アリシア、飛び立つ

アリシアは、自分の機能が失われていくような感覚に囚われていた。人間で言えば血の気が引くとか青褪めるとかいった感じだろう。そしてスリに突き飛ばされ転倒しそうになった高齢男性の体を支えながら床を見渡した。そして見付けてしまったのだった。固い床の上で無残に砕けてしまった、千堂から貰った大切なピアスを。


恐らくは駆け付けた警備の人間が、それとは気付かずに踏み付けてしまったものと思われた。支えていた高齢男性を、男性の妻らしき高齢女性や駆け寄ってきた会場のスタッフらに任せ、彼女は見付けたピアスのところに膝をつき、変わり果てたそれをそっと手に取る。そのまま胸に抱き締めるように握り締め、茫然とその場に座り込んでしまった。


千堂は、全てを見ていた。彼女に何の非もないことは誰の目にも明らかだった。だが、アリシアにとって問題なのはそこではなかった。誰が悪いとか責任があるとか、そんなことはどうでもよかった。ただ、千堂のプレゼントがこうなってしまったことが悲しかったのだ。


「アリシア、お前は立派に役目を果たした。私はお前を誇りに思う」


穏やかに語りかけながら、千堂が彼女を包み込むように抱き締める。その胸に顔をうずめるアリシアの体は、とても小さく思えた。


「大丈夫だ。ピアスなら直せる。むしろ、もう一度お前にプレゼントする機会が与えられたことに、私は感謝したいくらいだよ」


千堂のその言葉に、アリシアはハッとなって顔を上げた。ピアスが壊れたことを、ピアスを直して再びプレゼントする為の機会だと捉える彼に、彼女は驚かされていた。そして感じた。その言葉が自分の中に沁み込んできて、失われた機能を回復させるような、凍ってしまったものを温かく溶かしてくれるような、とても大きな力を。


今回のことは、世間から見ればニュースにもなるかどうか微妙な小さな事件に過ぎない。だが、アリシアにとっては、恐らく生涯でも決して小さな扱いに出来ない事件となっただろう。




後日、ピアスが直ったと連絡を受けた二人は、あのジュエリーショップを再び訪れていた。だが受け取ったそれは、壊れた方のピアスだけではなかった。再び両方のピアスが入っていたのだ。ピアスを直したデザイナー曰く、『片方だけとか作れるか。これは二つで一つのものだ。両方作らなきゃ意味がない』とのことだった。一見すると全く同じデザインに見えるが、一緒に作ったものでなければそれは完全なものではないということらしい。


使われたダイヤは、壊れたピアスのそれが傷も無かった為に再び利用されたが、もう一つの方はもちろん新しいものが使われた。しかし代金は、修理の為のものしか請求されなかった。それがデザイナーとしての、職人としての矜持なのだろう。なるほど店がやたらと大きなものにならない理由がその辺りにありそうだ。


アリシアは再び千堂から受け取ったピアスを着けた。片方だけになった前のピアスは、今は彼女の待機室の机の中に大切にしまわれている。




その事件を機に、アリシアの振る舞いにはさらに落ち着きが見られるようになった印象があった。自分がどれほど千堂に大切にされているのか改めて実感出来たことが自信となり、それが人間で言うなら精神的な安定に繋がっているのだろうと思われた。


だからか、警護の仕事でも他の警護用メイトギアと全く遜色ない対応が出来るようになり、それは千堂を大いに感心させた。そして彼は言う。


「今度、GLAN-AFRICAグランアフリカ(ネオアフリカ経済圏)のニューヨハネスブルグに出張することになった。もちろんお前を連れていく予定だが、これは命令ではない。もし気が進まないのならここで待っていてくれてもいいが、どうする?」


GLAN-AFRICAグランアフリカへの出張。それは、アリシアにとっても特別な意味を持つ言葉だった。厳密にはあの時の目的地はニューカイロであった為に、実際には今回のそれと地理的にも状況的にも大きく違うのだが、一応、確認を取ってくれているのである。


しかし、アリシアの返事は早かった。


「もちろん、ご一緒させていただきます。千堂様をお守りするのは、私の役目ですから」


それを聞き、千堂は満足そうに頷きながらさらに言った。


「今回の出張は、四週間に及ぶ長いものだ。ニューヨハネスブルグを中心としたGLAN-AFRICA各都市の政界・経済界のお歴々との会合が多数予定されている。これは、我がJAPAN-2ジャパンセカンド星谷ひかりたに社長が、各都市代表との会談を行う為の下準備でもある。非常に重要な仕事だ。当然、失敗は許されない。そして、以前のような形ではないだろうが、テロなどの危険も当然、予測される。気を引き締めてかからないといけないぞ」


そう言われてはますます彼女としては引き下がれなかった。千堂に危険が及ぶなど、看過する訳にはいかない。


「承知しました」


彼女は短く応え、深く頭を下げる。千堂から貰ったピアスが、きらりと光を放っていた。


そして、ニューヨハネスブルグへの出発の日、彼女はいつもより早く起き、自身のチェックをいつもより念入りに行い、四週間も留守にすることになる自らの待機室を掃除した。最後にあの片方だけになったピアスを手に取りしばらくそれを眺め、再び机の引き出しに仕舞って待機室そのもののシステムを待機状態とし、部屋を出る。


千堂の方もちょうど準備を終えたところだった。朝食は社用のジェット内で摂ることになっている。いつものことだが千堂の荷物はスーツケース一つに収まる程度。今回はアリシアが同行してくれるので彼女にも念の為に用意した荷物を持ってもらうことにしたが、いつもは自分一人で持てる荷物しか持っていかないのが千堂のスタイルだった。


「お気をつけて行ってらっしゃいませ」


アリシア2305-HHSに見送られて、千堂とアリシアは屋敷を後にした。屋敷から直接、ヘリで空港まで向かう。


空港に着いた二人に今回同行するJAPAN-2ジャパンセカンドの社員四人に迎えられ、手続きを済ませて社用ジェットへと乗り込んだ。ジェットの中では、元々備え付けられていたアリシア2234-KKNに出迎えられた。役員が利用する社用ジェットにはそれぞれ一機ずつ配備されているのである。


千堂アリシアは、アリシア2234-KKNの姿を見た時、ハッとなった。彼女の外見が、アリシア2305-HHSと同じだったからだ。それは偶然ではあったが、アリシアにとってはどこか嬉しさを感じさせる小さな出来事であった。もっとも、千堂の屋敷のアリシア2305-HHSとは何の関わりもない為にアリシアのことは当然知らず、しかも常に冷淡な表情の<先輩>とは違い、アリシアシリーズらしい柔らかい笑みを浮かべていたのだが。


その後も順調に準備は進み、予定時間通りに空港を飛び立つことが出来たのだった。


アリシアにとっては久々に空の旅である。といっても別に何か楽しい思い出がある訳でもなく、しかも千堂との出会いのきっかけとなった事件の時は彼女は不良バッテリーを搭載されて起動出来ない状態で、千堂の機転によりどうにか起動した時には既に乗っていたジェットは不時着した後だったりしたので、特に感慨も無いけれど。


無事に離陸を終えて飛行が安定し、ようやく千堂は朝食を摂ることになった。普段ならここでアリシアが千堂の世話をするところだが、今日の彼女は千堂と同じくお客様扱い。機内サービスは人間のキャビンアテンダントとアリシア2234-KKNの役目であった。


「なんだか変な気分です」


ただ千堂の隣に座って寛いでいるだけでいいその状態に、アリシアが思わずそう言った。そんな彼女に千堂は柔らかく笑顔を返したのであった。


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