第104話 特別編『先輩と後輩と特別稽古』(後編)
勝てなかった。
そう、勝てなかった。
自分が強いなどと思ったことはない。
だが、そうなるための訓練を欠かしたこともない。
けれど、まるで歯が立たなかった。
相手の方が年長者だったから。
自分よりも長い時間、武術に関わってきたから。
そんなことは理由にならない。
俺が弱かったせいで、何も守れなかった。
それどころか、余計な犠牲を増やしてしまった。
後悔はした。
だが、それは一度だけで十分だ。
前に進まなければいけない。
もう負けないように。
あんな悲しい結末はもう見たくない……。
◇
考えろ。どうすれば、先に一撃を叩き込める。
彼我の戦力は明らかに劣勢。
あの時と同じだ。
あの時は、自分は感情に揺れ動かされ、戦力差を考えなかった。
だが、今は違う。
ジェノは静かに呼吸を整えて、対峙する男に向かって行く。
前後左右、どちらに相手が動いても、対応ができる様にイメージを作っている。これならば……。
ジェノはそう考えていた。
だが、眼前の男は、シーウェンは、いきなりその場に座り込んだ。
完全に予想外の行動に、ジェノは面をくらって足が止まってしまう。
その瞬間だった。
シーウェンは座った体制から瞬時に立ち上がるのと同時に、全身をバネのように使ってジェノに飛び蹴りを仕掛けてきたのは。
腹部に重い一撃が突き刺さり、ジェノの体は後方にふっ飛ばされる。
「思いのほか綺麗に入ったな。ジェノ、大丈夫か?」
倒れたまま咳き込むジェノに、シーウェンは心配そうに近づいてくる。
「だっ、大丈夫だ……」
口ではそういいながらも、ジェノは咳き込み続けて立ち上がることができない。
「無理をするな。少し休んでいろ」
シーウェンはそう言い、他の者を指名して、稽古を続けようとする。
だが、ジェノは悲鳴を上げる体に鞭を打って、懸命に立ち上がった。
「まだ一本目だ。俺の番だ。もう少し付き合ってくれ」
脂汗を浮かべながらも、構えるジェノに、シーウェンは苦笑する。
「俺はまだ……」
ジェノは構えを崩そうとはしなかったが、「他のみんなの迷惑だ。休んでいろ」と師範に言われ、ジェノは仕方なく修練場の端に移動して腰を下ろす。
「……くそっ」
シーウェンの動きは全くの予想外だった。
完全に虚をつかれてしまった。
駄目だ、こんなことでは。これでは、また……。
ジェノは呼吸が整うと、立ち上がって練習に参加しようとしたが、そこにシーウェンがやってきた。
「ジェノ。もう少し休んでいろ」
「大丈夫だ。体も動く」
ジェノがそう答えると、シーウェンは再び苦笑する。しかし、
「師範! そろそろジェノにも特別稽古をつけてやりたいと思うのですが、よろしいでしょうか!」
不意に、シーウェンはジェノに背中を向け、真剣な表情で師範に大声で伺いを立てた。
「……良いだろう」
四十代手前の無口なライエル師範が、鋭い眼光をジェノたちに向けて、そう答える。
それを確認すると、シーウェンは相好を崩した。
「そういうわけだ。後でしっかりと稽古をつけてやる。だが、特別稽古は秘伝だ。ここでは行えない。お前は先に着替えて、家に帰りが遅くなると連絡してこい」
シーウェンはそう言うと、ジェノの肩をポンと叩き、他の者との稽古に戻っていってしまう。
「…………」
ジェノは無言だったが、自然と口元が緩んだ。
特別稽古というものがどんなものかは分からない。
だが、秘伝と言われるまでの稽古というものを受けられるのは行幸だ。
どんなに苦しい稽古でも耐えてみせる。
そのためなら、体がどうなろうと構わない。
ジェノはシーウェンに言われたとおり、他のみんなよりも先に、稽古着から普段着に着替え、一旦パニヨンに戻ることにした。
◇
バルネアさんに訳を説明すると、食事を作って待っていると言ってくれた。
申し訳なく思い、断ろうとしたが、珍しいことにバルネアはそれだけは頑なに譲らなかった。
「ジェノちゃん。最近は特に無理をし過ぎよ。きちんと美味しい夕食を作って待っているから、きちんと怪我をしないで帰ってこないと駄目よ」
そう言われてしまい、ジェノは「はい」と答えざるを得なかった。
ジェノが修練場に戻った頃には、二十人程の関係者はみな帰っていた。
ただ一人、シーウェンを除いて。
「待っていたぞ、ジェノ」
「すまない。遅くなった」
少しでも早くに稽古をしたくてジェノも走ってきたのだが、少し待たせてしまったようだ。
「ああ、洗濯した代えの稽古着を持ってきたのか。だが、それは中に置いておけ。少しでも身元を明らかにするものを持っていくわけには行かない」
「分かった」
ジェノは言われたとおりにし、「よし、行くぞ」というシーウェンと並び立って歩く。
普段は陽気に話しかけてくる彼も、今日は一言も喋らない。
特別稽古というものは、それほど緊張感を持たなければならないものなのだろう。
だが、それはジェノにとっては望むところだ。
しばらく歩き、ジェノ達は繁華街の奥へと進んでいく。
あまりこちらの方向には来たことがないが、一体この先に何があるというのだろうか。
「ここだ」
シーウェンがそう言って足を止めたのは、一見の小さな屋台の前だった。
「…………」
ジェノは周りを見渡す。区画を区切る壁に囲まれたこの場所には、その屋台以外はなにもない。
地下になにかあるのかとも考えたが、そんな形跡も見当たらない。
「親父さん、今日も頼むよ」
シーウェンは慣れた様子で屋台に近づいていく。
わけが分からないが、ジェノもそれに倣う。
「ああ、いらっしゃい」
最後の希望として、この屋台の主が武術の達人なのかと思ったが、どう見ても素人の立ち姿だ。
「……シーウェン。どういうことだ?」
自然と、ジェノの声は低くなる。
「んっ? ああ。今から俺の故郷の料理をご馳走してやる。いいから、席に座れ」
「……どういうことだと訊いているんだ!」
ついに堪えきれなくなり、ジェノは大声で問いただす。
「はっ、ははははははっ。いいな、その反応。ライエル師範にこの店を紹介された時の俺と全く同じだ」
シーウェンはさも可笑しそうに笑う。
「ふざけるな。稽古をつけてくれるという話ではなかったのか? ライエル師範も同意していたはずだ。まさか、二人揃って俺をおちょくっていたのか!」
怒りを顕にするジェノに、シーウェンの顔から笑みが消えた。
「まだ気づかないのか? お前は、明らかに冷静さを失っているんだ。今日だけじゃあない。少し前の長旅から帰ってきたあの時から、ずっとな」
「……どういうことだ?」
ジェノには、シーウェンの言葉の意図が分からない。
「今日の稽古の結果を思い出してみろ。お前は俺の不意打ちを受けたな。だがな、以前のお前なら、あんな攻撃は喰らわなかったはずだ」
「……なんだと……」
「ああ、分かっていないようだからはっきりと言ってやる。お前は、以前よりも弱くなっている」
シーウェンの言葉が、ジェノの心に深く突き刺さった。
「言い古された言葉だが、心技体の三つが揃わなければ武術というものは成り立たない。そして、今のお前は、一番大切な心が伴っていない。心が焦ってしまっているんだ」
「心……」
「そう、心だ。だから、特別稽古だなんて話に踊らされて、ここまでやってきたんだ。今更、言い訳はしないよな?」
シーウェンに退路を絶たれ、ジェノは言葉に詰まる。
「お前が何を焦っているのかは知らん。だがな、一足飛びで強くなる方法なんてないんだ。
以前のお前は、それを理解していたはずだ。だが、今はそれを忘れてしまっている。心が乱れてしまっているんだ」
シーウェンの指摘に、ジェノは何も返す言葉はない。
「だがな、それは良い迷いでもある。あとは方向性を正しい向きにしてやれば、その気持ちは強くなるための糧になるはずだ。……って俺も何年か前にライエル師範に言われた」
そこまで言うと、シーウェンはニッコリと笑った。
「俺と同じ様に?」
「ああ。壁にぶち当たってどうしたら良いのかと思い悩んで、お前と同じ様に心ばかりが焦っていたところに、この『特別稽古』の話を、ライエル師範にされた。そして、お前と同じ様に引っかかった」
シーウェンは照れくさそうに笑う。
「ジェノ。昔の俺も、今のお前も、一人で何もかも抱え込み過ぎなんだよ。何でも人に頼るのは論外だが、全く頼ろうとしないのも論外なのさ」
シーウェンはそう言うと、「いいから、まず座れ」とジェノに席を勧める。
「お前の体捌きや剣技だって、人から教わったものだろう? それを忘れて、今更、一人の力で解決しようなんてのはおかしな話だ。まったく、少しは先輩を頼れよ」
「……だが、これは俺が……」
「だから、良いんだよ。自分だけで乗り越えなければいけないなんて考えなくて。まぁ、直ぐに分かれとは言わない。俺も飲み込むまで、そして理解するまで時間がかかったからな」
バンバンとジェノの背中を叩き、シーウェンは笑う。
「ジェノ。まずは腹を満たそうぜ。お前も大盛りでいいか? 大丈夫だ。味は保証する。間違いなく食べ切れるはずだ」
その言葉に同意しそうになったジェノだったが、バルネアが料理を作って待っていることを思い出し、自分は量を少なくしてもらうことにした。
「いいか、ジェノ。この店は他の奴らには内緒にしておけよ。バルネアさんにもだ。同じく、武術を修めようとする者の秘密だ。いいな?」
「……分かった。秘密にする」
ジェノはそう言って笑った。
「おお、いい笑顔だな。それで良い。これから、なにか相談したいことがあれば、『特別訓練』をしたいと俺に言え。それがこの店に来る合図だ。だが、もちろん、俺もお前を同じ様に誘うこともあるからな」
「そうか。可能な限り、その時は予定を空けることにする」
ジェノが答えると、シーウェンは破顔する。
「へい、お待ち」
店の主が、大きな器にスープと麺を入れた料理をジェノとシーウェンの前に置いた。
更に麺の上に、豚肉のハムのスライスに加え、野菜と半身の卵が乗っている。
「これは、初めて見る料理だ」
「そうだろう? 俺の故郷の料理で、拉麺という。ライエル師範が修行時代に俺の故郷に寄った際に気に入って、この親父さんに作り方を教えたらしい。って、能書きはあとだ。麺が伸びる前に食べるぞ、ジェノ」
「ああ、そうだな」
シーウェンと並んで、ジェノは未知なる料理を口に運んだ。そして、戦慄する。
「これは、美味いな」
「ふっ、だろう」
自分が作ったわけでもないのに、シーウェンが得意げに言う。
「いいか。絶対に俺達だけの秘密だぞ。気軽に食べられなくなったら困るからな」
「そうだな。これは秘密にしておきたい味だ」
そう言い、ジェノとシーウェンはお互い笑いあった。
それから、しばらくはこの屋台のことは、ジェノ達だけの秘密だった。
だが、最近、『特別稽古』に行く度に、同じ料理の匂いがすることをバルネアとメルエーナに気づかれてしまった。
ジェノは頑なに口を割らなかった。
だが、先日、シーウェンにもバルネアの尋問の手が伸び、彼は仕方なくこの屋台のことを白状したのである。
◇
すっかり温まった体が冷えてしまわないうちに、メルエーナ達は帰路に就く。
「ああっ、美味しかったわ。なるほど。こんなに素敵な訓練だったら、私達もたまには受けたいわよね、メルちゃん」
「あっ、その、はい。すみません、ジェノさん。偶にでいいので、私達も誘ってください」
申し訳無さそうに、メルエーナもバルネアに同意する。
いかんせん街外れなので、女だけで歩くのは少し躊躇われる場所だ。
またこうして連れてきてくれたら嬉しいと思う。
「ただ、本当に内緒にして下さいよ」
シーウェンの念押しに、メルエーナ達は「はい」と頷く。
途中の分かれ道で、シーウェンと別れることとなった。
シーウェンは、バルネアとメルエーナに丁寧に別れの挨拶を口にしたが、
「じゃあな、ジェノ。また明日も待っているぞ、後輩」
ジェノにはそんな気軽な挨拶をする。
するとジェノも、「ああ、先輩」と短く言って微笑む。
ジェノがこんなに他人と打ち解けているところは初めて見た。
メルエーナは、少し悔しい気もしたが、でもそんな友人がジェノにいることが嬉しくもあった。
そして、もしも自分がジェノの事を「先輩」と呼んだらどんな顔をするだろうかと思い、メルエーナは明日にでも実行してみようかと思うのだった。
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