第142話 全生全帰

 万和2(1577)年6月。

 達賴喇嘛ダライ・ラマが、沢山の従者を連れて、来日する。

 達賴喇嘛ダライ・ラマ3世―――古格グゲ王国の国主である。

 帝同様、政治的権力を持っておらず、「国主」というより「聖職者」の意味合いが強い。

 3世になったのは、モンゴルが関係している。

 モンゴルを再統一し、1550年、北京を包囲し、明を滅ぼしかけた(=庚戌の変)俺答汗アルタン・ハン(1508~1582)は青海へ遠征した際にチベット仏教に感銘を受けた。

 そこでゲルク派の転生僧であるスーナム・ギャツォと面会し、転輪聖王号を授かった。

 一方で、スーナム・ギャツォは俺答汗アルタン・ハンから「達賴喇嘛ダライ・ラマ」という称号を贈られた(従って、彼は達賴喇嘛ダライ・ラマ3世とされるが、この称号を用いた最初の人物である)。

 この両者の結びつきは、13世紀の忽必烈クビライ以来再びモンゴルでチベット仏教が盛んになる契機となり、俺答汗アルタン・ハン死後も教典のモンゴル語訳が続けられる等、交流は続いた(*1)。

 黄色と紺色の法衣を身にまとった達賴喇嘛ダライ・ラマを、人々は好奇の視線を向ける。

「「「……」」」

 法衣は珍しく無いが、色合いが珍しいのだ。

 交通機関を利用せずに都内を歩く。

「……真田殿の御城か」

 見上げるのは、京都新城。

 故郷には、無い大きな建造物だ。

 それだけでない。

 他の建物も、混凝土で作られている。

 交通機関同様、故郷に無い技術だ。

 城門を潜ると、

「!」

 古格グゲ王国の僧兵の格好をした日本人達が、出迎える。

「「「今日はタシデレ!」」」

 チベット語の挨拶直後、軍楽隊が、演奏し出す。

『偉大なるチベット国の国歌』は、1950年にチベットの国歌に採用された。

 当然、16世紀に存在しない。

 何より達賴喇嘛ダライ・ラマ3世が驚いたのは、合唱隊がチベット語で歌っている事であった。

(……縁も所縁も無い筈なのに?)

 ラグビーW杯日本大会で日本人サポーターが、アイルランドの国歌等を愛唱していた様に。

 日本人には、御持て成しの精神がある。

 達賴喇嘛ダライ・ラマ3世と従者達は、感動した。

 国歌演奏後に、大河が出てくる。

 事前に聞いていた情報では、刀と拳銃を見せ付ける様に帯刀・帯銃している―――という話だったが、彼は何も身に着けていない。

 敬意を払っている。

 誰もがそう感じた。

 大河はひざまずく。

「初めまして。今回、饗応役を務めさせて頂く、真田大河と申します。宜しく御願いします」

「! チベット語が喋れるのか?」

「はい」

 笑顔で大河は、答えた。

「我が国は宗派は違いますが、貴国と同じ仏教国です。猊下げいかと御会い出来て光栄です」

「有難う」

 ここに日ノ本とチベットの関係が始まった。


 正史での両国関係は、チベット仏教の研究から始まっている。

 明治32(1899)年

 寺本婉雅てらもとえんが(1872~1940 仏教学者 東本願寺僧侶)、能海寛のうみゆたか(1868~1903? 仏教学者 真宗大谷派)と共に巴塘バタンに入るもそれ以上先は進めず。


 明治34(1901)年3月

 河口慧海かわぐちえかい(1866~1945 黄檗宗僧侶 仏教学者兼探検家)が日本人で初めて拉薩ラサに入る(但し、身の保全の為、中国の僧侶と偽った)。


 同年末

 探検家・成田安輝なりたあんき(1864~1915 資料によっては「やすてる」)が日本人で2人目として拉薩ラサ入り。


 明治36(1903)年

 帰国した河口慧海、チベットでの体験を新聞に発表。


 明治37(1904)年

 河口慧海、『西蔵旅行記』刊行。

 その報告は、大評判センセーションを巻き起こした一方で、当初はその真偽を疑われた。


 同年

 寺本婉雅、拉薩ラサに到達


 明治41(1908)年

 寺本婉雅、ウィリアム・ロックヒル(1854~1914 アメリカの東洋学者 外交官)、大谷尊由おおたにそんゆ(1886~1939 浄土真宗本願寺派)が五台山にて達頼喇嘛ダライ・ラマ13世(1876~1933)と会見。


 明治42(1909)年

 仏教学者・多田等観(1890~1967)がインドで達頼喇嘛ダライ・ラマ13世に謁見。

 その場でトゥプテン・ゲンツェンという名前を授かり、拉薩ラサに来る様にと要請を受け、後、多田は拉薩ラサでチベット仏教の修行を行う。


 明治44(1911)年3月4日

 軍人で探検家の矢島保治郎やじまやすじろう(1882~1963)が拉薩ラサ入り。

 矢島は後にチベットの軍事顧問となる。

 

 明治45(1912)年

 チベット研究者・青木文教あおきぶんきょう(1886~1956)、拉薩ラサ入り。

 雪山獅子旗せつざんししき意匠計画デザインに関与したともいわれる。

 ……

 明治時代に開始されたそれが、安土桃山時代に早まった訳だ。

 当然、今後、正史も大きく変わって行く事になるだろう。

 御所で達頼喇嘛ダライ・ラマ3世と帝の会見が行われる中、信長が京都新城に来る。

「仕事だ。賢弟よ。国旗を作れ」

「チベットの、ですか?」

「ああ。期限は猊下が御帰国されるまで。出来るか?」

「ええ。勿論」

 辺境国家である為、チベットには日ノ本の様な国家として必要不可欠な憲法等が存在しない。

 例えて言うならば、幕末の日本の様なものだろう。

 各藩が連邦制の如く、幕府の支配下ながら独立した主権を持ち、統一した国旗や国歌は存在せず、憲法も無かった。

 今の古格グゲ王国も豪族が達頼喇嘛ダライ・ラマ3世の下に団結しているだけで、チベット人としての自己同一性は薄い。

 元の友好国として、攻撃される事は少ないが、元が衰退している今、新興国・日ノ本に目を付けたのは、国家として生き抜く為に当然の行為だろう。

 信長は、二条城で従者との交渉があるのか、言うだけ言って直ぐに帰って行く。

「……国旗ねぇ?」

 筆を鼻と唇の間に挟み、考える。

 意匠計画は、ほぼ未経験だ。

「……」

 雪山獅子旗せつざんししきをそのまま描く。

 白い三角は雪山を表し「雪山に囲まれた地」であるチベットを。

 その正面に聳え立つ一対の雪獅子スノー・ライオンはチベットの勝利を、其々象徴する。

 中央の太陽はチベットの民の自由・幸福・繁栄を象徴し、太陽から放たれている赤い6本の光線は、チベット民族の起源となった六つの氏族を、赤い光線と空を表す青とが交互になっているのは、チベットが二つの守護神によって護られている事を表す。

 雪獅子は、互いの手で二つの宝石を支え合っており、上側の3色で燃えている様に見える宝石は、

ブッダ

ダルマ

サンガ

 =

 三宝

 を表し、下側の円形で2色の宝石は十善業法・十六浄人法による自律を表す。

 外側の黄枠線は仏教の教えや思想が世界中で栄える事を示すが、右側にその線がない(右側が開いている)のは、仏教以外の教えや思想にも寛容である事を示す(*2)。

 見様見真似の複写である為、お世辞にも上手とは言い難い出来だ。

 然し、緑一色であった一時期のリビアよりマシだろう。

「主、御上手ですね?」

「盗用だけどな」

 大河が考案(盗用)した雪山獅子旗は、古格グゲ王国の正式な国旗に採用される。

 国歌も軍楽隊が演奏し、合唱隊が歌った『偉大なるチベット国の国歌』になる。

 その後、古格グゲ王国は、日ノ本の憲法を模範とした自前のそれを作り、

・国旗

・国家

・憲法

 を要した事により、日ノ本、台湾に続いて、アジアで3番目に近代国家の仲間入りを果たすのであった。


[参考文献・出典]

*1:ウィキペディア

*2:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 HP

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