疲労のせいにするなんて。こんな形でしか他者に自分の気持ちを伝えられないなんて。情けない。ぐっと奥歯をかみしめ膝の上にのせたフルートケースをぎゅっと握りしめる。


 最寄り駅に着くと早く別れたい一心で「じゃあね」と顔も見ずに去ろうとした。でも悠はそれを許してはくれなかった。


「水谷」

「いいの、忘れて」

「悪かった」

「だからいいってば」

「違う」


 強い口調にハッとして顔を上げる。そこにあったのは怒りでも苛立ちでもなく、それはなんというか。


「いや、違わない。いや、違わないことないのか……。ともかく水谷に話しておきたいことがある」


 まっすぐな視線が私を捉える。なぜだろう。ふっと力が抜け、自分でも驚くほど素直に返事ができた。「いいよ」

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