東亜動乱

第220話 国歩艱難

 日ノ本が平和であっても、他国が同じとは限らない。

 ロシア皇国等が、交戦していた中国大陸では、停戦に近付いていた。

 戦費が底を突き始め、又、長期間続く対外戦争に民も疲弊。

 増税に度重なる強制徴用がその理由だ。

 当然、不信感が募り、反乱の機運が高まり始める。

 それを察知した各国は、秘密裏に和平交渉を始め、長らく続いていた戦争が、漸く停戦の可能性が出て来たのだ。

 交戦団体、

・ロシア皇国

・元

・清

 の3カ国は、日ノ本に仲介役を要請し、京にてその交渉が始まった。

 3カ国からは、外務大臣が。

 日ノ本からは、家康が責任者として出席する。

「この度、司会者としての大役を仰せ付かった徳川家康です。皆様、宜しく御願いします」

「「「……」」」

 3人は、家康に日本式の御辞儀で応える。

 然し、相互が目を合わす事は無い。

 日本語、ロシア語、モンゴル語、満州語とここは、バベルの塔並に言語がバラバラだ。

 日ノ本側は、公平を期す為、中国語を会議での公用語に提案したが、3カ国は拒否。

 代わりに日本語が流暢な外交官を派遣した。

 これを機に日ノ本と友好関係を構築すると共に、その軍事力の情報を集め様、という魂胆がある様だ。

 その為、珍しく通詞は居らず、出席者は彼等の他に書記官のみである。

 家康が、主導権イニシアティブを握る。

「明が滅んだ為、中国の継承国は、事実上、現在、断絶しています」

 ソ連崩壊後、その後を継いだのは、ロシアであった。

 その為、一部の地域では、独立を許したが、チェチェンやウクライナの親露派が占領している所では、今尚、絶大な影響力を誇っている。

 ソ連同様多民族国家であったユーゴスラビアが解体後に分裂及び内戦になり、全盛期程の力が無い所を見ると、ロシア人目線では、その選択は正解だっただろう。

 チェチェン人独立派やウクライナ人には、迷惑千万だろうが。

 家康は、某司令の様なポーズで、続ける。

「そこで、正統な後継者を3カ国でお決めになった方が宜しいかと」

「……日本人ヤポンスキーは、興味無いのか?」

「ええ。『大陸には関わるな』と御達しを受けているので」

「誰から?」

「貴国を破った英雄ですよ」

 何もやっていない家康だが、自分の事の様に胸を張る。

「「「……」」」

 3人は、沈黙した。

 日ノ本がこれを機に大陸に進出すると考えていたから。

 その予想が外れたのは幸いだが、外交政策をも指南しているのが、あの男だという。

 無欲と言いながら黒幕となっている辺り、信用し難いのが本音だ。

「大陸は、各々が自由にして下さい。我が国は、無関係ですから。但し、河南を御譲渡下さい」

「! 如何する気だ?」

 その統治者・清が、逸早く反応した。

「我が国からの移住先です」

「入植地にするのか?」

「いえ。その方々は、我が国とは無関係です。新天地を求めている流浪の民ですよ」

「……何故、日本人でも無いその民の為にそこまでする?」

「曹操の命令なら、誰でも従うでしょう?」

「……」

 信長の同盟者であった家康が、家臣に成り下がる程、彼にとって大河は恐怖の存在だ。

 孫娘・千姫が彼の正室になった為に事なきを得ているが、過去の敵対者は殆どが死を遂げている。

 文字通り、千姫が家康の命綱であって、徳川家の生命線である。

「我が国―――日ノ本は、大陸には、関わりません。それが方針であり、今後、変わる事はありません。河南以外の事は、どうぞ御自由に御話下さい」

 日ノ本の中国大陸不進出が正式に通知された。


 停戦交渉は、日ノ本と国交のあるイギリスやスペイン等の諸外国も注目していた。

 高級料亭にて。

「真田の殿様や、何故、中国を捨てたんだ?」

「興味無いから」

 大河とサトーは、飲み交わしていた。

 もっとも、前者は宇治茶。

 後者は紅茶と、飲んでいるのは、酒ではないが。

「勿体無い。あんな広大な国土、手に入るかもしれんのに」

「補給線が伸びたら、何れ限界が来る。日ノ本は、この位で丁度良いんだよ」

「全く無欲な黒幕だな。じゃあ、香港を貰いたい」

 香港がイギリス領になったのは、1842年の南京条約の時。

 1839年、阿片戦争が勃発し、1841年に英軍が香港を占領したのが契機だ。

 その後、一時、太平洋戦争で日本軍に奪われた時期もあったが、WWII後に奪還し、1997年の返還まで約150年間支配していた。

「それは、清に言ってくれ。我が国は、不干渉だ」

「そうか。なら、最悪、戦争だな」

 今よりも戦争がし易い時代な分、イギリスは、領土拡大に熱心だ。

 敵国・スペインが弱体化し、ロシアが中国大陸に熱心な今がその好機、と考えているののかもしれない。

「それよりも新大陸はどうなった?」

「耳が早いな。フランスと激しく争っているよ」

 アメリカ大陸がされたのは、1492年10月12日。

 *現在では、先住民族への配慮やコロンブス以前の発見者の説もある為、「発見」より「到達」と表現される場合もあり。

 その後、アメリカ大陸は、

・スペイン

・ロシア

・スウェーデン

・フランス

・オランダ

・イギリス

 の6カ国が、植民地支配に乗り出している。

 そのどれもが結局は、独立派に敗れ、撤退しているのは、歴史が証明済みだ。

「ロシアは、見ての通り、大陸に固執している。海を渡るより近場の不凍港の方が良いからな」

「だな」

「後も我が大英帝国の足元にも及ばん小国共だ」

 紅茶を酒の様に飲み干す。

「友人として助言しておこう。新大陸には、手を出さない方が良い」

「何故だ?」

「何れ竹箆しっぺ返しを食らう」

「そうか? 先住民族は、雑魚だぞ?」

「……分かった」

 それ以上、大河は、何も言わない。

 したのだから、それを如何解釈するかは、受け手次第。

 これで、大英帝国は、アメリカ大陸で手痛い事にあるのは、確かだろう。

 その時、突如、襖が開き、

「見付けた!」

 紫色の着物の朝顔が現れ、大河に飛びついた。

「も~。探したのよ!」

「おいおい、一体何の騒ぎだよ」

 公務終わりなのだろう。

 着物は、自宅では見た事が無い代物だからだ。

「今日は、私と夕食だったよね?」

「ああ。六つ半(現・午後7時)だな。後、1刻もあるが?」

「逢引よ―――あ、サトー様」

 サトーと目が合い、朝顔は、居住まいを正す。

 普通なら恥ずかしくなる所だが、幼く見えても中身は大人だ。

 その変わり身の早さと言い、公務と私的との差に、サトーは、呆気にとられるばかりであった。

「……陛下?」

「はい。上皇の朝顔です。信任状捧呈式以来ですね?」

「は、はい……」

「日本での生活は、慣れましたか?」

「は、はい。御蔭様で……地震には、何時も驚きますが」 

 イギリスでは、滅多に地震が無い為、サトーには、地震が神罰の次に恐ろしい。

 現代でも震度1程でトップニュースになる位だ。

 その為、日本に来たイギリス人を含めた外国人の多くは、地震に恐怖し、中には逃げ帰る場合もある。

 平成23(2011)年、NPBに来日した助っ人外国人も、3・11後、無断で帰国し、そのまま1試合も出場せずに引退してしまった様に。

 慣れない土地での天災は、時に士気を極限に迄削いでしまうのだ。

「震災時、貴方は、帰国せずに炊き出しに御協力して下さいました。その度は、有難う御座います」

「いえいえ。神に仕える者として当然の事ですよ」

 サトーは、親日家として日本人の自己同一性を刺激しない様に配慮している。

 異人の自分に対し、「名前が日本的」という理由だけで、好意的なのだから。

 毛嫌い出来る訳が無い。

「家庭を顧みない夫を帰宅させても宜しいでしょうか?」

「はい。陛下の御心のままに御願いします」

「有難う御座います。では、失礼します」

 礼儀正しく朝顔は、御辞儀し、大河の首根っこを掴み、引き摺って行く。

 相当、尻に敷かれているのか、大河は、一切無抵抗。

「……」

 悲しそうな目が印象的であった。

(『幼帝は怪力で良妻賢母(?)』だな……)

 2人を見送った後、サトーは寂しく1人で紅茶を楽しむのであった。


 朝顔に連れて行かれた先は、洋菓子店であった。

「大河、選んで」

「何を?」

「洋菓子。ほら、見て見て」

 朝顔が指差した先には、

『想い人に贈ろう! 2月14日は、洋菓子大作戦!』

 と銘打たれた垂れ幕で覆い尽くされた区画が。

(……そういうことか)

 大河の知らぬ間に、民間では、現代の様なバレンタインデー商戦が普及していた様だ。

 現代日本でバレンタインデーが流行したのは、昭和33(1958)年頃とされる(*1)。

 それが、日本社会に定着したのは、1970年代後半であった。

 毎年2月に売上が落ちる事に頭を抱えていた菓子店主が企画を発案したと云われている。

「女性が男性に対して、親愛の情を込めてチョコレートを贈与する」という「日本型バレンタインデー」の様式が成立したのもこの頃であった。

・菓子店の企画と広告

・キャッチコピー

・宣伝方法

・百貨店とのタッグ

 等による商戦の成功であったといわれている。

 尤も、この話には、異説があり、

・モロゾフ説

 神戸のモロゾフ製菓が昭和11(1936)年年2月12日に外国人向け英字新聞に、「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」という宣伝文句の広告を掲載。

・メリーチョコレートカムパニー & 伊勢丹説

 同社が昭和33(1958)年2月に伊勢丹新宿本店で「バレンタインセール」というキャンペーンを行った。

・森永製菓説、伊勢丹説

 昭和35(1960)年より森永製菓が「愛する人にチョコレートを贈りましょう」と新聞広告を出し、更に伊勢丹が昭和40(1965)年にバレンタインデーのフェアを開催し、これがバレンタインデー普及の契機となった(*2)(*3)。

・ソニープラザ説

 ソニー創業者の盛田昭夫は、昭和43(1968)年に自社の関連輸入雑貨専門店ソニープラザがチョコレートを贈る事を流行させ様と試みた事をもって「日本のバレンタインデーはうちが作った」としている(*4)。

 等、諸説があり、その起源は判然としていない。

 日ノ本では神戸が外国人街の為、モロゾフの様に外国人向け瓦版が発端かもしれない。

 尤も、バレンタインデー=チョコレートという図式は、未成立の様だが。

「……あれ、したいのか?」

「そうよ。でも、貴方の好みが分からないからどうせなら一緒に選ぼうかな、って」

 大河は、菓子を滅多に食べない。

 嫌い、という訳ではないが、食べるにしてもお江等の幼妻や華姫等、娘が一緒の時位だ。

「洋菓子、どれが好きなの?」

「……迷うな」

・スポンジケーキ

・パウンドケーキ(カトルカールとも)

・ロールケーキ

・ケーキ

・タルト

・シュークリーム

・エクレア

・アップルパイ

・カスタードプディング(プリン)

・マカロン

・ゼリー

・ムース

・ババロア

・パフェ

・カップケーキ

・モンブラン

・ミルフィーユ

・パンナコッタ

・バウムクーヘン

・ビスケット

・クッキー

・ワッフル

・マドレーヌ

・クレープ

・ティラミス

・チーズケーキ

・チュロス

・ドーナツ

・ショートケーキ

・チョコレートケーキ

・キャンディ

・ドロップ

・キャラメル

・マシュマロ

・グミ

・ゼリービーンズ

・チューインガム

・チョコレート

・アイスクリーム

・シャーベット

・ソフトクリーム

・アイスキャンデー

・ジェラート

・スナック菓子

・ポテトチップス

・ポップコーン

 ……

 どれも美味しそうで、試食したい所だが、流石に全部は無理だ。

 客層は、若いカップルや若夫婦。

 子供連れは、殆ど居ない。

 皆、朝顔がこんな場所に居るとは思わず、各々、楽しんでいる。

 誰もが平和で笑顔な時代。

 これが、朝顔の夢に迄見た光景だ。

「……」

 嬉しそうに大衆を見詰める朝顔。

 それに大河は、見惚れていた。

「……朝顔?」

「何?」

「俺への贈答品は、一つで良いから何でも選んでくれ」

「え? でも、多過ぎて困る―――」

「朝顔が選んだんだ。それがだよ」

「……分かった」

 朝顔は、熟考を始める。

 そして、チョコレートを買い物籠に入れる。

「これにするわ」

「有難う。じゃあ、俺からは皆の分だ」

「え?」

 懐からお金を出して、

「済みません。当日で良いんで、1種類ずつ、其々100個程郵送出来ます?」

「は、はい。少々お待ち下さい!」

 店員が裏に走って行く。

 店長と相談する為に。

「……大河?」

「皆の分だよ。普段、家事や育児を頑張ってくれるているからね。その恩返しも兼ねて、だよ」

「……有難う」

「良いって事よ」

 大河を喜ばしたかったのだが、逆に朝顔は、喜色満面だ。

(もう……馬鹿)

 内心、毒舌になりながらも、大河の腕を絡めとるのであった。

 万和3(1578)年2月。

 この時、上皇が秘密裏に夫に買っていた事が、後に広く知られ、現代に迄続くバレンタインデーの文化として根付く由来となった事は言うまでも無い。


[参考文献・出典]

*1:『広辞苑』第5版

*2:毎日新聞 1977年2月12日

*3:朝日新聞 1978年2月15日

*4:2007年2月3日 北海道新聞1面「卓上四季」

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