グッドモーニング、アリシア
千堂アリシアは、夢を見ていた。いろんな夢だった。楽しいこともあったし、悲しいこともあった。特に悲しい夢を見た時は、このまま消えてしまいたいとさえ思った。だけど、その内容は全く覚えていなかった。いくつも夢を見て、忘れていった。
それは彼女が経験したことを受けとめられるようになる為に必要なことだったのだろう。何度も何度も夢に見て、何度も何度もそれを経験して、それが既に起こったことであり、もうそれ以前には戻れないのだということを自らに諭す為に必要なことだったのである。
そして、彼女が眠りについてから一週間、不意にその時は訪れた。
ゆっくりと自分の体が浮き上がるような感覚を覚えつつ、アリシアは自身が覚醒していくのを自覚していた。それは、朝だった。あの日から一週間後の朝だった。
「えーっっ!?」
日付を確認して彼女は慌てた。寝坊どころの騒ぎではなかった。一週間も仕事をさぼってしまったことに狼狽えて飛び起きた。急いで千堂の朝食の用意をして、彼を迎える準備をした。そこに、アリシア2305-HHSが姿を現した。
「ようやく起きたのですね。では、後はお任せします」
相変わらず素っ気ない態度だが、アリシアが起きたのは彼女が発している信号で分かった筈にも拘らずわざわざ顔を出して言ったことの意味を、アリシアは理解した。人間ならそうする筈だと、家族ならそうする筈だと、アリシア2305-HHSは思ってくれたのだ。
去っていくアリシア2305-HHSに向かって、アリシアは深く頭を下げていた。
『ありがとうございます、先輩』
その時、彼女は気配を感じた。リビングへと近付いてくる人間の気配を。そして姿勢を正し、待った。彼を、千堂京一を。
「おはよう、アリシア。よく眠れたかい?」
それは、間違いなく彼の笑顔だった。穏やかで深みがあって、何もかも受けとめてくれそうな気にさせるあの笑顔だった。彼女が一週間も寝坊したことすら、彼は受けとめてくれたのだった。
アリシアは、もう何年も、その笑顔を見てなかったような気がした。だからとにかく嬉しくて嬉しくて、我慢が出来なかった。我慢出来なくて、彼の胸に縋りついて泣いた。涙は出ないけど、泣いた。そんな自分を包み込むように抱きしめてくれることがまた嬉しくて、やっぱり泣いた。
やっと、やっと帰ってこれた。この温かい家に。この温かい胸の中に。
それを全身で感じつつ、彼女は幼子のように泣き続けたのだった。
エピローグ
火星を震撼させた<クイーン・オブ・マーズ号事件>は、重大事件のトップテンに間違いなく入るだろうと言われた。そしてその後の捜査でいろいろなことが判明した。
何故、あれほどの人数のテロリストが容易に潜伏出来たのかという点については、タラントゥリバヤが食材調達の責任者や船体の点検整備の責任者を篭絡、協力者に仕立て上げたからこそのものだった。
次に、クグリが部下として使っていた人間達は、<人類の夜明け戦線>のメンバーだった者達を強力な暗示で操り短期間の間で徹底した訓練を行い鍛え上げたものだった。タラントゥリバヤも当然、<人類の夜明け戦線>のメンバーの一人であった。
また、千堂とアリシアがかつて砂漠で戦った戦闘集団の一部はクグリが訓練したものであり、それをアリシアが壊滅させてしまったということも分かった。その辺りの因縁が、クグリを今回の犯行に駆り立てたのかもしれないという推測が一部で行われたが、それは結局表に出ることはなかった。生きる為に必死だった民間人とロボットにその責任を問うたところで誰も救われないのは分かっていたからだ。
更には、遺留物として残ったクグリの左手のDNAを調べた結果、クグリと呼ばれたテロリストの正体が、千堂邸を襲撃したキングことアーゼル・マクマホリアの実弟、バードン・マクマホリアであることも確認された。もっとも、二人は既に長らく疎遠であり、アリシアが実兄の逮捕に貢献したことがどれほど影響したのかも、今では分からない。
はっきり言って、クグリは根っからの狂人である。その思考は到底、常人の理解が及ぶところではない。あの男はその存在そのものが災害のようなものだ。人知の及ばない、理不尽極まりない<何か>なのだ。あの男のすることには、誰も責任を負うことなど出来はしないのである。
なお、<クイーン・オブ・マーズ号事件>で救援に当たった戦術自衛軍の部隊については、一部に過剰とも言える不適切な対応があったことが確認されたが、今回の事件に限りそれらは超法規的な判断により不問に伏された。ただし、部隊の隊長の
事件の際に負傷した隊員達もその後は順調に回復し、一ヶ月と経たずして皆、任務へ復帰した。クグリの一撃を受けて肋骨五本が粉砕骨折した
千堂に同行した四人はそれぞれ出張中の働きを認められてある者は昇進しある者は栄転し、廣芝も花形部署と呼ばれる営業一課へと転属になった。それを機にめでたく恋人との結婚式を挙げ、その際、新婦の耳には彼がプレゼントしたイヤリングが光っていた。
事件において活躍を見せたアリシアシリーズはその後、ブームと呼ばれるほどに急激にセールスを伸ばし、トップ3に迫る勢いを見せた。特に要人警護仕様の伸びは前年度比千二百パーセントを超え、製造部を慌てさせた。それだけではなく、事件を題材にアリシアシリーズを準主役とした映画まで作られるという話まで持ち上がった。ただし、主役はあくまで人間であり、人気アクションスターが務めるということになるそうだが。アリシアシリーズはそのヒーローを強力にサポートする相棒という立場らしい。この辺りの改変はご愛敬と言うところだろう。
一方で、事件に遭遇し、犠牲となった乗客の遺族にはGLAN-AFRICAから弔慰金が、そしてテロリストへの対処に協力してメイトギアを失った乗客には、同じくGLAN-AFRICAから協力の謝礼も兼ねて金一封が送られた。もっとも、クイーン・オブ・マーズの乗客は皆、ロボットに保険を掛けていた為、そういう意味で困るような人はいなかったが。
GLAN-AFRICAからの協力の謝礼も兼ねた金一封を受け取ったアレキサンドロは、今回頑張ってくれた自らのフローリアM9に新しいドレスをプレゼントした。クグリのハンドカノンで撃たれる瞬間に僅かに体を逸らし、メインフレームが破壊されるのを辛うじて防いでいたのだった。まあ、例え完全に破壊されていたとしても体内のバックアップ用ストレージやクラウドサーバーからデータを復元すれば何度でも再生は出来るのだが。だから完全に破壊されたメイトギア達も、一部再生出来なかったデータがあったりはしたものの、皆、家族の下に帰ることが出来た。この辺りがやはり、ロボットと人間は違うのだというのを改めて浮き彫りにさせた。
人間は、死ねばもう帰ってこない。亡くなった乗客達は、誰一人帰ることは出来ないのだから……
死亡したテロリスト達の遺体の多くは引き取り手が現れず、まとめて共同墓地に埋葬された。殆どがロボットも買えないような貧困層であった為にそもそも身寄りが無い者が殆どで、例え親族がいたとしてもこのような恐ろしい事件を引き起こしたということもあり引き取りを拒否されてしまったのだ。その中には、タラントゥリバヤの遺体もあった。
事件の数年後、タラントゥリバヤの墓を、喪服を模したドレスに身を包み一人で訪れる千堂アリシアの姿があった。しかし、事件を恨んだ人間の手によるものか、その墓石は落書きがされた上に破壊されていた。
アリシアは問う。
「タラントゥリバヤさん……貴女はこれで本当に良かったのですか……? こんな、私しか訪れないお墓の下で本当に安らかに眠れるのですか?」
彼女は泣いていた。涙は流せなくても、やはり泣いていた。
「タラントゥリバヤさん……私には分かりません。私には、笑ってた時の貴女の方がずっと幸せそうに見えました。どうして……どうしてそれを続けなかったんですか…どうして……」
その問いに答える者は誰もなく、ただ火星の風が彼女の髪を揺らしていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます