1章 第28話 好きだった

 今は何時ぐらいだろうか。

 凛は声が枯れるまて泣き、今は俺の肩の上に頭を乗せてもたれ掛かっている。スンと鼻を鳴らして、何度も溜息を吐いて町を見ていた。その視線の先にはぼんやりと町の家々の光が映っている。


「……前から知ってたんだろ、俺の事」


 彼女が泣きやんだのを確認してから、こちらも話を切り出す。

 また日を改めようかとも思ったが、ここを逃すと次はいつ訊けるかわからないし、俺自身もやもやしたままなのが嫌だったからだ。


「バレちゃったか」


 てへっと彼女は笑った。そして、


「……昇英数塾・吉祥寺校」


 ぽそりととある塾の名前を口に出した。それは、俺と玲華が中学の時に通っていた塾だ。俺達はそこで出会った。


「私も通ってたんだよ。Aクラスだったけど」

「……マジかよ」

「マジマジ」


 やや茶化す様に凛は答えた。

 まさかそんな時に接点があったとは思わなかった。

 俺と玲華はその塾のSクラスだった。S→A→B→Cという順に学力テストでクラス分けが行われる。俺と凛は既に同じ場所に居たという事だ。俺が気付いていなかっただけで。


「いや、でもお前……玲華と友達だったんだろ。玲華が誰かと話してるのなんか見た事なかったぞ」

「AクラスとSクラスは授業のカリキュラムが殆ど違うから、滅多に会わなかったの。同じなのは社会と、夏と冬の講習の時だけ。私は私でAクラスの友達といたし」


 そうだった。

 その塾では学力が分かれやすい英国数理はクラスが分かれ、社会は進行に差が生じないから他のクラスと共同で大教室だった。夏と冬の講習は、生徒が好きな講義を取れるシステムになっている。しかし、大体Sクラス用の講義というのが暗黙で存在し、下位クラスの奴がうっかり受講すると全くついていけない鬼畜講義となっていた。

 それに、同じ教室で授業を受けても同じクラス同士で集まるので、他のクラスとは馴染みがない。俺もそうだったし途中からは玲華とばかり居た。


「私は、ずっと見てたんだけどな……翔くんの事」

「えっ?」

「いつも休み時間は輪の中心になって勉強教えてた。Sクラスに居るだけでも凄いのに、その中で勉強教えれるなんて……凄いんだなって」


 あの塾のSクラスとAクラスの壁は、実はかなり分厚い。A〜Cクラス間の変動はよくあるが、Sクラスはほぼ固定だった。偏差値七十以上の上位高校に行く為だけのクラスと言っても過言ではない。

 俺は何故かSクラスの連中からよくわからない場所を訊かれる事が多く、自分が分かる範囲で教えていた。その際に玲華にダメ出しをされ……結果的に仲良くなってしまった。


「そしたらあの玲華まで一緒に居て勉強教え合ってたから……単純に興味が湧いて。どんな人なんだろうって……そう思って見てたらいつの間にか好きになっちゃってたのであります」


 恥ずかしいからなのか、凛は語尾を茶化して笑った。


「話した事ないのに?」

「うん。あの時は私も若かったから」


 今も若いだろ、と思ったが、何も言わなかった。


「それに、玲華も翔くんが好きなのはわかってたから……何も言えなかった」

「それいつの話?」

「二人が付き合う前の話」


 全く気付かなかった。凛の気持ちはもとより、玲華の気持ちも。玲華は勝負に負けたから俺と付き合っていたとばかり思っていた。


「だって、あの玲華が自分から男の子に話しかけるんだよ? そんなの今まで見た事無かった。私と居てもよく翔くんの事よく話してたし」


 どういう話をされていたのか気になるが、俺は敢えて黙っていた。今訊く事ではない気がする。

 凛の話では、玲華は容姿の良さ故に男が寄ってくる事はあっても、いつもほぼ無視状態だったと言う。また、玲華は無愛想でマイペースだから、学校の女子からも敬遠されており基本的に孤立していたが、偶然同じモデル事務所に所属していて撮影現場で凛と玲華は出会い、凛が同じ学校でも有名だった玲華を知っていた事もあり、話す様になったのだとか。

 俺からすれば玲華がモデルをやっていた話は今日知った様なものだったし、性格的に芸能関係に興味は無さそうだったから意外だ。

 その件については、「私は元々モデルに興味があったからやってみたんだけど、玲華は暇潰しって言ってたかな。退屈だっていつも言ってた」だそうだ。


『退屈ね』


 そういえばこれは玲華の口癖だった。

 勉強も特に頑張らなくても成績は全国でもトップクラスだし、遊びにも人間にも興味がない彼女にとっては全てが退屈だったのだろう。


「暇潰しって言ってたくせに仕事ってなると凄く真剣で、人気投票もいつも勝てなくて……あれは悔しかったなぁ」


 その気持ちはよくわかる。

 俺もどれだけ努力しても玲華には勝てなかったから。


「玲華ってさ、結構無茶苦茶なとこあるじゃない? 相手に物怖じしないでハッキリ物事言うしさ。それが社長とか他の関係者からも面白がられて、気に入られてたんだよね。もちろん、モデル仲間にはすごく嫌われてたけど」


 凛が苦笑いしながら言った。それも想像ができた。


「同じ塾に入ったのは?」

「偶然。親からモデルやる条件は勉強を疎かにしない事って言われて仕方なく入ったら玲華が居たの。でも、私も玲華もあの塾が学校から一番近かったから……そこはあまり不思議じゃないかな」


 同じ学校の友達も結構通ってたしね、と凛は付け加えた。


「そうだったのか」


 吉祥寺校は合格率の高さが他より群を抜いて高かったから、親に無理矢理いれられて俺は電車に乗って通っていた。

 一度帰宅してから塾に行くのは結構億劫なものだった。


「勉強では勿論勝てないし、仕事でも勝てないし、密かに気になってた人とも付き合っちゃうし……何一つ、玲華には勝てなかった」


 凛は黙って俺の話を聞いてくれていた。

 俺はあの時、途中から玲華しか見えなくなって……勉強も玲華に勝つ為にやってた。いや、ただ玲華に認められたかっただけなのかもしれない。

 まさか、同じ塾内で俺に想いを寄せている人間がいるとは思わなかったし、そんなところで誰かを傷つけていたとも知らなかった。

 そういえば、凛とここで初めて話した時も、俺が彼女について知らないと言った時、酷く傷ついた表情をしていた。それは俺がモデルのRINについて知らなかった事でなく、同じ塾内に居て全く眼中にすら無かった事を改めて知って傷ついたのだ。授業中に『相変わらず頭良いんだ』と言ったのも今ならわかる。

 彼女は俺を知っていたからだ。


「玲華が嫌いなわけじゃないのに……心のどこかでずっと対抗心を燃やしてて。それで、自己嫌悪。嫌になっちゃうよね」


 あはは、と凛は乾いた笑みを浮かべた。


「何で玲華は仕事辞めたんだろうな」

「多分、翔くんと付き合ってたから、だよ」


 凛は呆れたような笑みを浮かべてから、続けた。

 凛曰く、玲華は暇潰しでモデルやってただけで、俺と付き合う方が面白かったのではないかと予想していた。


「あと、私に罪悪感も感じてたんじゃないかな」

「罪悪感?」

「玲華は鋭いから、きっと私が翔くんの事気になってたっていうのは知ってたと思う。だから、せめて仕事だけはって思ったんじゃないかな」


 わかんないけどね、と 凛は自嘲気味な笑みを作って付け足した。


「玲華が辞めたから玲華がやるはずだった仕事が私に回ってきた。結果的に、それキッカケで私が有名になれた」


 だけど、と繋げて凛は続けた。


「こんなの……全然自分の力じゃないよね。全部玲華のお下がり。玲華の代わりをやらせてもらっただけ。もし玲華が仕事を続けてたら今の私は絶対に無いから。全然……嬉しくないよ」


 彼女は俯き、表情を隠した。

 惨めだったのだろう。玲華なりの情けだったのかもしれないが、彼女の情けは人を傷つける。

 俺にも似た様な事があった。思い出したくないくらい惨めで、甘美だった。本当に……思い出したくないくらい、幸せなのに惨めだった。


「だから、モデルじゃなくて女優になれば……もっと上に行けば、玲華に勝てると思った。勝ち負けの勝負じゃないかも知れないけど……少なくとも、自分の力だと証明出来るって。でも……」


 凛は口を噤んだ。

 ここからはさっきマネージャーの前で話した通り、という事だろう。枕営業を強いられ、それに応えなければ上には行けない。

 もしかしたら、それも自分の力の一つなのかもしれない。枕営業をしてチャンスを掴み取って、上にのし上がっていった人も多いだろう。

 しかし、それは凛の求めた力では無かった。


「マクラ要求してくるとか……ほんとにあのエロオヤジは最っ低。でも、それってさ『体の関係がなければ主演にしてやる価値はない』って事なんだよね。どうしても私じゃないとダメ、って訳じゃなかった。結局、私にはそれくらいの価値しかなかった」


 そんな方法で上に行ったとしても、少なくとも凛にとっては何の解決にもならない。余計に自分が惨めになるだけだろう。


「そんなので……玲華には勝てないよね」


 そう言って、凛は黙った。

 結局、これが凛が芸能界を辞めた理由なのかもしれない。自分の限界を知った。越えられないと悟った。枕営業を強いられたのも大きな理由であるかもしれないけど、原因ではなかった。

 人が空を飛べないのを悟る様に、人が地面で暮らすしかないと理解する様に、彼女は空を羽ばたく事を諦めたのだ。その気持ちは、俺もよく分かる。


「ねえ……どうして翔くんは玲華と別れたの? 引っ越したから?」

「聞いてないのか」

「うん……玲華から翔くんと付き合ってるって聞かされてから、私が玲華から距離を置いたの。玲華の幸せそうな顔見るの、辛かったから」


 高校も違ったしね、と彼女は付け足した。

 玲華は幸せだったのかな……俺と居ても楽しくないとばかり思っていたのに。


「別れた理由は……凛と一緒だと思う」

「え?」


 今までの凛の話を聞いていて、色んな感情が蘇って、溢れかえってくる。

 忘れていたはずの気持ちが蘇ってきて、胸の中をいっぺんに満たしていってしまった。まるで、塞いでいた蓋が決壊してしまったように、どばどばと溢れて止まらなくなっていた。


「惨めだった」


 玲華の笑顔が脳裏に浮かんで。


「情けなかった」


 受験で落ち込んでいた中学卒業後の春休みに、毎日どうでもいい用事を見つけて電話をかけてきたり、引っ張り回したりして。


「玲華に慰められている自分を許せなかった」


 挙げ句、慰めようとして自分の身体まで差し出して。自分だって怖かったくせに無理してリードしてみせて。


「気を遣わせている自分に……耐えられなかった」


 あんなに想われていたのに、何やってたんだ……俺は。『守ってあげてね』と市川サユに言われたのに、傷つけていただけだった。

 ぶわっと、自分の中でいろんな感情が溢れたのがわかった。

 玲華の事は──好きだった。

 でも、俺は自分の惨めさに耐えられなくて。玲華の優しさに耐えられなくて。彼女を拒絶した。

 会う度に彼女を傷つけていた。それに彼女は愛想を尽かして去った。

 本当に惨めだ。惨めすぎて、涙が溢れた。


「翔くん……」


 この涙がどういう意味なのか、わからない。


 悔しさ。

 情けなさ。

 悲しさ。

 寂しさ。

 申し訳なさ。

 色んなものが混じっていて……でも、一つだけ確かな感情があって。

 玲華のことを好きだった気持ちが確かに俺にはあって、それを相手諸共踏みにじった。

 そんな自分が許せなかった。


「……ごめんね」


 凛が俺の頭を抱え込む様にして抱きしめて、涙声で訊いてきた。


「本当に、私でいいの……?」


 良いも悪いもない。もう俺の心は決まっているのだから。


「俺は……」


 袖で涙を拭いて、必死に強がる。


「玲華のことを引きずってるわけじゃない。ただ、自分が死ぬ程情けなくて……悔しいだけなんだ」


 仮に好きだったとしても、どうやっても上手く行かなかったのは明白だ。

 俺が劣等感を持っている限り、玲華とはどのみち別れていた。また再会しても、それは変わらないだろう。

 今の俺にとって玲華とは……劣等感と惨めさの象徴なのだ。


「お前こそ……こんな俺でいいのか。凛が憧れてた俺は……もうどこにもいないんだぞ」


 凛は頭を振った。


「……私も同じ」


 ぎゅっと、また俺を抱き締めた。


「私も同じだから……二人で一緒に乗り越えよ?」


 頷いて、彼女の細い身体を強く抱き締め返した。

 同類相憐れむ、というやつなのかもしれない。それでも俺は、凛に対して暖かい気持ちを持っていた。デートをしていたさっきまでとは違う新しい感情。

 昨日、半分流れで付き合ってしまった感は否めない。元々凛に好意を抱いていたのは確かだが、その感情をどうしていいかわからず、凛が俺に好意を寄せる理由もわからなくて、どこか不安があった。

 だが、今は違う。

 俺達は確かな理解者として──とても後ろ向きな関係かもしれないけれど──二人で支え合っている。 きっと、過去を乗り越える為には、凛が必要だ。凛もまた、俺を必要としている。

 それが解った。だから、俺達は二人で歩いて行こうと決意した。一人では超えられない壁も、二人なら超えられるかもしれない。

 そんな諦観と希望を持って、俺達はもう一度、唇を重ねた。

 その時に重ねた唇は、涙でしょっぱくて、でも、優しくて。俺はこの時の口づけを、一生忘れないと思った。

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