2章 第10話 ライラック
「ねえ、翔くん」
「ん?」
翌日、ホームルームが終わって放課後になった直後に、すぐさま凛が声をかけてきた。
いつもみたいに友達に捕まる前に行動に出たらしい。
「今日さ、行きたいとこあるんだけど……この後空いてる?」
「んあ? 俺は基本的に空いてるよ」
どうせ暇人だし、と言って付け加える。
暇だから喫茶アイビスに顔を出して、いつも純哉や愛梨と時間を潰しているのだ。最近は凛も友達といる事が多いし……とはもちろん言わない。
「よかった~」
凛は眉根を寄せて、ほっと安堵の息を吐いた。
「なに? どこ行きたいの?」
訊くと、凛はにやりと悪戯げに笑って、
「翔くんち、行ってみたいな」
教室のど真ん中で。帰り支度をしている生徒がたくさんいる放課後で。彼女は爆弾発言をした。
その声は何故かいつもより通っていて、教室の雑談が一瞬止まった。純哉と愛梨も、目を点にして固まっている。
「え……?」
「だから、翔くんち、行ってみたい」
彼女は悪戯な笑みを崩さないまま、まるで何かを楽しんでいるように、こちらを覗き込んで復唱する。
横で純哉が何かを言おうとしたが、愛梨が純哉の口を塞いで、そのままジタバタ暴れる純哉を、ずるずると教室の外まで引きずっていった。それを合図とするように、教室の時間が再び動きだす。
「えっと、それは……その、どういう意味?」
「そのまんまの意味」
だから! それはどういう意味だって訊いてんだよ!
男の家に来るってどういう意味かわかってんのか、こいつ!
元有名モデルで元芸能人とは思えないほどの無防備な発言に、思わず頭が痛くなる。
「あ、もしかして、部屋掃除してなかったりする? 私、そういうの気にしないから、安心して」
気にしろ! 俺は気にする!
幸い部屋は掃除したばかりだから綺麗なんだけど!
「何だったら、掃除手伝おっか?」
「汚くないから!」
「じゃあ、行っても大丈夫だよね?」
「ぐっ……」
なんだ、なんなんだこの詰め将棋感は。めちゃくちゃ俺の逃げ道がなくなっていくぞ。
「だから、それ、どういう意味でって言ってんだよ……」
「どういう意味って?」
凛は顎に手を当てて、少し考えるしぐさをした後、
「大切なもののため、かな?」
「それは何なんだよ」
「もちろん……君との青春♪」
どや顔である。
恥ずかしくなって教室の窓から飛び降りたくなった。
周囲のクラスメイト達から途端に冷やかしの声が飛んでくる。
ていうか、昨日はそのセリフを言って顔から火を噴いてたくせに、何で今日はそんな自信満々の顔してんだよ、と思って彼女を見ると、その顔はいつもと違った。そして、その顔には見覚えがあった。
今の凛の表情は、普段の雨宮凛ではなく、有名モデルRINのそれだったのだ。教室で皆がいる前だからなのか、完全にRINモードだからか、こんな演技がかった事でも恥ずかし気もなく言えるのだろう。
くそッ、これだから元げーのーじんってやつは!
「ほらー、相沢くん、カノジョにここまで言わせてるのに、何躊躇してんの?」
「いいじゃん、家連れてってあげるくらい! あのRINを家に呼べるんだよ?」
そーだそーだ、と言わんばかりに周りの女子が凛の肩を持ち始めた。男は男で、「なんでお前ばっかし!」とキレているし。
おいおい、なんなんだこの状況は。教室がほぼ全員敵になったぞ。
「だって、家に親いるし……」
「それが何か問題あるの? 私もご挨拶したいし……」
言いながら、彼女の笑みが再び悪戯なものに変わっていく。
あ、この発言はミスった。そう思ったが、もう手遅れだった。
「それとも、誰もいない時に呼びたかった、とか?」
凛がそう言うと、女子がその瞬間キャーキャー言いだして、俺をスケベだとか変態だとか面白おかしく言い出して、男連中からは「死ね!」と言われていた。
その空気に耐えきれず、俺は凛の手を取って、慌てて教室を飛び出た。
背後から罵詈雑言やら冷やかしの声が聞こえたが、振り向く事なくその場から逃げ続けた。隣の凛は、物凄く嬉しそうににこにこしていた。
◇◇◇
「ねえ、ごめんってば。そんなに怒らないでよ」
「怒ってない!」
「怒ってるし」
凛は呆れたように笑って言った。
学校を出てから、俺はずっとこんな調子だ。
別に凛が家に来る事自体は嫌ではないし、普通に言ってくれたらそれでよかった。
ただ、なんだか大衆の面前で恥ずかしい思いをさせられた上に、逃げ道を完全にふさがれたのが、なんだか気にくわなかったのだ。
ただ恥ずかしかったのかもしれない。
「で、何をしにくるつもりなんだ、俺の家に」
「何も?」
「は?」
「ただ、二人でゆっくり過ごしたかっただけ」
凛は言いながら、俺の手をそっと握ってくる。
「ほら、最近あんまり時間作れてなかったしさ。それに、明日からもう文化祭準備始まっちゃうし……そしたら、また二人で過ごせる時間、しばらくなさそうだなって」
彼女は眉根を寄せて、微笑んだ。
今はもうRINではなく、いつもの凛だった。いつもの、俺だけの凛。
「嫌、だった?」
俺は黙って首を横に振って、彼女の手を強く握った。
そんな風に言われて、嫌だったと言えるわけがない。ただ、こっぱずかしいだけだ。
「玲華は、会った事ある? 翔くんの親御さんに」
「ないよ」
「ほんとに?」
「うん、ほんとにない」
「そっか……」
これは紛れもない事実だった。
高校生になってから玲華の家には何度か行った事があるが、彼女が俺の家に来た事はない。これは特に理由があったわけではなくて、多分いつも吉祥寺まで俺が行く癖があったからだ。
何度か彼女を連れて来いと親に言われたが、適当に誤魔化していた。
今にして思えば、なんで俺は誤魔化してたんだろうな。
「そっか……!」
凛は、嬉しそうに微笑んで、もう一度そうつぶやいた。
◇◇◇
「ただいま……」
「お邪魔します」
家に着くと、聞き慣れない声が玄関から聞こえてきたからか、母親が慌てて出てくるや否や……わなわなと震えながら、凛を見ていた。
「翔、この子は……!?」
「はじめまして。翔くんとお付き合いをさせて頂いています、雨宮凛です」
俺が答える前に、凛はお淑やかに、そして恭しく頭を下げて、自己紹介をしていた。
速い……こいつ、俺の逃げ道奪うの上手すぎじゃないか?
「お、お付き……!? こんな綺麗な子がうちの子とお付き合い……って、もしかしてこれがあの週刊誌に載ってた子!?」
母の問いに、凛が苦笑いして、申し訳なさそうに頷く。
「はい……その節はご迷惑をお掛けしました」
「い、いえいえいえ……うちの子なんて、絶対に縁のない事だと思ってましたので……」
なんだか母親が今にも泡を吹いて倒れそうだった。
「と、とりあえず、俺の部屋、いこっか」
このまま母親と話し続けるのはしんどすぎる。俺は靴を脱いで、二階へと向かった。
凛は丁寧に靴を揃えてから、「お邪魔します」と母親にお辞儀して、俺の後についてきている。そんな俺達の背中を、母親は唖然と見上げていた。
「ほんとに玲華と会ってないんだね、お母さん」
部屋に入ると、凛が嬉しそうに言った。
「なんで?」
「だって、玲華と会ってたら、きっと私の事であんなに驚かないでしょ」
玲華はもっと美人だから、と凛は小さな声で付け足した。そこには少し自嘲するような響きがあって、なんだかそんな風に自分を卑下している凛に少し腹が立った。
「……そんな事ない」
「翔くん……?」
「そんな事、絶対ない」
勿論、東京での出来事があって、彼女が玲華に対して負い目を感じているのはわかっている。そこから敗北感を持っているのもわかっている。でも、だからと言って、自分の事を卑下するような事は言ってほしくなかった。
それを聞いた凛は、「ありがと♪」と嬉しそうに微笑んでくれた。
彼女はそれからしばらく、面白そうに部屋を物色し始めた。「男の子の部屋入るの初めてなんだ」とか無防備に言うものだから、それだけでドキドキしてしまう。
えっと、見つかったらやばい系のものはどこにしまったっけ……確か、勉強机の中だったか? やばいな、ちゃんと場所を把握しておくべきだった。
と、焦っていると、CD棚を見ていた凛が声を上げた。
「あ!
1枚のCDプラケースを取り出して、目を輝かせて言った。
「これ、すごくレアなやつでしょ!?」
「知ってるのか」
「知ってる知ってるー! 去年の一日限定復活ライブ、見たかったんだけど、仕事入っちゃってさぁ」
凛が悔しそうに指を鳴らして言った。
ちなみに、俺は全くそういう情報には無頓着だったのだが、玲華から教えてもらったから知っていた。
何らかの事情で一度解散したが、その話題性もあって、1日限定で復活して、会場限定で音源を販売したのだ。たまたま暇していた俺が、どうしてもライブに行けなかった玲華の代わりにライブに行き、彼女の為にこのCDを買っていた、というわけだ。
無論、そのCDを渡す機会は訪れず、今もこうして眠っている。
「聴いていい?」
「いいよ」
そういえば、一回聴いたきりで、俺もあまり聴き込んでいない。今のご時世、サブスクリプション音楽配信サービスで聴くのが主体になって、CDで音楽ってあまり聴かないし。
パソコンを起動してCDドライブに入れて楽曲をインストールする。凛は俺の隣に並んで座って、わくわくした表情でインストールされるのを待っていた。
楽曲のインストールが終了すると、楽曲が自動的に流れ始めた。外付けのスピーカーから、切なくも幻想的なメロディが聴こえてくる。
ドラムはどうやら打ち込みのようだが、それ以外はちゃんとレコーディングしたと、確かライブのMCで言っていた記憶がある。打ち込みと言われなければ素人にはわからないほど、高いクオリティだった。
そういえば、確かライブもドラムはサポートだったと言っていたが……もしかして、解散の理由にドラムの人が関わっていたのだろうか。
「綺麗な歌声だね……」
凛が目を閉じて、その流れる旋律と歌声に身を委ねていた。
確か、これは〝ライラック〟と呼ばれる楽曲で、このバンドの代表曲だったらしい。
『君がいれば強くなれるから
君といれば辛かった過去も許せるから
君の気持ちがあるだけで、僕は……』
ああ、そうだ。サビのワンフレーズを聴いて、なぜ俺がこの曲を聴かなくなったのか思い出した。
俺は自分の受験に失敗した過去を許せなくて、どんどん弱くなっていた事を自覚していたから、この曲を聴くと切なくなってしまったのだ。
楽曲が流れ終わると、その余韻を味わうかのように、部屋に沈黙が流れていた。凛が寄り添って、ことんと頭を肩に乗せて、俺に身体を預けてきた。
「……私も翔くんといれば、自分の過去を許せる時がくるのかな」
わからない。俺だって、自分の過去を許せるかどうかわからない。ただ、それでも──いつかそういう日が来ると信じて、俺は彼女の手を握って頷いてみせた。
凛は嬉しそうに笑って、腕に抱き着いてくる。
「ばか、離れろって」
「やだ」
悪戯げに笑って、そのまま凛とじっと見つめ合う。それだけで、何の変哲もないこの部屋に、光が溢れた気がした。
俺も目を逸らさずに、彼女を見つめていると、そのまま俺に顔を近づけてきて、唇を重ねようとした時──
──ガシャン。
部屋の入口から、何かを落とした音。
おそるおそるそちらを見ると、床に零れ落ちたティーカップと、水浸しのシュークリーム。そして、泡を吹きそうなほど真っ青な顔色の母親の姿があった。
「お、お邪魔しました~!」
母親は慌てて紅茶とシュークリームをお盆に乗せ、まるで銭形警部から逃げ出すルパンのような足取りで逃げて行った。
とても気まずい空気だけが残って、俺達は苦い笑みを交わした。
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