第50話嵐の夜をゆく舟として

言葉の暴力の嵐が吹き荒れる夜、わたしは窓を固く閉ざし、カウンターテナー歌手の歌声に耳を澄ませる。灯りを落とした部屋にキャンドルをいくつも灯し、ゆらめく灯りを受けて影はより色濃くわたしを包む。ずいぶんと海から隔たってしまった。故郷の島に戻るすべはなく、廃墟と化したその島でかつて暮らしていた日々のことを思い起こそうとして、父母の顔が煙ったような靄に包まれて判然としない。わたしは海から生まれてきたのだったか。カウンターテナー歌手の歌声はいよいよ高くのびやかに、聖堂の伽藍を描き出す。わたしはそこにマストの帆影を見出して、このどこにも進まない船室と化した部屋でうずくまる。疼痛が足元から忍び寄り、じわじわと身を蝕むのをそのままに、痛みがわたしをうつつへと引き戻そうとするのに逆らって、歌声に添えられたクラシックギターの旋律を辿る。解体された言葉が礫となって窓に打ちつけられるのを、異国の言葉で弾き返そうと万年筆を走らせてゆく。ブルーブラックのインクはところどころ涙と紅茶の色を滲み込ませて判然としない。誰にも届くことのない一冊の手帖だけがこの孤独な夜の友だった。いや、夜が明ければ友からの手紙が新聞と共に届くはずだ。この閉ざされた部屋も、その頃には別の大陸の岸辺へと漂着しているかもしれない。この手が綴る言葉の母国へと。わたしは静かに万年筆を置く。さあ、もう飛び立つ時分だ。わたしの手を離れ、海の彼方へと羽ばたくがいい。わたしは朝晩閉じられたままの重苦しいカーテンを割って窓を大きく開け放ち、そこから手帖を投擲する。手帖はその表紙に異国の菓子が描かれていて、帰路をその身に刻まれている。行方は定まった。さあ、お行き。わたしは手帖が頁を開いて嵐の中を飛び去るのを見送り、風に乗った歌声が祝福の詩を歌い上げるのを耳にしながら夜空を見上げた。


Philippe Jaroussky,Thibaut Garcia/A Sa Guitareに捧げます。

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【詩集】春嵐 雨伽詩音 @rain_sion

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