第201話 死生有命

 元就が患った食道癌は何処にでも出来る可能性があるが、現代日本人の食道癌は約半数が食道の中央付近から出来、次に食道の下部に多く出来る。

 怖いのが、初期、自覚症状が殆どな事。

 早期発見の機会としては、検診や人間ドックの際の、内視鏡検査や上部消化管造影検査(バリウム食道透視検査)がある。

 癌が進行するにつれて、飲食時の胸の違和感、飲食物がつかえる感じ、

・体重減少

・胸や背中の痛み

・咳、声の

 等の症状が出る。

 新規診断者は、1年間に10万人あたり17・9人。

 男女別で見ると、男性では1年間に10万人当たり31人、女性では5・6人と、男性に多い傾向が見られる。

 年齢別で見ると、50歳代から増加を始め、70歳代でピークを迎える。

 その主な要因は、

・喫煙

・飲酒

 特に日本人に多い扁平上皮癌へんぺいじょうひがんは、喫煙と飲酒との強い関連がある。

 飲酒により体内に生じるアセトアルデヒドは発癌性物質であり、アセトアルデヒドの分解に関わる酵素の活性が生まれつき弱い人は、食道癌の発生する危険性が高まる事が報告されている。

 又、喫煙と飲酒、両方の習慣がある人は、より危険性が高まる事が指摘されている。

 熱い物を飲んだり食べたりする事が、食道癌が出来る危険性を高めるという報告も多くある。

 日本人を対象とした研究結果では、癌予防には、

・禁煙

・節度のある飲酒

均衡バランスの良い食事

・身体活動

・適正な体形

・感染予防

 が効果的と言われている(*1)。

 ―――

 元就は嫡男・隆元に、

「酒は分をわきまえて飲み、酒によって気を紛らわす事などあってはならない」

 と、節酒の心得を説いている。

 孫の輝元が元服を済ませた際には、輝元の実母の尾崎の局に小椀の冷汁椀に1杯か2杯程以外は飲ませない様に忠告している。

 この様な背景に、元就は毛利氏歴代が酒に害され易い体質である事を熟知しており、その為に元就自身は節酒をしてその延命効果を説いたのである(*2)。

 にも関わらず、発症したのは、節酒しても、その量が体質的に多かったのか。

 単純に遺伝なのかは、定かではない。

 その上、元就は痴呆症―――現代で言う所の認知症を患っていた。

 昔の記憶ほど鮮明で、逆に直近の記憶は覚えていないのが、その特徴だ。

 下関からの帰りに……

「……」

「? 親父?」

「……」

「親父!」

 馬上から倒れた。

 直ぐに軍医が駆け付けるも、意識は無い。

 幸い、首を骨折する等の重傷は免れたが、老体だ。

 主治医は、首を横に振った。

「恐らく、今夜が峠です。御家族の皆様、御覚悟して下さい」

 中四国の覇者・毛利元就危篤の報せは、全国を駆け巡った。

 戦国時代なら、好機チャンスとばかりに侵攻される可能性が高いが、帝の名に於いて発せられた惣無事令そうぶじれいと、上皇が長門国(現・山口県西部)に滞在中という事が毛利氏最大の防衛策となった。

「「「親父!」」」

 息子達が呼び掛けるが、元就は、答えない。

 枕に後頭部を預け、只々、眠るだけだ。

 時折、口を開き、金魚の様にパクパクさせる。

 必死に死と戦っているのだ。

「……真田を呼べ」

 元春の言葉に、他の2人の兄弟も頷く。

 3人には、元就が大河と最期の別れをしたい、と解釈したのだ。

 息子達よりも親友を選ぶのは、家族として嫉妬ジェラシーがある。

 然し、死に行く元就の頼み。

 家族ならば成就しなければならないだろう。

 長府の旅館から、赤間神宮に早馬が走る。

  

 危篤を聞いた大河は早速、皆を連れて長府へ行く。

 赤間神宮から現代の長府駅までは、約10km。

 意外に両地点の距離は近い。

 旅館に到着すると、大河だけが通される。

 女性陣は、控室で待機だ。

「……」

 大河が寝室に入ると、部屋は、元就と3だけ。

 主治医、看護婦共に居ない。

 最期の時間、関係者だけで過ごさせ様という配慮だ。

「……」

 大河は静かに、元就の手を握る。

 すると、

「……来た、か?」

「「「!」」」

 息子達は、目を剥く。

 かすれているが、何とか聞き取れる声だ。

 大河は、その背中を擦りつつ、

「元就公、最期です。三子教訓状さんしきょうくんじょうを」

「……うむ」

 今にも吐血しそうな位、青褪めた顔で、

「息子達よ……これが最期の言葉だ。心して聞く様に」

 最期は気高く。

 戦国時代を生き抜いた老将は、微笑んだ。

「「「……」」」

 3人は今にも泣きだしそうだが、泣けば、貴重な時間を失い、最後まで拝聴出来ない可能性がある。

 なので、ぐっと涙を堪えた。

 一方、元就は現役時代―――に戻る。

「第1条

 何度も繰り返して申す事だが、毛利の苗字を末代まで廃れぬ様に心掛けよ。


 第2条

 元春と隆景は其々それぞれ他家を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れる事があっては、全くもって正しからざる事である。

 これは申すにも及ばぬ事である。


 第3条

 改めて述べるまでも無い事だが、3人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。

 そんな事があれば3人共滅亡すると思え。

 諸氏しょしを破った毛利の子孫たる者は、特に余所よその者達に憎まれているのだから。

 例え、何とか生き長らえる事が出来たとしても、家名を失いながら、1人か2人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。

 そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。


 第4条

 隆元は元春・隆景を力にして、全ての事を指図せよ。

 又、元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、其々それぞれの家中を抑えていく事が出来る。

 今でこそ元春と隆景は、其々それぞれの家中を抑えていく事が出来ると思っているであろうが、若しも毛利が弱くなる様な事になれば、家中の者達の心も変わるものだから、この事をよくわきまえていなければならぬ。


 第5条

 この間も申した通り、隆元は、元春・隆景と意見が合わない事があっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。

 又、元春・隆景は、隆元と意見が合わない事があっても、彼は長男だから御前達が従うのがものの順序である。

 元春・隆景がそのまま毛利本家に居たならば、家臣の福原や桂と上下になって、何としても、隆元の命令に従わなければならぬ筈である。

 只今、両人が他家を相続しているとしても内心には、その心持ちがあっても良いと思う。


 第6条

 この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。

 そうすれば、毛利・吉川・小早川の3家は何代でも続くと思う。

 然し、そう願いはするけれども、末世の事までは、何とも言えない。

 せめて3人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共に無くしてしまうだろう。


 第7条

 亡き母、妙玖に対する皆の追善も供養も、これに、過ぎたるものは無いであろう。


 第8条

 五龍城ごりゅうじょう(現・広島県安芸高田市)主の宍戸隆家に嫁いだ一女の事を自分は不憫に思っているので、3人共如何か私と同じ気持ちになって、その一代の間は3人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、その時は3人を恨むであろう。


 第9条

 今、虫けらの様な分別の無い子供達が居る。

 それは、7歳の元清、6歳の元秋、3歳の元倶等である。

 これらのうちで将来、知能も完全に心も人並に成人した者があるならば、憐憫を加えられ、何れの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。

 もし、愚鈍で無力であったら、如何様に処置をとられても結構である。

 何の異存も無い。

 然しながら3人と五龍の仲が少しでも悪くなったならば、私に対する不幸この上も無い事である。


 第10条

 私は意外にも、合戦で多数の人命を失ったから、この因果は必ずある事と心密かに悲しく思っている。

 それ故、各々方も充分にこの事を考慮せられて謹慎せられる事が肝要である。

 元就一生の間にこの因果が現れるならば3人には、更に申す必要も無い事である。


 第11条

 私、元就は20歳の時に兄の興元に死に別れ、それ以来、今日まで40余年の歳月が流れている。

 その間、大浪小浪に揉まれ毛利家も、余所の家も多くの敵と戦い、様々な変化を遂げてきた。

 そんな中を、私1人が上手く切り抜けて今日あるを得た事は、言葉に尽し得ぬ程不思議な事である。

 我が身を振り返ってみて格別心掛けの宜しき者に非ず、筋骨優れて強健な者にも非ず、知恵や才が人一倍あるでもなく、さればとて、正直一徹の御陰で神仏から、とりわけ御加護を頂く程の者でもなく、何とて、特に優れてもいないのに、この様に難局を切り抜け得られたのは一体何故であるのか、自分ながら、その了解にさえ苦しむ所であり、言葉に言い表せない程不思議な事である。

 それ故に、今は1日も早く引退して平穏な余生を送り、心静かに後生の願望をも、お祈りしたいと思っているけれども、今の世の有様では不可能であるのは、是非もない事である。


 第12条

 11歳の時、猿掛城の麓の土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ1人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。

 大方様も出席して伝授を受けられた。

 その時、私も同様に11歳で伝授を受けたが、今尚、毎朝祈願を欠かさず続けている。

 それは、朝日を拝んで念仏を10遍ずつ唱える事である。

 そうすれば、行く末は無論、現世の幸せも祈願する事になるとの事である。

 又、我々は、昔の事例に倣って、現世の願望を御日様に対して御祈り申し上げるのである。

 もし、この様にする事が一身の守護ともなればと考えて、特に大切な事と思う故、3人も毎朝怠る事無くこれを実行して欲しいと思う。

 もっとも、お日様、お月様、何れも同様であろうと思う。


 第13条

 私は、昔から不思議な程厳島神社を大切にする気持ちがあって、長い間、信仰してきている。

 折敷畑おしきばたの合戦(1554年 対陶氏 〇)の時も、既に始まった時に、厳島から使者・石田六郎左衛門尉が御供米おくまと戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、さては神意のある事と思い、奮闘した結果、勝つ事が出来た。

 その後、厳島に要害を築こうと思って船を渡していた時、意外にも敵の軍船が3艘来襲したので、交戦の結果、多数の者を討ち取って、その首を要害の麓に並べて置いた。

 その時、私が思い当たったのは、さては、それが厳島での大勝利の前兆であろうという事で、いざ私が渡ろうとする時にこの様な事があったのだと信じ、何と有難い厳島大明神の御加護であろうと、心中大いに安堵する事が出来た。

 それ故、皆々も厳島神社を信仰する事が肝心であって、私としてもこの上無く希望する所である。


 第14条

 これまでしきりに言っておきたいと思っていた事を、この際、ことごとく申し述べた。

 最早、これ以上何も御話しする事は無い。

 ついでにとはいえ言いたい事を全部言ってしまって、本望この上も無く大慶の至りである。

 めでたいめでたい」(*3)

 3人を抱き締めた後、元就から力が無くなって行く。

「「「……」」」

 3人は、すすりなく

 万和2(1577)年末。

 国人から厳島の戦いで、一気に毛利の名を全国に知らしめた老将が逝った。

 巨星墜つ。

「……」

 家族水入らずに配慮し、大河は、静かに退室する。

 そして、深々と雪が降る外へ。

「「……」」

 別室から鶫達が合流するが、配慮して声を掛けない。

 沈黙の用心棒に徹している。

「……」

 大河は、真っ暗な空を見る。

 涙は無い。

「……鶫、煙管キセルをくれ」

「は」

 嫌煙家なのだが、珍しい。

 煙管を受け取ると、大河は、見上げつつ吸う。

 まるで、元就を見送るかの如く。

 その目には、やはり涙は無い。

 一度、大きく吸い込んだ後、大きな煙を吐く。

 そして、語り掛ける様に呟いた。

「有難う御座いました」

 簡素に。

 簡潔に。

 恩人に御礼の言葉は、2人には、涙声に聞こえたのであった。

 その後、13代当主に正式に隆元が就任し、毛利家は、新体制となっていく。

 と、同時に、大河とのも強化された事は言う迄も無い。


[参考文献・出典]

*1:国立がん研究センター がん情報サービスHP

*2:宮本義己 『歴史をつくった人びとの健康法 : 生涯現役をつらぬく』 中央労働災害防止協会〈中災防新書, 008〉 2002年

*3:ウィキペディア

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