1章 第31話 君の青春

 あれから想い出エピソードを探すために、校舎内をぶらぶらと二人で歩いていると、細々とした想い出話が割とあった。それを話すと凛は面白そうに笑って聞いてくれていた。


「一年の冬だったかな、ここで純哉一回うんこ漏らしかけた事があって」


 美術室の前を通りがかった時、ふとそんな出来事を思い出した。

 確か、純哉が腹の調子を悪くしている時に、愛梨が面白がって純哉の下腹部を拳でぐりぐり押したのだ。その際、純哉のケツの穴から、とんでもなく臭い屁が出た。 異臭騒ぎになるほどの強い刺激臭だ。


「え、うそ!? ほんとに漏らしたの!?」

「本人はおならだって言い張ってたけど、臭いがどう考えても身が出てるそれだった」

「やだ、純哉くん汚い」


 眉根を寄せて、凛は笑っていた。

 あれが本当に屁だったのかというと、結構怪しかった。放屁で異臭騒ぎになるなど、なかなか起こり得ないのだ。純哉はすぐさまトイレに逃げ込み、愛梨が「純哉が漏らした!」と大声で言い放った。それからしばらく純哉はトイレから出てこなかった。


「そのせいでしばらくあいつのあだ名はザ・うんちマンだった」


 凛がそのあだ名にツボったらしくて、お腹を抱えて笑い出した。

 もちろん、こんなひどいあだ名をつけたのは愛梨だった。本当に漏らしたのかは定かではないが、愛梨の吹聴により、純哉が漏らした事は確定事項として周囲に捉えられている。あまりに可哀想だった。


「今度呼んであげれば?」

「えー、やだよ~。それに、私がそう呼んだら絶対に愛梨が面白がってまた呼びそう」

「それは間違いないな」

「さすがにそれは可哀想かなって。それにしてもザ・うんちマンって……ぷくくッ」


 言いつつ、また笑い出した。どうやらザ・うんちマンがツボっているらしい。

 よかったな、純哉。凛に面白がってもらえて。これだけでもお前の汚名は返上されよう。されないだろうけど。

 何が面白いのかはわからないが、しばらく凛は、ザ・うんちマンで笑い続けていた。


「あ、ねえねえ。一年生と言えばさ、翔くんは何組だったの?」


 彼女の笑いも収まり、ぶらぶらと目的もなく校舎散策を再開した時に、凛がふと訊いてきた。


「B組だったけど」

「じゃあ、今から一年B組の教室行こうよ!」

「え、一年の教室? いきなり入ったら変だろ」

「誰か生徒がいたら入らなくていいからさ」

「まあ、いいけど」


 彼女の提案に、また流されてしまう俺であった。まあ、別に何か悪事を働くわけではないし、良いか。

 そんな事を考えつつ、俺達は一年の教室を目指した。


 一年の教室が並ぶ廊下には、幸いにも誰もいなかった。

 ほんの半年と少し前までこの廊下をほぼ毎日通っていたはずなのに、なんだか全くそんな感じがしない。空気感も、匂いも、全部俺達が通っていた時とは、別物になっていた。


「なんかさ、他の学年の教室に入るのって、変な感じしない?」


 凛が廊下から一年の教室を見渡しながら言った。


「わかる。しかも、誰もいないから、なんか空き巣に入ってる感じがする」


 B組の前で立ち止まって、中を見てみると、教室には誰もいなかった。


「あ、いいね、それ! じゃあさ、盗んじゃおう」

「何を?」

「君の青春♪」

「は?」

「私の青春は……これからのも含めて、全部翔くんが盗んでいいからさ」


 悪戯げに笑って、軽い足取りでB組の教室に入っていった。


「いやいや……」


 だから、なんでいちいちお前はそんなに人をドキドキさせるのが上手いんだよ。

 くそ、これだから元芸能人は嫌だ。こんなセリフを言ってもサマになっている。そして、彼女の狙い通りにドキドキさせられているのも、全くもって不本意だ。

 そんな風に完全に手中に収められている自分に呆れながらも、俺は小さく嘆息して、凛の後を追うのだった。


「どの机だったの?」

「えっと……最後に座ってた席は、ここかな。あ、同じ傷があるからこれ俺が使ってたやつだな」

「そうなんだ?」


 窓際の真ん中の席。

 愛梨と純哉がいつもここに集まってきていた。この机の傷も、純哉が愛梨をからかおうとして冗談を言ったら、愛梨がボールペンを突き刺してできた傷だ。ちなみに、そのボールペンの先はひしゃげて見る影もなくなっていた。

 凛は、俺が座っていた席の机に触れ、優しく微笑みながら、慈しむように撫でていた。

 今は誰の席かもわからない机。でも、かつては俺が使っていた机。

 今、彼女は俺の過去を……俺の想い出を、盗んでいるのだろうか。

 俺は、どうすれば君の想い出を盗めるのだろう。俺が凛の事を知らなかった時の想い出も、全部盗んでしまいたい。

 そんな事を考えてしまっていた。

 しばらく凛はそうしていたかと思うと、俺の方を見て、優しく微笑んでくれた。


「盗めた?」

「うん……ばっちり」


 凛は言いながら、また俺の腕に自分の腕を絡めてきた。

 誰もいない教室で、しかも自分たちの教室ではない下級生の教室で凛と二人っきりなのが、妙に新鮮で、ドキドキした。

 彼女の笑顔が愛しくて、でも真っすぐに見つめてくるその瞳に気恥ずかしさを覚えてしまって、俺は窓の外に目を向けた。

 凛も、きっと俺につられるようにして、窓の外を見ていたように思う。なんとなく、そんな気配を感じた。

 この学校に編入してから、憂鬱だった日々。玲華の事が過る度に毎日憂鬱な気持ちになって、この景色を見ていたように思う。

 でも、今はそんな景色を凛と眺めていて、それがどこか嬉しい。

 すると、いきなり凛が俺の胸に、手を添えてきた。

 白くて綺麗で、しなやかな手。思わず、胸が高鳴った。


「ドキドキしてる……?」

「ああ……」

「私も」


 見つめ合って、互いに微笑みあって……ゆっくりと顔を近づけて、口づけた

 唇が合さって、そのまま、ぎゅっと抱き締める。

 壊れてしまいそうなくらい細い身体。大切に大切に、誰にも渡したくないという想いを胸に、過去の亡霊を振り払う。

 そう、もうお前の居場所はないんだ。

 俺の心には、もう彼女がいるのだから。

 そう思って、唇に神経を集中させて、彼女の熱と呼吸と、存在を感じていた。

 一度唇を離すと、凛ははにかんだ。顔が赤くなっている。


「私の想い出は……来週、たくさん盗んでね?」

「……ああ」


 そして、もう一度、唇を重ねた。


 ◇◇◇


『来週、たくさん盗んでね?』──これの意味は、東京で、という事だ。

 そう、俺達は、来週東京に行く事になっていた。

 二学期の中間テストが終われば、修学旅行。それが終われば文化祭。高二の二学期は忙しい。

 ただ、その修学旅行の行先が……なぜか、東京なのだ。

 何の特別性もなく、修学旅行という感じでもない。凛に関してはつい最近まで行ったり来たりしていたので、全く旅行感は無いだろう。勿論、俺だってない。

 ただ、うちの学校は少し変わっていて、修学旅行と言っても、普通の修学旅行とは少し異なる。

 東京にある提携校の生徒と合同で授業や調べもの、勉強会を行うという、全く旅行っぽくない旅行なのだ。これを修学旅行という扱いにしていいのか、と疑問を持ったが、この高校ではそういう文化らしい。金がかからなくて済むと親は言っていたが、それにしても、と思う。

 ただ、ちゃんとホテルには泊まれるし、自由行動もあるみたいだし……最初は文句こそ出るが、東京の提携校との交流で、新しい友達や恋人などができる事も多いらしく、終わってみれば毎年案外不評は少ないのだそうだ。

 まあ、自由行動があるならそれでいいか、と思えた。今は、凛と過ごせるのなら何処でも良かった。

 そんな軽い気持ちで、俺達は再び東京の地を踏んだ。

 そう、俺はこの時浮かれていたのだ。

 東京にはあいつがいる。それを忘れていた。いや、忘れていたわけではない。忘れていたわけではないが、あれだけ人が行きかう東京で、出くわすだなんて考えなかったのだ。

 この時の気のゆるみを、憎んでも憎み切れない。

 そこで俺達を待っていたのは、ただの修羅場だった。

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