第542話 心猿意馬
「ねぇねぇ、しゃなな様~」
「どうした?」
橋姫を抱いた後、大河の部屋に与免がやって来た。
「ははうえからしゃなな様におてがみ~」
ちょこちょこと歩いてきて、膝に飛び乗る。
相変わらず、その猫の様な身軽さに、大河は、感心しつつ、その手から差し出された手紙を受け取った。
「……うん」
「よめない?」
「御免ね。学が無いんだ」
そう言って誤魔化すのだが、実際には、読めない訳ではない。
漢字、平仮名、片仮名、アルファベットは勿論の事、アラビア文字、キリル文字等も読める位、語学力に長けている大河なのだが、如何せん、美文字すると、逆に
「だいどくしようか?」
「出来る?」
すると、与免は、眉を顰めた。
「わたし、れでぃーなんだよ? よめるよ?」
何処で蟹文字を覚えたのだろうか。
気になる事だが、大河は、手紙を与免の前に広げた。
「では、読んで下さいませ」
「ぎょい」
なんだかおかしな会話だが、実子・累と同じ年齢の子供をこの位の事で叱る程、大河は、鬼ではない。
「『はいけ~。さなさたいがさまへ。こたびは、ちょーじょ、こーにつづいて、さんしまいをめとっていただき、ありがとーございます』」
書道家の様な美文字を、3歳児に代読させるのは、大人として屈辱的な事であるが、『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』と
(三姉妹を娶る……決定事項なんだな。芳春院様の中では)
幸姫だけでなく三姉妹も嫁入りとなると、今後、山城真田家と前田家は、更に密接な関係になるだろう。
三姉妹が望み、誾千代等の女性陣の許可が出れば、
「『こんごは、よりいっそー、りょーけのしんみつをたかめるために、わたしとおっとのとじょーのきょかをだしていただきたいのです。よろしくおねがいします。けーぐ』」
「……有難う」
3歳児が難しい漢字を一言一句読めるのは、やはり前田家の令嬢として、早い段階で、高等な教育を受けている証拠だ。
「許可ねぇ……」
「だめ?」
「う~ん。駄目じゃないけど、俺だけの判断じゃ難しいな」
「じょーしゅなのに?」
「城主だけど、宮内省に属す大臣でもあるからだよ」
「?」
「御免。分かり難かったね」
お詫びとばかりにカステラを取り出す。
「にゃぱ~♡」
テンション爆上げの与免は、カステラに飛びついた。
その頭を撫でつつ、大河は、物思いに耽る。
(許可か……)
手紙は、私的な事だが、山城真田家では、諍い防止の為に例え私的でも
「母上が御無理な事を……申し訳御座いません」
「しょうがないね。―――ですよね、陛下?」
「そうだね」
大河の膝を占拠する朝顔は、苦笑いだ。
芳春院の押しの強さに驚いているのである。
右側のラナ、左側のヨハンナ、背後のマリアも同じ様な反応だ。
「サナダ、義父母の登城は問題あるの?」
「俺が許可した者以外は、事前審査制なんだよ。身辺調査するから」
「私の父母もするの?」
「王族は別だよ」
「なら良し」
にへら、とラナは微笑む。
王族が身辺調査されるのは、言わずもがな不敬だ。
日ノ本と布哇王国は、友好国なので、当然、
一方、欧州に実家があるヨハンナや、故郷を追われたマリアは、余り関心が無い様で、
「貴方、イタリアから取り寄せた
「陛下と殿下もどうぞ」
と、ヨハンナは大河に、マリアは朝顔、ラナに其々、イタリア産の緑茶を勧める。
「有難う」
大河が毒見を込めて、先に頂く。
別に2人を敵視している訳では無いのだが、『念には念を入れよ』という
ヨハンナ達もその辺の事情は理解しているつもりなので、それで不快になる事は無い。
「……味、違うな?」
「現地人用に品種改良しているからね」
(´∀`*)ウフフ
と、ヨハンナは、笑う。
『郷に入っては郷に従え』―――そのままの緑茶だと、イタリア人の嗜好に合わない可能性があるのは、当然と言えば当然だ。
外国人に人気の
「ちょっと濃いかな」
「あら、お気に召さない?」
「全然。いつも飲み慣れているのと比べると、濃いだけ。嫌いじゃないよ」
フォローしつつ、大河は、2人に「飲んでも大丈夫」と目配せ。
「……うん。美味しい」
「私は好きだよ。外国人向け? かも? もう1杯頂けるかしら?」
朝顔もその濃さに驚きつつも、合格点を出し、ラナに至っては好みらしく、マリアに御代わりを要求している。
朝顔が飲んで合格が出た為、この緑茶は、今後、商人が『上皇御用達』として大いに宣伝するだろう。
否、既にヨハンナが購入している事から、『元教皇御用達』として売り出されているかもしれない。
尤も、日ノ本は、キリスト教国では無い為、後者の場合、切支丹が主な顧客層になるだろうが、前者だと日本人全体が一気に顧客になる可能性がある。
商人の立場からすると、元教皇より上皇の方が、商業的に良い為、出来る事なら、前者を大きく宣伝したい所だろう。
但し、どちらにせよ、大河が許せばの話だが。
(一応、調べとくか。もし、広まっていたら、情報操作しなければな)
元教皇、上皇が商業的に利用されるのは、好ましくない。
与祢に目配せすると、優秀な侍女は、それだけで意図を汲み取り、御辞宜してから退室する。
付き合いが長い為、まさに阿吽の呼吸だ。
鶫等とも同じなので、大河の人選と指導が良い証拠だろう。
「あ、そうだ。貴方」
ヨハンナが笑顔で告げる。
「午前中、色欲に浸っていたそうね?」
「うん?」
段々、目が怖くなっていく。
「異教徒だから、耶蘇の思想は押し付けないけれど、ちょっと自制した方が良いわよ? ね、陛下?」
「そうね」
朝顔も同調する。
「謙信から相談があったから」
「……済まん」
朝顔、ヨハンナの苦言に、大河は、冷や汗を垂らし、
万和5(1580)年7月1日。
暗殺未遂事件以降、京都新城の警備は、
と言っても、
「この度、登城の許可をお許し下さいまして、有難う御座います」
大広間で芳春院は、朝顔、ヨハンナ、ラナに返礼の為、大きくお辞儀する。
この城では、城主の妻・誾千代が、饗応の適任者なのだが、3人が居る以上、彼女達を無視する訳にはいかない。
その誾千代は、大河と共に前田利家をもてなしている為、ここには居ない。
朝顔が問う。
「芳春院、慣例を変えて迄、登城に
「は。畏れながら陛下。成長した娘達を見たくなり、居ても立っても居られずに会いに来た訳です」
本当は違う。
伊万の嫁入りの噂を聞いて、慌てて、要請したのである。
ただ、それだと警戒されるのは、目に見えている為、「娘達の成長を見たい」という理由を作ったのだ。
勿論、それも本心なので、全てが嘘とは言い難い。
ただ、朝顔に面と向かって本心を語れないのは、良心が痛む。
(さて、夫の方はどうかしら?)
隣室では、利家は、久々の再会を喜んでいた。
「与免、大きくなったか?」
「うん! 1寸(現・約3cm)!」
にんまりと笑う与免に利家のニヤニヤが止まらない。
累が同じ位なので、大河も利家の気持ちは、十二分に分かる。
大河の膝には、摩阿姫と豪姫が座っている。
2人も利家に甘えたいが、末妹にその座席を譲ったのは、言う迄も無い。
「真田殿、幸の後にこの娘達も娶って頂くのは、我が家もこれで安泰です」
その幸姫は、利家の顔を見たくないのか、大河の背中に顔を埋めて、我関せずだ。
どちらかというと、こっちの方が恥ずかしい気がするのだが。
本人の選択なので、大河としては、どうする事も出来ない。
「……」
同席する誾千代は、城主である大河に配慮してか、笑顔を浮かべるだけで、一言も発さない。
あくまでも一歩、引いている感じだ。
「真田殿、3人からは、手紙でよく聞いています。大変、お優しく接しておられるかと」
「はい。子供ですので―――痛?」
手の甲に激痛が走った為、見ると、豪姫が噛んでいた。
そして、睨みつける。
私達は子供ではない、と。
「! 豪!」
慌てて利家が、豪姫を剥ぎ取るも、時既に遅し。
手の甲には、はっつり歯形が付いていた。
「!」
瞬間的に利家は、手を上げようとするも、素早く、誾千代が豪姫を搔っ攫う。
「! 立花様?」
「叱りたいのは重々分かります。ですが、肉体的な暴力は、虐待であり、少なくとも、我が家の一員になった以上、他家の人間が暴力を加えていいものではありません」
「!」
その発言に1番に驚いたのが、大河だ。
我が家の一員、とはっきり公言した以上、今後、覆す事は難しい。
然も、相手は、前田家現当主・利家と来ている。
少なくとも、豪姫の山城真田家入りは、事実上決定した、という訳だ。
それを理解しつつも、利家は、口を開いた。
「立花様、ですが、真田殿が現に御怪我を―――」
「今のは、夫の失言ですから。悪いは、夫です。女性に対して子供扱いするのは、無礼ですから」
「……はぁ」
はっきりと言われ、利家は、振り上げた拳の落とし所を失う。
「真田様、反省して下さい」
摩阿姫も誾千代の肩を持つ。
「……そうだな」
失言の自覚は無いのだが、豪姫が噛む程の事である。
褒められたものではないのは、事実だ。
「失礼します」
アプトが絆創膏を手の甲に貼る。
「有難う」
アプトに接吻し、彼女が離れた後、大河は、豪姫に頭を下げた。
「先程のは、済まなかった。許してくれるかい?」
傷ついた手を差し出すと、豪姫は、恐る恐る手を伸ばす。
そして、大きな手と小さな手は、和解の為に握り合った。
「うん……許す」
立場上、豪姫の方が格下なので、利家はヒヤヒヤだ。
法治国家の為、豪姫が斬捨御免に遭う可能性は低いが、それでも噂では、夜な夜な城を出ては、辻斬りを行っている、と噂される程、殺人を好む大河の事である。
今でこそ、落ち着いているが、実際に戦国時代では、浪人時代、前線で活躍し、多数の
大河の人格次第では、豪姫は手討ち、前田家は改易になる可能性もあったのだ。
「良かった。有難う」
大河は笑顔を見せると、豪姫は、誾千代から離れて、再び大河の下へ。
誾千代が決して嫌い、という訳ではないのだが、大河の方が、波長が合うのだろう。
「だ!」
その様子に与免も触発され、利家から大河の膝へ移動する。
結局、三姉妹は、膝に集まった。
更にこれに、背後から幸姫が抱擁している訳で、4人共、大河にべったり、という事だ。
利家は、思う。
(……知らぬ間に少女から大人になっていたか)
3人は、その思いに知ってか知らずか、大河の胸元に顔を埋め、その感触を楽しむのであった。
[参考文献・出典]
*1:朝日新聞 2008年6月8日
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