第63話 『叫び』
何も変わらない。
今日も、サクリはただ生きる。
死んで、天国に行くために。それだけを目標に。
「イルリア、交代だ。お前も昼食を食べてきてくれ」
「分かったわ」
そんな会話が耳に入ってきた。
だが、サクリには別にどうでもいい。ただ、今が昼だということが分かっただけだ。
「昼食を持ってきた。少しでもいいから、食べたほうがいい」
ジェノがそう声をかけてきた。
「……ええ」
サクリはそう応え、ベッドに腰掛けたままでも食べられるように設置された、移動式のテーブルの上のトレイに視線を移す。
食べないと死んでしまう。だから食べよう。
でも、美味しいと思ってはいけない。そんなふうに、食事に喜びを感じてはいけない。
だって、もう、カルラとレーリアは食事を楽しむことも出来ない。それなのに、私だけが食事に喜びを見出すなんて、そんなこと許されない。二人に申し訳がたたない。
それに、きっとカーフィア様もそんな事はお許しにならないはずだ。
自分は、天国に行くんだ。それだけが希望。それだけが、今のサクリの願いだった。
「……これは……」
食事にもう興味はないはずだった。
だが、サクリはトレイの端の小皿に盛られた、真っ白い物体に心を惹かれてしまう。
見たこともない料理だ。こんな純白の柔らかそうな物体は初めて見る。
「すごく変わった香り……。甘いようで爽やかな……」
小皿を手にとって顔に近づけると、独特の香りがサクリの鼻孔をくすぐる。
トレイの一番小さなスプーンを手に取り、その純白の物体を掬う。
ゼリーよりも柔らかいそれは、たやすくスプーンで切れた。サクリはそれを口に運ぶ。
「……あっ……」
優しい甘みと爽やかな香りが、口いっぱいに広がる。美味しい。こんなに美味しい甘味を食べたのは初めてだ。
あまりの美味しさに、スプーンを動かし、二口、三口と食べ進める。だがそこで、サクリは自分のした事を理解する。
「あっ、ああっ……」
サクリは小皿とスプーンを力なくトレイに戻す。そして、顔を俯けて涙をこぼす。
「すみません、すみません。カーフィア様。どうか、どうか、お許しください。私は、私はなんてことを……」
胸のうちに留めておくことが出来ずに、サクリは声を上げて女神カーフィアに許しを乞う。
「……お願いします。私を見捨てないで下さい。どうか、私を天国へ……」
涙ながらに懇願するサクリは、近くにジェノがいることさえ忘れて取り乱す。
不意に、ダン! という床を叩く大きな音が聞こえた。
その大きな音に、サクリは驚いて祈りの言葉を中断する。
音のした方を見ると、ジェノが椅子を手にとって、それを床に置いた音だったことが分かった。
彼は椅子から手を離し、サクリの元に歩み寄る。
「サクリ。何を怯えている。どうして食事をするだけのことで、お前は神に許しを乞う必要があるんだ?」
ジェノはサクリの目を見て、尋ねてくる。
「……いいえ。その、なんでもありません……」
「そんなわけがないだろ。……話してくれ」
ジェノは視線をそらさずに、無言のサクリを見つめ続ける。
本当は、何も言うべきではなかったのだろう。
しかし、サクリの心はもう限界だった。
助けを求めていた。悲鳴を上げていた。彼女の心は砕ける寸前だったのだ。
「……駄目なんです。このままじゃあ、私は天国に行けない! カルラとレーリアに会えなくなってしまう! だから、だから、私はもっと、もっと苦しまないと! 嬉しいとか、幸せを感じては駄目なのです!」
サクリは叫ぶ。心のうちに溜め込んでいたものが、溢れ出してしまった。
「ゆっくりでいい、もう少し詳しく話してくれ」
ジェノは静かに椅子を手繰り寄せて、そこに腰掛ける。
一度溢れ出してしまった気持ちは抑えられない。サクリは感情の赴くままに秘めていた思いを吐露する。
それは決して分かりやすい話ではなかったが、ジェノは黙って話を聞いてくれた。
「……はぁっ、はぁっ……」
あまりにも勢いよく喋り続けたことで、サクリは呼吸を乱す。
けれど、話を聞いてもらえたことで、少しだけサクリは冷静さを取り戻した。もっとも、この行為にさえ、彼女は罪悪感を覚えてしまうのだが。
「なるほどな。大変だったな」
ジェノの答えはあまりに素っ気ないものだった。
だが、サクリはもともと彼から大した言葉が返ってくるのを期待してはいなかった。
顔は綺麗だが、冷たい雰囲気のこの少年に、サクリはあまり好感を持っていなかったのだ。
あの時も、ガイウスさんが丁寧に事情を説明してくれて、自分の護衛を依頼してくれた時にも、この少年はなかなか首を縦には振ってはくれなかった。
船に乗るあの日の朝も、バルネアさんや、イルリアさんやリットさんの様には接してはくれなかった。
いや、そんなことを他人に求める事こそ、堕落の極みだ。
それを考えれば、自分の気持ちを吐露した相手が、この冷たい少年で良かったのかもしれない。
そうサクリは思ったが、ジェノはそこで更に言葉を続ける。
しかし、彼が発したのは、信じられない言葉だった。
「同情する。酷い友人を持ったんだな。いや、友人と呼んでいいのかすら分からん。そんな連中だけでも大変だろうに、さらにろくでもない女神を信仰しているとは……」
その言葉を聞いた瞬間、サクリの思考は停止した。
何を言われたのか瞬時には理解できなかった。いや、きっと頭が理解するのを拒んだのだろう。
しかし、その言葉の意味を理解した瞬間、サクリの心を支配したのは、激しい怒りだった。
「何を、何を言うんですか、貴方は! カーフィア様を愚弄するだけでなく、私の大切な親友を……。カルラとレーリアを!」
怒りのあまりに体を震わせるサクリ。
しかし、ジェノは眉一つ動かさない。
「何をと言われても、俺には理解できない。病に苦しむ信者に、さらなる苦しみを求める非情な女神なんぞを好き好んで信仰する気持ちも、死後もお前が苦しむことを願う者達を大切に思う気持ちも、まるで分からん」
「なっ……」
何を言っているのだ、この男は。カーフィア様は、大地と人々の交流を司る慈愛の女神。そして、カルラとレーリアはずっと私のそばにいてくれた。私を励まし続けてくれた。そして命を賭して私を、こんな私を助けてくれた最高の親友だ。
それを、それを!
「くっ!」
その無表情な顔を引っ叩いてやりたい。だが、サクリにはそんな力はない。
だから、サクリができるのは、ジェノを睨むことだけだった。
「何だ、その目は? 違うのか? 俺の言っていることは間違っているのか?」
「違う! 違うに決まっている! 私がこんな目にあっているのは、この世界が不完全だから! カーフィア様は悪くない! カルラとレーリアの事を何も知らないのに、適当なことを言わないで!」
サクリは叫ぶ。あらん限りの声で。
すると、ジェノは「そうか」と言って微笑んだ。
もっとも、微笑んだと言っても、ほんの少し口元を緩めただけなのだが、サクリにはそれだけで随分と雰囲気が違って見えた。
「それなら、もう自分を責めるのはやめろ。女神カーフィアも、お前の友人達も、決してお前が苦しむことを望んでいるわけではないのだろう?」
ジェノのその言葉に、サクリは何も言い返すことができなかった。
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