2章 第21話 罠

 自転車を漕ぐ事15分。

 彼女の連絡先にあった住所まで来る。やはり、マンスリーアパートがあった。何度か前を通ったことがある場所だ。

 彼女のメールには、ここの103と記載されていた。


(どうする⋯⋯?)


 もし監禁されたりしているのであれば、正面突破は危険だ。

 しかし、裏手に回ってもカーテンが閉められており、中は見えない。


(⋯⋯行くしかないか)


 もしものときのために、すぐ110できるように携帯電話に入力しておく。

 震える手でインターホンを鳴らしてみる。

 反応はない。

 ドアノブに手をかけてみると⋯⋯


(空いてる?)


 そのまま鍵に食い止められることもなく、ドアノブが回ってしまった。

 恐る恐るノブを引いて、扉を開けた。

 部屋は真っ暗だった。

 とりあえず玄関の電気をつける。


「⋯⋯玲華?」


 返事はない。

 入口のすぐそばの左手側にキッチンがあり、右手にはユニットバスがあった。キッチンスペースの奥にドアがある。おそらく建物の大きさ的に間取りは1Kだろう。

 扉を閉めて、まずはユニットバスを覗く。ユニットバスのドアは開いており、一応誰かが隠れていないかを確認した。

 誰もいない。

 そのまま奥の部屋に入ろうと、ドアノブに手をかける。

 心臓がうるさい。

 手が震える。


(死体が転がってるとか、そういう冗談はやめてくれよ。本当に)


 ここを開いたら襲われるかもしれない。

 そんな不安を感じつつも、バタンと力強くドアを開いた。

 すると⋯⋯いきなり何かに飛びつかれた。

 ふわっと柑橘系の香りが鼻孔を襲ってくる。

 玲華だった。

 見ると、暗闇の中でもわかるくらい、彼女はとても嬉しそうにニコニコと笑っていた。


「⋯⋯おい」

「心配した?」

「⋯⋯⋯⋯」


 騙された。

 どこか怪しいと思っていた。電話を切って住所までご丁寧に送ってくるあたり、おかしいとは思っていた。

 それでも、もしも何かあったら大変だと思って来てみれば、これだ。


「帰る」


 振り払って踵を返そうとすると、腕を引っ張られる。


「ちょーっと! 待ってよ、ショー! 来て早々それはないでしょ」

「騙しやがって。何が『助けて』だよ。心配して損した」


 何もなくてよかったと思うものの。

 こうしてのこのこと来てしまった自分に苛立つ。そして、こいつの嬉しそうな顔を見ると、もっともっと苛ついてくる。


「ちゃう、ほんとに助けてほしいことはあるんだってば」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 不信感に満ちた視線を彼女に送る。


「あー、なによ、その目。私が今まで君に助けを求めたことがある?」

「⋯⋯⋯⋯」


 ない。過去に彼女が俺に助けを求めたことも、あんな弱々しい声を出していたのも、なかった。


「でしょ? だから、はい。こっち座って」


 部屋の電気をつけて、洋室の真ん中に置かれたテーブルに座らされる。

 だめだ。こいつと会うといつもこうだ。ペースを全部握られてしまう。

 そして、彼女はテーブルの上にドスンと、A5用紙の束を置いた。


「なにこれ」

「課題」

「は? 何の?」

「撮影で休んでる間の学校の」

「で?」

「手伝って」


 悪びれた様子もなく、しれっと答える。


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 室内に沈黙が続く。彼女はニコニコしていた。

 面白そうに。あの日のままの笑顔で。


「⋯⋯帰る」


 もう一度立ち上がると、カシャッとシャッター音がした。

 はっとして音のしたほうを見ると、玲華がスマホのカメラで俺を撮っていた。


「私、凛のLIME知ってるんだけどな」

「⋯⋯⋯⋯」

「『ショーが部屋に遊びにきたよ』っと⋯⋯」


 スマホをフリック操作しつつ⋯⋯


「あとはこれに画像を添付して⋯⋯」

「課題でもなんでも手伝うのでそれだけは勘弁してください」


 膝から崩れ落ちた。くそ。こんな脅しに屈するなんて⋯⋯でも、これは状況的にやばい。それに、この前の缶コーヒー事件の事もある。

 事を荒立てるわけにもいかないので仕方ないが⋯⋯本当に、卑怯にもほどがある。


「ほんとに?」

「全力でお手伝いさせて頂きます」

「男に二言は?」

「ありません」

「よろしい♪ いい子いい子してあげよう」


 そう言って、彼女は俺の頭を撫でた。

 手を振り払って、テーブルの前に座り直す。


「手伝うけど⋯⋯その前に画像は消せ」

「はいはい、うるさいなぁ。これでいい?」


 言いながら、彼女は俺の目の前で今撮った画像を消去してみせた。

 こいつ、ほんとに撮ってやがった。

 あのまま無理矢理帰っていたら恐ろしい事になっていた。

 完全に削除されたことを確認すると、念の為に一つ前の画像を表示させる。撮影現場で撮られたものらしい画像だったので、とりあえずほっとする。


「手伝うって言っても、今の俺が天下の海成高校の課題をできると思えないんだけど」


 今はテストでもない限り、ろくに勉強もしていない人間だ。この1年の間についた学力の差はとてつもないだろう。


「いいから! 英語とか国語ならできるでしょ? 私は数学と物理やるから」

「って言ってもなぁ⋯⋯」

「男に二言は?」

「⋯⋯ありません」


 溜め息を吐いて、プリントを手に取る。

 うわぁ、問題文まで英語とか頭おかしいんじゃねえの⋯⋯しかも、見た事ない単語ばっかりなんだけど。


「辞書でも翻訳サイトでもなんでもじゃんじゃん使っちゃって」


 と言って、電子辞書を渡してくる。


「間違えても文句言うなよ」

「うん。終わらせて提出することが大事だから」


 彼女の話では、週に2回、学校からの課題がメールで送られてくる。それをプリントアウトして、郵送で送り返すんだそうだ。今日の最終便までにポストに投下すれば良いらしい。

 時計を見てみると、今はお昼過ぎだ。今日の最終便まで⋯⋯あと6時間弱といったところか。田舎は郵便物の回収時間も早いのだ。

 まあ、頑張ればできなくはない、と思いたい。


「って、全く手つけてないじゃねーか」


 プリントをパラパラ見てみると、白紙だった。


「だから、助けてって言ってるでしょーが」


 言いながら、玲華は早速数学の問題に取り掛かっていた。

 まさか、本当に玲華が追い詰められてたとは、少し意外だった。なんでもかんでも軽くこなしてしまうのが久瀬玲華だと思っていたからだ。


(やれやれ。筆跡でバレてもしらないからな)


 そう心中でぼやきながらも、俺も英語の問題に取り掛かった。

 うん、難しいが、解けないことはない。何とかなりそうだ。

 ただ、学校で読んでいるものよりはるかに難しい論文形式なので、頭が痛くなってくる。


(うっわ⋯⋯これ、よく見たらTIEFLテストの過去問じゃないか)


 TIEFLテストは、英語を母国語としない人のための英語力を判定するテストだ。具体的には、アメリカやカナダの大学・大学院に留学する際に、英語力を証明するためのテスト。当然、難関私大の受験英語よりも難しい。

 大きな溜め息を吐いて、英文の嵐に挑んだ。


「ていうか、なんでこんなとこで暮らしてるの? 他のスタッフさんとかは?」

「ペンションを貸し切ってるから、他の人達はみんなそこ。撮影場所から近いし」

「玲華だけ1人?」

「うん。まあ、私は1人になりたかったし、課題もあるから」


 それを要求して飲んでもらえるくらいには、玲華の力は強いらしい。と、勝手に思っていたら、学業の邪魔をしないというのがREIKA復帰の条件だったそうだ。事務所はその要求をのまざるを得ないのだろう。


(学業に支障でまくってると思うけどな)


 こうして真っ新な課題を見ていて思う。そもそも支障が出てるから俺がこうして呼ばれているだけで⋯⋯本当に、迷惑だ。


「ほんとはさ⋯⋯できると思ってた。役作りも、撮影も、課題も。それが、こんなに切羽詰まると思ってなくて。だから、本当にありがと」

「⋯⋯⋯⋯」


 彼女にしては、素直だった。

 というより、もしかすると本当に切羽詰まっているのかもしれない。

 学祭に来て嵐を巻き起こすくらいなら、課題やればいいのに。

 そんなことを思ったが、黙って課題をやる。喋りながらでは絶対に終わらない。

 そこから無音でシャーペンの音だけがカリカリと部屋に響いた。

 なんだか、こうして2人で勉強していると、付き合っていた頃を思い出す。あの頃もこうしてよく一緒に勉強していた。


「なんだかさ、こうしてると昔みたいだよね」


 玲華がぽつりと言う。


「よくこうして一緒に勉強してた」


 彼女も同じ事を思っていたのかもしれない。


「そうだな」


 それだけ応えて、課題に集中する。今は昔のことを思い出している場合ではない。早く終わらせて、ここから出ないと。

 色々まずい気がするし、凛に対して罪悪感が半端ない。


「あ、飲み物ほしいよね」


 言いながら、玲華は立ち上がって冷蔵庫まで行って、戻ってくる。


「はい、どうぞ」


 ブラックコーヒーのペットボトルをテーブルに置く。


「ちゃんと君の為にブラックも買ったんだからね」


 少し、得意げ。

 俺が来ることを想定してたんじゃないか。


「⋯⋯さんきゅ」


 俺はそれだけ言って、コーヒーを受け取る。


「ていうか君、よくそんなもの飲めるよね。この前飲んでみたけど、苦すぎて捨てちゃった」

「俺はもう砂糖入りのが無理だよ」

「ほー? 大人ぶっちゃって」


 くすっと笑って、再びテーブルで向かい合う。


「あ、でもあの時のブラックは美味しかった」

「⋯⋯?」

「君の唇から伝ってきたブラックコーヒーは、とっても甘かったよ?」


 瞬時にこの前の出来事を思い出してしまった。同時に、あの時の微糖の味まで。玲華の唇につい視線がいってしまう。


「あ、思い出したんだ?」


 にやにやとこちらを覗き込む。


「君の唇を伝えば、今もそのブラックコーヒーを美味しく感じるかな?」

「⋯⋯手伝うのやめるぞ」


 なるべく冷静に。

 動揺を見せずに、断る。


「はいはい、ごめんね」


 玲華は肩をすくませて、演技じみた溜め息を吐いた。

 こうして誘惑? を避けつつ、課題を進めた。

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