第39話 『静かな怒り』

 矢は正確に、メルエーナの太ももに向かって飛んでいた。

 しかし、それは突然の突風によって曲げられ、明後日の方向に飛んでいく。


「メル! しっかりしなさい! 狙われているわ!」

 イルリアの声が聞こえる。

 メルエーナが力なくそちらを向くと、彼女が必死の形相で駆け寄ってくるのが見えた。


「……イルリアさん……。おっ、お父さんが……。お父さんが……」

 ショックから立ち直れないメルエーナは、ただそう言うことしかできない。


「上だけは見ないで!」

 イルリアはメルエーナのもとに駆け寄ると、彼女の顔を胸元に抱き寄せ、銀色の薄い板を天に掲げて自分も下を向く。


 瞬間、凄まじい光が巻き起こる。

 それは、下を向いていたメルエーナにも分かるほどの光量。闇夜の落雷を彷彿とさせるような眩しさだった。


「イルリア。風の魔法はいつまで持つ?」

 ジェノの声が聞こえた。

 そのことが、メルエーナに冷静さを取り戻させた。


「あと二、三分くらいしか持たないわよ」

「そうか。それなら、癒やしの魔法をあるだけ貸してくれ」

「あんた、何をするつもりなのよ?」

「悠長に話している暇はない! 早くしろ!」

 ジェノ怒声が聞こえ、メルエーナはそちらを向く。


 先程の眩い光はもう治まっており、ジェノとイルリアが切迫した状態で言葉を交わしている。


「メル、動ける?」

 メルエーナが顔を上げている事に気づき、イルリアが声をかけてくる。


「はっ、はい!」

 そう返事を返すと、イルリアは少しだけ安堵の表情を浮かべたが、すぐに険しい顔をする。


「ジェノ、私達はどうすればいい?」

「……メルエーナ。この絶壁の下まで、迷わずに歩いていけるか?」

 ジェノはイルリアではなく、メルエーナに声をかけてきた。


「はっ、はい。大丈夫です」

 メルエーナが答えると、ジェノはすぐに二人に指示を出した。


「イルリア、あれを使って敵の視界を遮ってくれ。俺はロープを使って先に下に降りて、コーリスさんの手当をする。お前たちは、あれが効いているうちに、歩いて下まで移動しろ」

「それしかないわね。分かったわ!」

 イルリアは腰のポーチから銀色の薄い板を取り出して、それを三枚ジェノに手渡す。そして、更にもう一枚、同じ板を取り出した。


 ジェノは背負ったリュックの横に掛けていたロープを手に取り、それを手近の大木に結びつける。


「ジェノ! 風の魔法がもう持たない!」

 イルリアの切羽詰まった声。ジェノは大急ぎでロープを大木にしっかりと結びつける。

 メルエーナは、ただ二人が作業を終えるのを待つことしかできない。


「よし! 頼む、イルリア!」

「分かったわ。メル、すぐに追いかけるから、貴女は走って!」

「はっ、はい!」


 まだ心の整理はついていない。だが、今はジェノとイルリアを信じるしかない。

 メルエーナは、二人に背を向けて走りだす。


 一度だけ背後を振り返ると、イルリアが銀の板を再び掲げているのが見えた。

 そして、次の瞬間、彼女の前に真っ黒な空間が現れた。


 闇だった。

 森の一部分の空間──発生源から近すぎたためメルエーナには規模を知覚できなかったが──五十メートルほどの球状の闇が、イルリアの前方に現れたのだ。


 それは森の規模を考えれば、ほんの僅かの変化。だが、肉眼でこの闇を見通すことはできない。ゆえに、遠距離から狙撃は不可能になる。

 もちろん、この闇の中に入り込んできても、光を一切通さないこの空間で方向感覚がなくなってしまうので、追手を撒くには最適の魔法なのだ。

 欠点は、持続時間が三十秒ほどと短い事だけ。

 

「メル、足を止めないで!」

「はっ、はい!」

 こちらに向かって走ってくるイルリアに言われ、メルエーナは再び走る。


 足場の傾斜はそれほどでもないが、下り坂で走りにくい。

 しかし、そんなことを気にしている暇はない。

 

 一体何がどうなっているのだろう? 

 お父さんは大丈夫なのだろうか?


 困惑と戸惑いと悲しみと不安。

 いろいろな感情が溢れて、涙がこみ上げてくる。でも、今は走るしかない。

 メルエーナは涙を堪えて、ただ父が落下していった場所を目指して足を進ませる。


「メル。ストップよ。流石にここからは、走ったら足を挫く可能性高いわ」

 息を切らしたイルリアが、走るメルエーナに追いついて、そう言葉を掛けてくれた。


「はぁ、はぁ……」

 メルエーナは少しずつ走る勢いを弱めて、息を整えながら足を止める。

 そして、呼吸が少し落ち着いたのだが、そこで我慢していた涙が溢れてしまう。


「ごめん。辛いときに無理をさせて。でも、私はこの場所に詳しくない。貴女が進んでくれなければ、コーリスさんの所にたどり着けないの。だから、もう少しだけ涙は堪えて!」

 イルリアは息を切らしながらも、そう言ってメルエーナを叱咤してくれた。


「……はっ、はい! こっちです!」

 メルエーナは涙を拭いて、イルリアを案内する。


 そう。まずはお父さんを助けないと。


 自分に懸命に言い聞かせ、メルエーナはイルリアと一緒に、コーリスが落下した場所に向かう。


 落下すれば一瞬の距離だが、人が歩ける道を迂回して回り込むと時間がかかる。

 メルエーナ達が、大きな木の陰で横になっているコーリスを、そして先に彼のもとに駆けつけたジェノを見つけたのは、事が起こってから二十分ほど経ってからだった。


「お父さ……」

 そう呼びかけたメルエーナの口を、イルリアの手が抑える。


「メル。声を出さないで。最悪、上から狙われている可能性があるわ」

 イルリアの小声の注意に、メルエーナは黙って頷いた。


 ジェノもこちらの接近に気づいていたようで、何も言わずに、ハンドシグナルで周りの木々に身を隠して近づいてくるように指示する。


 走れば十秒ほどで着く距離を、メルエーナはイルリアに手を引かれて、ゆっくりと彼のもとに近づいた。


 そして、倒れている父のもとにようやくたどり着くと、


「大丈夫だ。一命はとりとめている」


 ジェノは、メルエーナが一番言ってほしかった言葉を口にしてくれた。


 もう我慢することができずに、声を押し殺して涙をこぼすと、イルリアが何も言わずに優しくメルエーナを抱きしめてくれた。


「……後五分だけ待つ。その間に、呼吸を整えてくれ。これからのことを話したい」

 ジェノはそれだけ言い、黙り込んだ。


 ジェノの声は、酷く冷たい感情のこもらないものだった。

 だが、涙拭き取ったメルエーナが一瞬だけみた彼の横顔には、強い怒りの感情が浮かんでいたのだった。

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