第58話 今・落胆

家へ帰って、一頻り、また泣いた。


泣いたけれども、不思議なことに私はあまり動揺していなかった。

もうある程度、覚悟は決まっていたのかもしれない。




ケースワーカーさんにメールで報告した。

民生委員さんにも連絡して、なにかできる事はなさそうか、考えてもらうことにした。


「民生委員はどちらかの側に立つことができないんですよ。

あちらに行って、もう一度、話を聞いてあげてと頼んだりはできないのです」


そのように何度も念押しされたけれど、そのことは知っていたので、そうですねという他はなかった。多分そういうことを頼む人も多いのだろう。


「私がもう一度お願いに行こうかと思ったんですけど、1人で行っても聞いてもらえないだろうと。

どなたか一緒に行ってもらわなければならないけれど、妹は弁護士を立てればと言うんですけれど、あちらは特に悪くありませんし、単純に私が病気のせいですから、病気だと言うことを証明することもできませんし、弁護士さんにそんなことをお願いできるものなんでしょうか?」


「防音壁とか立てるのはどうですか?そういうのが1番いいと思うんですけど」


「なまじな防音壁では低周波音と言うのは防げないんです。

だから、基本は音を出している側に対策してもらうのだと聞きました」




お隣の人にも、あとはそちらでなんとかしろと言われた。

多分、防音壁とかそういうのを考えていたのだろうけれど、私が文句を言うばかりで、自分では何もしないと思っているようだ。


そちらで何かしろと言うのは、何も知らない人の言うことだ。

NPOの方にも確かめたが、防音壁で改善した例はない。

対策グッズや対策建材も、実際使用して効果なしの報告があるそうだ。



大体、ここはエコキュート の音だけではない。

ブロワー などからも低周波は発生し、もし一方向だけなんとかできたとしても、他からの音が反響してかえって酷くなるだろう。

なまじの防音壁など、事態を悪化させるだけだし、私はそんなもの立てたくない。


それぐらいなら引っ越す。

このきれいな家を、台無しにするような事はしたくない。

本当にそれで解決するならやってもいいが、解決する望みが低いのに、そんなことをやって家を台無しにするくらいなら、誰かに貸して私はどこかに行こう。

そちらで何かしろと言うのなら、そうするしかない。


彼らは私を追い出して、満足するのだろうか。

それとも、首でも括って見せれば納得するのか。


別に私も、命がかかっているのでなければ、他人の家に口出ししたいわけではないのだけど。




まだ、何もかも諦めたわけではないし、何かが動くかもしれないけれど、そうならなくても私はもう腹を括った。


せめてもう少しいたかった。

たった1年半足らず。

もう少しだけ、ここにいたかった。




もっとも、引っ越し先を探し始めても、いま、この新型コロナの騒ぎの時期に、私のような難しい体質の人間が行ける場所が、すぐに見つかるものでもないし、どちらにしても、もうしばらくはここにいることになるけれど。


もちろん、まだ、エコキュートは動き始めていない。

だが、あれは本当にひどい音がする。

めまい、吐き気がして、全身総毛立ち、痛む。

私はなにも、経験もなく怖がっているわけでは無いのだ。



妹は、今の機械は昔よりは良くなってるだろうから、思っているよりひどくないかもよと言うのだけど、それでも、毎日、夜中ずっとと言うのは無理だと思う。


しばらくは耐えられるかもしれない。

これから夏に向かうし、稼働時間も短くなるだろう。

しばらく、治療の回数を増やしてみようとも思っている。


でも、長く、夜中ずっとあれが響いていては、病状が良くなる望みが絶たれてしまう。

ここにずっといたいがために、心臓が止まるのでがんばってしまうわけにもいかない。

音の程度によるけれど、いずれどこかで、あきらめつけなければならない。

少しでも、昼に動かしてもらえれば、もう少しここにいられるかなと思ったのだけど。



あと、せめて1年くらいここにいたかった。

初めての、自分の家をもう少し、堪能したかった。

全てが、目に焼きつくくらいに、記憶にずっと残ってくれるくらいの時間を、ここで過ごしたかった。



家を失うのはこれで2度目。

最初は、親の家であって、私の家ではなかったけれど。

あの家も、きれいな家だった。

あの朝は、のんびり幸せな気分でいたっけ。

突然の乱入者たちに、放り出される直前まで。




今度は、完全に失うわけじゃない。

住めなくなるだけ。

たとえ人に貸すとしても、私の家であるには違いない。


あとどのくらいここにいられるか分からないけれど、残りの時間を、できるだけ楽しく過ごせたらいい。

うまく、気持ちが切り替えられるといいのだけど。



あまりにひどい音だったら、すぐに引っ越すことを検討しないといけないけれど、何とか、しばらく我慢できる程度だったとしても、今年の冬をここで越す事は、諦めた方が良いのかもしれないと、そう思った。



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