第64話 疾風勁草

 雨足は、どんどん強くなっていく。

 信玄堤が施されていない各地の川は、一様に氾濫し、脆弱な堤防は何処も決壊。

 津波の如く、家々を飲み込む。

 洪水から生き延びた人々の多くも秋疫あきやみ(現・レプトスピラ症)を発症。

・悪寒

・発熱

・頭痛

・全身の倦怠感

・眼球結膜の充血

・筋肉痛

・腰痛

 等の初期症状から、重症者は、

・黄疸

・出血

・肝臓

・腎臓障害

 等、苦しむ。

 軽症型の場合は、風邪と似た症状で軈て回復する。

 然し、後者の重症型は、エボラ出血熱と同等の全身出血を伴ったり、播種性血管内凝固症候群を引き起こす場合もある。

 その死亡率は5〜50%とされる(*1)。

 被災地は、復興と共に発症者の治療に大慌てだ。

 一方、日頃より、防災と医療に多くの税金を投入し、日ノ本一の設備を誇っていた山城国では被害は殆ど無い。

 特に白河法皇の頭痛の種であった鴨川が、氾濫しなかった事が大きい。

 上流で増水した水量だが、その一部を水防林に一旦、逃がし、時間差で本流に戻す事で、全体の水量が氾濫危険水位を超えない様にした苦労が実を結んだのだ。

 只、一部の地域では、床上浸水する等の被害は起きている。

「―――田んぼを見に行った農民が合計10人死亡しています! 又、祇園の方では、避難命令に従わなかった泥酔者が30人、溺死しました! 死者は、以上です」

「分かった。下がって良い」

「は!」

 伝令は、再び小雨の中、馬に乗って元来た道を戻って行く。

「……」

 死者の死因と場所、職業を大河は、事細かに記録書に記す。

 本当は、死亡診断書を書く医師の仕事だが、大河は国中の医師を避難所に集め、秋疫等の感染症に備えさせている為、ここには、居ないのだ。

「政治家の顔ね」

 エリーゼは、笑顔で呟く。

 童顔の夫が、必死に努めているのだ。

 格好悪い訳が無い。

「冗談言う暇があるなら、手伝え」

「はいはい。何を?」

「今から会堂シナゴーグに救援物資を届けに行くから自分好みの馬を探せ! 人手が要る! 小太郎、望月も一緒に来い!」

「「は!」」

 災害対策本部の留守番は、皇軍が行う。

 無人化した御所に野盗等が侵入する、所謂、火事場泥棒が考えられる為だ。

 本心では、ここを離れたくないのだが、会堂等、異人が多い場所は、言語上の問題から、誰も進んでボランティアに行く者は少ない。

 その為、大河が率先して行う必要があるのだった。

 リアカーに食糧等を積み込んだ後、4人は、合羽レインコート代わりのみのを着て其々、馬に乗る。

 既に雨は、豪雨に戻りつつあり、10m以上先の視界は見えない程だ。

泥濘ぬかるみと山に気を付けろ」

「「は!」」

「はーい♡」

 何処までも大河に忠実な忠臣と愛妾は、素直に返事するが、新妻は、この非常事態を楽しんでいるのか、その声は真面目には聞こえない。

(クソ野郎が)

 内心、嫌悪感を抱きつつも、大河は直ぐに仕事に戻る。

 目的地の会堂は、鴨川を越えた先にあり、御所からは、約2kmの距離だ。

 平時なら馬で数分で着くが、今回は、勝手が違う。

 強風でもあり、又、川を渡らななければならない。

 泥濘や土砂崩れにも注意する必要がある。

 幸い、この近辺は、所謂、都心なので山と言うべき山は見当たらないが。

 何が起きるか分からないのが、災害の怖い所だ。

 決して、正常性バイアスには、なってはならない。

 三条大橋に差し掛かると、

「……凄いな」

 泥水が勢いよく流れていた。

 信玄堤が無ければこれ以上の水量で、木製のこの橋は、崩落していたかもしれない。

「流石に怖いですね」

「案ずるな。望月。策は打ってある」

「え?」

 三条大橋を渡らずに大河は、近くの鉄で出来た謎の扉を開ける。

「「!」」

 中は、馬も通れる位の真新しく、関門トンネル並に大きい。

「……主、ここは?」

「三条大橋が崩落した時用に作らせておいたんだ。発表前だから、地図にも載っていないよ」

 用意が良い、とはこの事だ。

 唯一、エリーゼは、驚かない。

”1秒に1億3手読む男”の如く、大河は先を常に読んでいる。

 A案が不可能だった場合、B案を。

 B案も駄目になった時には、C案を。

 だからこそ、この手の事で取り乱す様な愚行は犯さないのだ。

 隧道に入ると、上から水流の音が、聞こえる。

 ゴぉぉおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおお!

 うねり狂い、全てを飲み込むそれは、大河達の耳をつんざく程けたたましい。

 乗馬したまま、隧道を歩く事、数分。

 現在の京阪本線神宮丸太町駅の場所に到着する。

「本当は、帝に最初に御紹介したかったんだがな」

「非常時ですから、御理解して下さると思いますよ? 主は、考え過ぎかと」

「多分な。でも、事後報告した方が良いな」

 律儀な大河は、朝廷を第一に重んじている。

 この様な非常時でさえも。

 朝廷からしたら、可愛い。

 若しくは、面倒臭い部下と思うかもしれない。

 現代の会社でも『報連相(報告・連絡・相談)』がある様に、何にせよ報告は、大事だ。

 一行は、大雨の中、丸太町通りを進む。

 会堂に着くと、沢山のユダヤ人が、待っていた。

「おお、領主様自らが運んできてくれたぞ! 皆、手伝え!」

「何と慈悲深い御方だ。搬入は我々がします故、どうぞこちらで温まって下さい!」

 日頃から大口の献金を行う大河は、在京ユダヤ人の中で知らない者は居ない。

 キッパを被ったユダヤ人男性達が、丸太を担ぐ農夫の様に救援物資を運び込む。

 その間、大河達は、暖炉のある部屋に通された。

 六芒星旗が掲げられ、壁は嘆きの壁を模すその部屋は、非常に宗教色が強い。

 然し、敬虔な彼等は聖地の事を遠いここでも常に想っているのだ。

「こんな有事に領主様が……有難う御座います」

 ダンブ〇ドア校長の様な老師ラビが、杖を突いてやって来た。

 名は、コーヘン。

 在京ユダヤ人の指導者的存在である。

「いえいえ。届けに来ただけですから」

 ちらりと、コーヘンは、エリーゼを見た。

「彼女は、同胞かね?」

「はい―――」

「そうです。初めまして。エリーゼと申します」

 師を前にして、エリーゼは、跪く。

「コーヘンだ。宜しく」

 気さくに握手する。

 男女が気にせず触れ合う事から分かる通り、2人共、性の分離に厳格な超正統派ではない。

 会堂の中には、超正統派の信者も居るが、大河も彼等とは会った事も見た事も無い。

 知らなかった場合、「無礼」と感じるかもしれないが、超正統派は、それが教義なのだ。

 現代の超正統派系新聞では、女性政治家の姿を消し、修正した上で掲載した事もある。

「領主様、御風邪を引くと思いますので、嵐が過ぎ去る迄、御休み下さい」

「有難いのですが、本陣に居る必要がある為、長居は出来ません」

「そうですか……」

 残念、とコーヘンは、ガックシ。

 信者でもないのに厚遇してくれる大河に返礼したいのだが、政教分離の下、その時機が無いのだ。

 そこで、ここで長居してもらい、その間、御持て成ししたかったのかもしれない。

「信者の方に死傷者は出ていませんか?」

「はい。大丈夫です。ただ、モスクでは被害が甚大な様です。なので、出来る限り、彼等もここに一時的に受け入れました」

「有難う御座います」

 困った時は御互い様だ。

 異教徒を簡単に神聖な会堂に入る事を許す辺り、コーヘンの寛大さが分かる。

 無論、ユダヤ教徒の中には、不満を持つ者も居るかもしれないが。

 その統率も又、彼の手腕次第だ。

「領主様、御帰りになる前に一つ、質問に答えて下さい」

「何だ?」

「何故、我々を厚遇して下さるのです?」

 この時代のユダヤ人は、常に差別に苦しんでいた。

 ユダヤ教からキリスト教に改宗したドイツ人修道士、ヨハンネス・プフェファーコルンは、「ユダヤ人の偏屈さは、研究タルムードにある」とし、彼の提案を受け入れた神聖ローマ皇帝、マクシミリアン1世によって研究の廃棄を命じた(*2)。

 又、宗教改革で御馴染みのマルティン・ルターも反ユダヤ主義者で、『ユダヤ人と彼らの嘘について』という論文を発表し、

・会堂や神学校イェシーバーを、跡形残らず徹底的に焼き払うべし

・ユダヤ人の所有する家をも打ち壊し、所有者を田舎に住まわせるべし

・宗教書を取り上げるべし

・師の伝道を禁じ、従わない様であれば処刑すべし

・ユダヤ人を撲滅する為の方途を穏便に実行すべし

・高利貸しを禁じ、金銀を悉く没収し、保管すべし

・ユダヤ人を農奴として働かせるべし

 と、主張した。

 在京ユダヤ人の多くは、そんな欧州に嫌気が差し、南蛮船に乗って遥か遠い反ユダヤ主義アンティセミティズムの概念さえ無い日本に移住したのだ。

「正直に申し上げるに、貴方方が経済の専門家だからですよ」

「……高利貸しの事ですか?」

「はい。自分は、経済大国を目指していますが、生憎、その分野は、素人です。そこで経済に御強い貴方方を招聘する事で、そのノウハウを日本人にも伝授してもらいたいのです。その見返りとして、個人的に寄付をしているのです」

「成程。欧州の愚かな政治家とは違って現実的な方だ。では、その取引に応じましょう。欧州以上に信教の自由があるこの国では、猶太だと判っても殺されないですから」

 賢い彼等は、大河が宗教活動で最も嫌う「強要」を禁じている。

 逆に一部の旧教は、彼の目を盗んで、洗脳させ信者化させる行為が見受けられ、度々、磔刑や火刑に処され、酷い場合は、宗教団体毎、焼き討ちに遭っている。

 欧州で差別され、逃げて来た在京ユダヤ人は、人の目を非常に気にするが、逆に欧州で威張っている旧教は、ここでは、逆に弾圧されているのは、皮肉な事だ。

 大河は、思う。

(『河豚計画』と迄は行かないが、な)

「『賢い人とは「あらゆる人から学べる人」』。

 『強い人とは「感情を抑えられる人」』。

 『富める人とは「今持つもので満足出来る人」』。

 『愛される人とは「あらゆる人を褒める人」』―――ですぞ」

「何時もの格言か。有難い」

 師に頭を下げ、大河は、用意された御茶を飲む。

 地位に拘れず、無神論者にも関わらず、ユダヤ教に敬意を払うその様に、上層階から見下ろしていた超正統派の信者達も、

「「「……」」」

 満足気に頷くのであった。


[参考文献・出典]

*1:ウィキペディア

*2:レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第1巻 キリストから宮廷ユダヤ人まで』訳:菅野賢治 筑摩書房 2005年 原著1955年

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