第211話 依依恋恋
地元政府の長の癖に何も出来なかった海野信親は、頭を下げた。
「この度、無策であった事を御詫びします」
信玄亡き後、武田家の没落振りを表すこの出来事は、当然、領民が、武田家に対し、不信感を増長させる理由の一つになっただろう。
賠償金1兆円が前に置かれる。
大河は、即座に断った。
「御気持ちだけで大丈夫です。信松尼様が無事でしたから。それに人質を簡単に拉致された我が家の警備上の落ち度もあります。貴家のみ責める事は出来ませんよ」
笑顔の大河だが、近衛大将に迷惑をかけた、と思う武田側は、焦っていた。
「御願いします。それを受け取られないのであれば、どうか、我が姫を今後共宜しく御願いします」
「……はい?」
信親の後ろの襖が開き、白無垢の信松尼が登場する。
「……」
「如何ですか? 真田様?」
「あー……綺麗だよ」
信親は、ニヤリ。
先読みしているのは、とても盲人とは思えない程の軍師振りだ。
「姫は、尼僧にも関わらず、汚されてしまいました。真田様しか貰い手が居ません」
「……人質に手を出せ、と?」
「お市様と事実婚の御関係ですよね? 真田様が迎えて下さらなければ、姫は即身仏を選ぶかもしれません」
「……本気か?」
信松尼に尋ねると、彼女は、微笑んで、大河の前に座る。
「事実婚でも構いません。私は、真田様以外考えられません。真田様と一緒に過ごしたいのです。宜しく御願いします」
そう言って、三つ指を突く。
「……」
誾千代等の顔が過る。
然し、信松尼を失いたくないのも事実だ。
帝に婚姻禁止を言われた直後、事実婚は、背徳感が拭えない。
「……知っているだろうが、俺は、もう結婚出来ない身だ。事実婚でも良いのならば、結婚し様」
「はい! 宜しく御願いします!」
尼僧として結婚を諦めていたが、謙信の新婚生活を間近で見ていて、無意識に羨ましく思えていたのかもしれない。
大河に抱き着き、頬をスリスリ。
「還俗した方が良いですか?」
「尼僧でも結婚出来る様になったから、任せるよ」
「じゃあ、還俗します!」
仏から大河に鞍替え。
これ程思い切りの良いのは、逆に清々しい。
憲法で自由権を明記し、更に、
―――
『自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事』*1)
『これより先、僧侶は肉を食べる事、配偶者を得る事、髪を生やす事等、自由。
法要以外の時は、一般市民が着ている服装で居る事も自由』(*2)
―――
と合法化した為、僧侶でも尼僧でも正式に結婚出来る。
明治時代に同法が制定されたのは、当時の政府が、神道を国教化し、仏教を弱めたい思惑があったとされる。
大河が制度化したこの法律も、一部の過激な仏教勢力を弱める狙いがあった。
徹底的な武力鎮圧と婚姻法の飴と鞭は、安土桃山時代版治安維持法と普通選挙法と言えるかもしれない。
信松尼の様に還俗する者も少なくない。
「そりゃあ良いが、瀬田の寺は、如何するんだ?」
「あ……」
気付いて、固まる。
還俗すれば、説法は出来ない。
信者が求めているのは、尼僧の信松尼であって、一般人の彼女ではないから。
「……御免なさい。もう少し考えさせて」
「熟考して良いよ」
尼僧でも一般人でも妻であれば、愛すのが大河だ。
お市に次いで、信松尼との事実婚が決まった。
甲斐国(現・山梨県)でも名君として大人気であった大河と信松尼の事実婚は、直ぐに領内にも広がった。
「まさか、姫様と御結婚されるとはな」
「巫女の奥方が既に居たよな? 今度は、仏教か? 無神論者の様に見えても、女性の宗教家は別か」
「馬鹿! 失礼な事言う
城下では、結婚を御祝いして、八つ橋と宇治茶が領民に振る舞われる。
そんな中でも特別高等警察は、監視の目を緩めない。
領民を信用していない訳ではない。
然し、梅雪の残党が紛れているかもしれない為、念には念を入れよ、だ。
用意された『富士』は、文字通り、富士山を見える温泉宿で、2人は、交わっていた。
貪る様に互いを求め、舐め合い、一つになった。
「真田様……♡」
「これで、
「真田様の所為ですわ♡」
―――
処罰対象は、比丘(男性僧侶)が1~4、比丘尼(尼僧)が1~8となっている。
1、淫戒
出家者でありながら、戒律や身分を捨てて予め還俗しないで、異性(又は同性)と交わった際には、その罪を得る。
つまり、基本的に出家者には結婚や性行為は認められず、それが出来ない場合には自ら望んで還俗しなければならない。
2、盗戒(不与取、とも)
与えられていない物を盗る事。
3、殺人戒
故意と過失とに関わらず罪を得る事になる。
4、宗教的な嘘を吐く事(大妄語戒)
自身が正しい覚りを得ていない事を認識しているにも関わらず「自身が仏陀(又は阿羅漢)である」「究極の覚りを得た」と嘘を(故意ではなく思い違いに基づく発言である場合、これには該当しない)、又、仏教教団である
5、触
欲心を持ちつつ男性に首下から膝上迄の領域を触られる。
6、八事
男性との8種の逢瀬。
→欲情の心を持って、欲情の男性に手・衣を捉られ、人目につかぬ場所に入り、共に立ち、共に語らい、共に人目につかぬ場所に行き、共に寄り添い、共に人目につかぬ場所にて会う事を約束する。
7、覆
波羅夷を犯した他の比丘尼を告発せずに覆い隠す。
8、随
僧伽に背く比丘に随っている事に対する他の比丘尼からの注意に三度に渡って従わない。
―――
全てを終えた後、信松尼は、大河の胸元に頭を置いて、呟く。
「……抱いて下さいまして有難う御座います」
「……信玄公は、怒っていないかな?」
「大丈夫ですよ」
頬に接吻し、信松尼は、微笑む。
結婚は出来ないものの、人生最大の喜び、といった感じだ。
「そうだと良いが……」
『―――』
『―――』
隣室から、喘ぎ声が微かに聞こえる。
初夜に興奮した鶫達が、愛し合っている様だ。
「……本当に御免なさい」
「何が?」
「私の我儘を聞いて下さって……」
「全然。気にしてないよ。松」
「へ?」
いきなり、本名で呼ばれ、信松尼は、照れる。
武田氏の女性については信玄正室の三条夫人を始め実名が不詳である事が多いが、松姫は同母妹の菊姫と共に実名の判明している女性として知られる。
「好きだから快諾した。只、それだけだ」
「……本名は、恥ずかしいです」
「あれだけ、感じていた癖に今更何言ってんだよ?}
「もう……」
更に真っ赤っか。
細い体を抱き締めて、大河は、囁く。
「山城真田家へ、ようこそ。松」
翌日早朝。
大河達は、帰る。
昼間でも良いのだが、領民の盛り上がりを見ると、空港が混乱してしまう可能性が高い。
それによって他の便が遅延する事も否定出来ない。
なので、始発で発ったのであった。
甲斐国(現・山梨県)から京までは、1時間以内に到着出来る。
登城すると、お江が駆けて来た。
「兄者~!」
そのまま飛びつく。
「お帰り~」
「只今。元気だな?」
「うん! 寂しかったけれど、弟が居るから元気!」
お江の背後には、エリーゼと千姫が、其々、赤ちゃんを抱いている。
猿夜叉丸は居ない為、既に養子に出された様だ。
「弟達とはどんな事してたんだ?」
「ずーっとあやしてたの」
ほら、とガラガラを見せる。
お江が描いたのだろう。
赤ちゃんが2人、眠っている絵が
「上手いな。画家になれる―――」
「兄者の御嫁さんだけで十分だから」
犬の様に大河の頬を
元気な様だが、やはり、大河が居ないと不安だった様だ。
「帰りました」
信松尼が挨拶する。
「この度、御迷惑をおかけしました」
「良いのよ。お帰り」
お市が、その肩を優しく叩く。
「それと、今夜は、御祝いしなきゃね。事実婚、おめでとう」
「え?」
「尼僧の癖に真田様と誘惑し、事実婚なんて、本当、泥棒猫ね?」
お市の目が怖い。
心無しか、額もピクピク痙攣している。
「真田様」
「はい」
女性とは思えぬ低音ボイスに、大河は、居住まいを正す。
「事実婚は私だけと思っていましたが、本当に若い娘が好きなのね? 焼餅焼いちゃうわ」
「……済まん」
「謝って済むなら
「ぐえ」
大河は猫掴みされ、お市に拉致されていく。
誰も止める事は出来ない。
「じゃあ、信松尼。貴女もね?」
「同情していた私が馬鹿だったわ」
「大河は、それ以上の大馬鹿者だけどね?」
朝顔、誾千代、謙信に囲まれる。
「……えーっと読経の時間が?」
「還俗したんでしょう? 何処にも行かせませんよ?」
於国に先回りされ、文字通り、信松尼は、四面楚歌に陥る。
そして、歓迎会に招待(誘拐?)されるのであった。
[参考文献・出典]
*1:婚姻法
*2:太政官布告
*3:真言宗泉涌寺派大本山法楽寺 HP
*4:『戒律の世界』 森章司 渓水社 1993年
*5:『初期仏教教団の運営理念と実際』森章司 国書刊行会 2000年
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