第62話 『痛心』

 エルマイラム王国を出港してから二日が経過した。

 船は今、大海原を進んでいる。


 乗船している客達は、景色を楽しんだり、海風を感じたり、釣りに興じる人もいるらしい。


 だが、病に侵されたサクリには関係のないことだった。

 ただ今朝も、自分達に割り振られた船室の小さな丸窓から、代わり映えのしない空と海面を見つめるだけで。


「……イルリアさん、すみません……」

 日に何度か、サクリは同室のイルリアに頼んでトイレに連れて行ってもらう。


 本当に、申し訳なくて恥ずかしい。

 この程度のことすら自分一人で出来ないことが、恨めしくて仕方がない。


「はい。分かりました」

 イルリアは嫌な顔ひとつせずに、サクリに肩を貸してくれる。

 それは本当にありがたいことなのだが、これで自分はいいのだろうかとサクリは不安になる。


「こんなに他人に甘えてばかりの私を、カーフィア様は楽園に、天国に導いてくださるのだろうか? もっと頑張らないと。もっともっと苦しまなければいけないのではないだろうか?」

 そのことが不安で仕方がない。


 出港前に、あの<パニヨン>という店で、他人の優しさに触れた時に抱いてしまったあの感情。

 それは、絶対に抱いてはいけないものだった。


 だって、カルラとレーリアが死んでしまったのは私のせいなのだから。

 それに、それは、絶対に叶わない願い。

 私には、もう……。


 サクリは一日中、罪の意識と自分の死後に痛心する。

 

 どうすればいいのだろう?

 イルリア達の助けを断って、自分で全てをする方がいいのだろうか?

 だが、そんなことは、この体ではできそうにない。

 それに、それは生きる努力を放棄してしまうことになるのではないだろうか?


「分かりません。分からないのです、私には。カーフィア様、お教え下さい。私が罪を雪ぐ方法を……」

 懸命にサクリは心の中で、信仰する女神カーフィアに願う。

 だが、カーフィアは何も応えてはくれない。

 そのことが、いっそうサクリを苦しめる。


「……そうですよね。私のような罪深い人間に、愚か者に、カーフィア様がお言葉を掛けて下さるはずがないですよね。

 そうだ、もっともっと考えよう。考えないと。このままでは、私は天国に行けない。私はカルラとレーリアに会うことができない……。嫌だ、それは嫌だ……」


 出口のない思考の迷路に迷い込んだサクリは、心のうちでずっと、不甲斐なく罪深い自身を罵り、傷つけ、体だけでなく心まで病んでいく。


 だから、サクリは気づかない。

 そんな自身を、同室のイルリアがどのような思いで見ているのかを。



 




 いつものようにリットが癒やしの魔法をサクリに掛けてくれた。

 そして、いろいろと話しかけてくれたが、心ここにあらずと言ったサクリは、適当に頷くことしかしなかった。

 自身を責め続けることに懸命な彼女には、それが精一杯だった。


 やがてリットが部屋を去り、サクリはベッドに腰掛けながら、ずっと思考の迷路の中を一人で彷徨い続ける。

 傍らで椅子に座るイルリアに、話しかけることはおろか、視線を向けることさえしない。


「イルリア、交代だ。朝食を食べてきてくれ」

「……ええ。そうさせてもらうわ」

 ノックをして部屋に入ってきたのだろうが、サクリはジェノが部屋にやって来たことに気づかなかった。

 だが、サクリには別にどうでもいいことだった。

 

 この醜い顔をもう晒しているのだ。異性だからといって、今更何を恥じるというのだろう。


「サクリさん、朝食を食べてきます。すぐに戻ってきますので……」

「ええ」

 思考し続ける事に疲れたサクリは、イルリアの言葉にようやく反応する。もっとも、彼女の視線はぼんやりと上を見たままだったが。


 イルリアが座っていた椅子に、ジェノは無言で座る。

 虚空を見つめるサクリも無言だったので、先程までと同様に、静かな時間が続いた。

 だが、不意にジェノが口を開く。


「食欲がないのか?」

 そう問われ、サクリは視線を彼には向けず、「すみません」と謝る。


 今朝、サクリが目覚めると、すでに朝食の用意がされていた。

 それを彼女はイルリアに促されるままに口にしたのだが、デザートのゼリーを半分食べて、パン粥はほんの一口しか口にしなかった。


 別段、料理が不味かったわけではない。いや、むしろ美味しかった。

 しかし、だからこそ、サクリはそれ以上食べようとは思わなかったのだ。


「別に、俺に謝るようなことではないだろう。だが、無理にでも食べて置かなければ持たないぞ」

「……すみません……」

 サクリはやはりジェノと視線を合わせずに、また謝る。


「何か食べたいものはないか? 船に備蓄されている食材で作れる範囲ならば、用意する」

 ジェノの言葉に、サクリは小さく嘆息する。


「いいえ。私には、そんな贅沢な事を頼む資格はありませんから」

「資格? どういうことだ?」

「……死んでしまった人は、もう何も食べられないんです。それなのに、私だけが……」

 サクリの答えは答えになっていなかったが、ジェノはそれ以上、何も訊いてはこなかった。






 昼食も夕食も、サクリはほんの少し手を付けただけで、それ以上は食べようとはしなかった。

 朝食よりは食が進んだようだが、このままでは体が衰えていく一方だ。


 リットの魔法の効果で、病状はかなり安定しているものの、このまま手をこまねいているわけにはいかない。


 ジェノは自室で一人思考する。

 自分の今までの経験から、何を食事に出せばサクリが口に入れるのかを考える。

 夕食は、バルネアに倣ってリゾットを出してみたが、やはり自分程度の腕では、サクリの食指を動かすには至らなかったようだ。


 しばらく考え続けたジェノだったが、そこで旅に出る前に、バルネアに渡された物があったことを思い出す。

 それは、この船の厨房を使わせてくれるようにと書いてくれた紹介状と一緒に渡された、少し大きな布巾着。


『困った時に開けてみて。何かの役に立つかもしれないわ』

 あのバルネアさんがそう笑顔で渡してくれたものだ。もしかすると、サクリが食事をするきっかけになるものが入っているかもしれない。


 情けないとは思うが、自分のプライドなどどうでもいい。今は、藁にもすがりたい気持ちだった。

 

「……んっ? これは、種?」

 薄茶色の外皮に包まれたそれは、何かの果物の種のようだった。

 だが、果物の種をバルネアが渡した意味が、ジェノには分からない。


 しかし、布巾着の中には、種だけではなく、折られたメモ紙が入っていた。

 ジェノはそれを開く。


 そして、目に入ってきたのは、『バルネアさんのお料理教室♡』と丸っこい字で大きく書かれた文字だった。


「……やはり、バルネアさんの思考は、俺程度には理解できないな」

 ジェノは頭痛をこらえるように頭に手をやり、しかしそのメモを読み進める。


 呆れ顔だったジェノの顔が、次第に真剣なものに変わる。


 そして、「流石はバルネアさんだ」と、彼はバルネアを称賛し、早速、メモに書かれた事柄を実行することにしたのだった。

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