第94話 『人質』
この刃は、どうしてこの手が届く範囲しか斬る事ができないのだろう?
あの外道の喉笛を裂く事ができない自分に、私は歯噛みする。
あの男さえ、国王ガブーランさえ殺すことができれば、多くの命を救うことができるというのに。
この村への配属が決まった私は、希望に胸を高鳴らせていた。
敬愛するジューナ様のもとで、病に苦しむ人々の手助けをすることができる。
それは、女神カーフィア様の信徒として、この上なく名誉なことで、私の幼い頃からの夢に他ならなかったからだ。
今でもはっきりと覚えている。
流行病に苦しむ私達の村にわざわざ足を運ばれて、ジューナ様は、その強大な魔法で、私を含む村人三百名の命を救って下さった。
その上、懸命に病と戦っていたが故に、自らも病に冒されてしまった私の父と母が、自分たちの不甲斐なさを悔いて謝罪すると、あの方は私の両親を優しく抱きしめてくださり、
「カーフィア様の教えを守り、この村だけで病を食い止め、自ら病魔に冒されながらも、人々を懸命に救おうとしたお二人の献身。私は何よりも尊く思います。
ありがとうございます。貴方達の頑張りのおかげで、多くの命が救われました」
そう言って、優しく微笑まれたのだ。
父と母は落涙して、その場に泣き崩れた。
側でその話を聞いていた幼い私も、止めどなく流れ落ちる涙を堪えることができなかった。
命を賭して人々を救おうとした父と母の努力を、この方は認めて下さったのだ。
この方のお力になりたい。
いや、必ずお力になる。役に立ってみせる。
そう幼い私は誓いを立てた。
それが叶う機会が訪れた私は、本当に希望に胸を膨らませていたのだ。
……何も知らなかった、あの頃の私は……。
この『聖女の村』の神殿に転属になって一週間が経ち、ようやく勝手を掴み始めた頃に、私はジューナ様の私室に呼ばれてその事実を知った。
「ナターシャ。貴女に話して置かなければいけないことがあります」
この大地は、汚染されている。
その事実を聞いた私は、我が耳を疑った。
しかし、ジューナ様の悲痛な表情に、私はそれが事実だと理解する。
そして、もう自分には、いや、自分達には救いはないのだと理解してしまった。
ジューナ様の姿に心を打たれた国王ガブーランは、人々を救うために奔走する聖女のために、新たに村を作り、そこに大きな神殿を建てた。病める人々のための巨大な施設を。
だが、それは表向きの理由だった。
この地は、以前よりガブーランの命令で、未知なる力の研究が行われていたのだ。
その力は、魔法に非常によく似た、けれど魔法とは異なるエネルギーなのらしい。
便宜的になのか符丁的な意味なのかは分からないが、そのエネルギーは、<霧>と呼ばれ、ずっと研究が進められていたのだ。
その<霧>は、生物に注入することで効果を発揮するのらしいが、その力を使いこなせる者は現れることはなかった。
十年以上研究は続けられたらしいが、何の成果も挙げられなかった事により、その研究は破棄されることとなった。だが、そこで事故が起こった。
厳重に管理されていた<霧>が、大量に漏れ出したのだ。
霧は、またたく間にこの地に広がり、その上、少しずつだが確実に増殖していることが明らかとなった。
このままでは、この山奥の施設だけでなく、山全体に広がり、やがて麓の港町ルウシャにも汚染が広がることを危惧したガブーランは、ここでその対応に当たらせる人物を見つけ出した。
それが、聖女と名高いジューナ様だった。
ガブーランはジューナ様を騙し、汚染された土地に村を作り、そこにあの方を招いたのである。
もちろん、聡明な上に凄まじい魔法の力を持つジューナ様は、この地が汚染されていることに気づき、ガブーランを糾弾した。
だが、すでに手は打たれてしまっていたのだ。
◇
反吐が出る。
それが、ジェノの抱いた感想だった。
「それで、どうしてジューナはガブーランの言いなりになったんだ?」
感情を殺し、ジェノはリットに尋ねる。
事実を人々に伝え、避難するのが最善の策のはずだ。だが、こんな誰でも思いつく方法を取らなかったのには、それなりの理由があるのだろう。
「なぁに、シンプルな理由だぜ。人質だよ。ガブーランは、人質を取ったんだ」
「人質? ジューナや神殿の関係者の肉親などの命を握っていたのか? だが、それだけでは……」
ジューナ達が、どうせ人質も生かされ続ける保証がないと思い、反旗を翻した途端、そんなものは何の意味もなくなる。
まして、かの高名な聖女を敵に回せば、世論は間違いなく聖女に傾くだろう。あまりにもリスクが高すぎる。
「うんうん。そうだよねぇ。だから、国王様はもっと大きなものを人質にしたんだ」
「勿体つけるな。ガブーランは何を人質にしたんだ?」
ジェノの叱責に、リットは「へいへい」と全く反省していない態度を取る。
「まぁ、たしかにもったいぶることではないよな。簡単だよ。この国の全てだ」
「この国の全て?」
ジェノには漠然としすぎて、その言葉の意味がわからない。
「そうそう。件の<霧>を研究していた施設は、このシュゼン王国だけでもまだ何か所かあるんだとさ。その<霧>を国内にばら撒くと脅したのさ」
「馬鹿な! 自分の国を弱めるだけだろう。なぜ、そんなことを……」
「さぁね。ただ、シンプルな思考だと思うぜ」
リットは口の端を上げて、楽しそうに笑う。
「国王様は、何よりも自分が可愛いんだろうさ。だから、自分を害する、自分を認めない国なんてものには興味がないんだろうぜ。
その証拠に、ジューナ様の故郷は、すでに<霧>っていうものが巻かれてしまったらしい。いやぁ、分かりやすい小物だねぇ」
その言葉に、ジェノは拳を握りしめる。
「というわけで、聖女様はこの村だけでなく、この国の人間全てを守るために、今まで懸命に頑張ってきたんだよ」
「……そうか」
ジェノは静かにそれだけ答え、リットの目を見る。
「あっららぁ。てっきり、『俺はそんな人間を殺してしまったのか?』か言って、苦悩するジェノちゃんが見れると思ったのに、残念だなぁ」
リットはそんな軽口を叩いたが、ジェノは何も言わず、微動だにしない。
「はいはい。わかったよ。話を続けますよ」
リットは面白くなさそうに嘆息し、再び口を開く。
そして、ジェノはようやく自分達がこの事件に巻き込まれた理由と、サクリが隠していた事柄を知る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます