第116話 40歳・孤独と

1人に慣れるには時間がかかった。


1人の時間を持つのと、本当の1人になるのでは訳が違う。





以前、テレビである画家のことを、「漂泊の画家」と呼んでいた。

またある時は、とある小説家のことも、そのように表現していた。

それを聞いたとき、私は違和感を覚えた。

というか、反感すら覚えた。

家に帰れば、奥さんがご飯を作って待っている人のことは漂泊とは言わない。

漂泊と言うと、帰る場所がない人のことだと思う。

たとえ行き先が決まっていなかろうと、帰る場所がある、いや、場合によっては家を持っていても結構だが、帰りを待っていてくれる人がいる人の旅は、ただの旅行だ。

「漂泊の画家」ではなく、「ぶらり旅の画家」と言って欲しいところだ。

本当の漂泊の画家もいるのだし、本物に対して失礼だ。

待っている人がいる場合のぶらり旅と本物の孤独な人生とを混同して欲しくない。


母が生きている時なら、私ですら、中国ぶらり旅くらいしたのだから。



私には、まだ一応、妹はいたけれど。





いつだったか、部屋に、変なチラシが入ったことがある。

小さなメモ用紙みたいなものに、手書き文字で、携帯番号と、


「男性がお話相手、買い物に付き合う、一緒にお料理など、何でもいたします」


と言うようなことが書かれていた。



正直、気味が悪かった。

近所中にそういうチラシが配られたなら気にもしなかったろうけれど、何しろ、手作り感満載なチラシだったのだ。

しかも、私の考えすぎか勘違いかもしれないけれど、そのチラシをうちのポストに入れた人が、2階に走っていったような気がした。

降りてくる音はしないかと耳を済ませたけれど、そちらは聞こえなかった。

2階の誰かが、私の家だけに手作りのチラシを入れたのかもしれないと思うと不気味だった。


私が毎日毎日、おいおいと泣き続けている事や、その数ヶ月前に救急車が来たことも、同じアパートに住んでいれば、気づく人もいただろうから。



けれど、もしも本当に、私を狙ってそんなチラシを入れたのだったら、愚かな人だなとも思った。


私は、私のことをなんとも思っていない、大事でも何でもない人と時間をつぶしても楽しくもなんともない。

大切な人に戻ってきて欲しい時に、他の人で埋まるものではない。

もちろん、別の意味で気持ちが通じ合っている人と過ごすのなら別だけれど、単なる客としか思っていない相手と話したところで何にもならない。


それが気分転換になる人もいるのだろう。

1人の時間が苦手な人ならば。

私はもともと1人の時間が嫌いじゃなかった。

高校生の頃から、1人で本屋に行き、1人で喫茶店に入る。

1人で美術館に行き、1人で食事をとって公園を散歩する。

ずっと1人の時間が全くないと、むしろ私はしおれてしまったくらいだ。

私が悲しいのは「1人の時間」ではなく、「孤独」なのだから、私に対して何の感情も持ち合わせていない人と、形ばかり2人になっても、私にとっては何の意味もなかった。


自分の中の孤独とは、誰でもひとりで、折り合いをつけていかなければならない。

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