第71話 予兆
「サーシャさん、こっちです」
酒場に訪れたサーシャさんに手を上げる。
私服姿のサーシャさんは朗らかな笑顔を湛え、俺の隣の席に尻を置いた。
「今日はどうしたの? 私を呼ぶだなんて、なにか面倒事でも起きた?」
「面倒事というか……まあ、ひとまず飲みましょう」
酒を注文すると、すぐにウェイトレスがジョッキを両手に持ってくる。ジョッキを受け取った俺とサーシャさんは、なみなみと注がれた酒を呷った。
しばらく酒を飲み続けてから、話を切り出した。
「孤児院の子供の中にウルリカという女の子がいるのは知ってますか?」
「ええ、知ってるわよ。狼人族の子でしょう? ウルリカがどうかしたの?」
「最近彼女と知り合って、少し違和感を覚えました。あの子、やたら笑うんです」
「そうね。たぶん、性根が天真爛漫なのよ」
「それだけではないでしょう、ウルリカが笑う理由は」
サーシャさんは酒を一口飲んで、少し間を置いてから言う。
「鋭いわね、リオンくんは。確かにウルリカが笑い続けるのには理由があるわ」
「その理由は……?」
「彼女の両親による遺言だとエリーゼから聞いてる」
なるほど、遺言か。
ウルリカは両親が死に際に遺した言葉を守り続けているわけだ。
「遺言の詳細は本人から聞いたほうがいいわね。私が勝手に話すことでもないでしょうし」
「そうですね、ウルリカに直接聞いてみます」
「そういえばリオンくん、結構な頻度で孤児院に関わっているみたいだけど」
「ダメですか?」
「ダメというわけではないけれど……あそこの金髪シスターには気をつけなさい」
警告するような声音に、俺は肩をすくめた。
「サーシャさんはエリーゼが危険な奴だと思っているんですか」
「危険というより、怪しい人だと思ってる。噂が噂なだけに、ね」
「噂……それって」
「ええ、彼女は魔王軍の元四天王の一人だという疑いが持たれているわ」
かつて魔王軍にはエリーゼという金髪の令嬢が所属していた。過去にギルドで聞いた話によると、エリーゼは飄々とした性格と言動で人を振り回していたらしい。これは孤児院の主であるエリーゼと一致する。
「勇者軍が魔王城に侵攻した日に、エリーゼもまた抵抗したはず。だが、その際に討ち取られたという話は一切聞かない。だとするならば、四天王のエリーゼはどこかで生きていて、今もまた人を振り回しているのかもしれない」
「そういうことね。まあ、うちのところのエリーゼがその本人だとして、だったらなぜ孤児院のシスターをやっているのかって話になるんだけど」
「改心した……その可能性はありませんか」
「うーん……魔王軍に就いていたような人間がそんな簡単に心を改めるかしら」
サーシャさんの言う通り、人は簡単に変わらない。ウルリカがどんな時でも笑顔を見せるように。もとが悪人だとなおさらだ。
だけど俺は、それでも……エリーゼが改心してくれたならばと、そう思う。
「いつか聞き出さないとな」
「もし彼女が四天王のエリーゼだと判明したら、このまま放置しておくわけにもいかないわね」
「下手をすれば処刑もあり得ますか?」
「それはうちの村長次第ね」
クレアさんがエリーゼを処刑するとは思えないが……。
そもそもクレアさんはエリーゼの経歴を知っているはずだ。孤児院のシスターになるためには身元と経歴を申告しなければならない。
色々と考え込んだせいか、冷たい飲み物で頭を冷やしたかった。しかし喋り込んでいたうちに酒はぬるくなっている。俺はジョッキを傾けてぬるい酒を飲み干し、ウェイトレスを呼んで新しい酒を注文した。
「リオンくんも忙しそうね」
「色んなことに首を突っ込むせいでしょうかね」
「あら、自覚していたの?」
「そりゃもう……自分のことですから」
サーシャさんの前だと素直になってしまうな。
酒も入っているからか、このままだと言わなくてもいいことを言ってしまいそうだ。気を引き締めた俺は、届いた酒を一気に呷って立ち上がった。
「俺は家に戻ります。今日はありがとうございました」
「久しぶりにリオンくんと会話できて嬉しかった。またいつでも呼んでちょうだい」
微笑んだサーシャさんに一礼して、酒場を出た。
家に戻ると、フィオナが出迎えてくれる。
「リオン、領主様と二人っきりの時間はどうでした?」
「……不満そうだな」
「いえ、別に私は愛する夫が他の女性と二人っきりで飲みに行くということに不満なわけではないです。決して」
むすっとしているフィオナを抱き寄せた。すると胸の中で妻がすりすりと頬を擦りつけてくる。ユーノやウルリカが自分の匂いを押し付ける時の仕草にそっくりだった。
「リオン、お酒くさいです」
「風呂で流さないとな」
「一緒に入りましょうか。身体を洗ってあげます」
「ああ、そうしよう――」
その時だった。
こんこん、と玄関の扉がノックされる音が響く。
その音と同時に、明るい声が聞こえた。
「リオンおにーちゃん! 遊ぼ!」
どうやらウルリカが遊びに来たみたいだ。
フィオナと一緒に玄関に出ると、扉が勢いよく開かれる。
「わーーーふーーー!」
「おっと」
俺は飛びついてきたウルリカを受け止める。
目の前には、わふわふと甘えてくる狼少女をじっとりとした目で見つめているフェイがいた。
「リオン、フィオナ、あそびにきた」
「すっかり俺の家は遊び場になったみたいだな」
「むふ~! リオンおにーちゃん、なんかくさい!」
「酒のにおいだ、あまり嗅ぐな」
先ほどのフィオナのように胸に頬を擦りつけてくるウルリカを引き離す。
相変わらずの笑顔で、ウルリカは尻尾を振って言った。
「今日はなにする? 運動? 戦闘訓練!?」
「戦闘訓練なんて今まで一度もしたことがなかっただろう」
「そうだね! でも誰かを守るためなら、戦い方を習うのも大事かなって」
「まるでうちの妻みたいな言葉だ」
いい機会だから、ウルリカと二人っきりになって遺言のことを聞こう。
そう思った直後。
「う、うぅ……」
ウルリカが自分の胸に手を当て、うめき声を上げて座り込んだ。
「おい、大丈夫か?」
「くうっ……はぁっ……」
額に汗を垂らし、荒く息を吐くウルリカ。
緊急事態だと悟った俺は、彼女を抱き上げて寝室の布団に横たわらせた。
「フィオナ、ウルリカを頼む! 俺はエリーゼを呼んでくる!」
頷いたフィオナに背を向け、家を出た俺は孤児院までの道を走った。
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