春の浜辺

三日月 理音

春の浜辺

 銃にターンしたウフコックを胸に抱いたバロットは、急に意識を取り戻した。茫洋とした意識が突然収斂して、自分が浮上するのを感じた。涙でのりされた目蓋を押し開けると、銀砂を撒いた明るい星空と重油や排水に汚れていない、まっさらな潮の香りがした。

 見事な海岸にバロットは立っていた。

 塩辛い海風がバロットの髪を揺らす。鼻を啜り、ごわついた頬を流れる涙を指先でぬぐい取ると、自分が泣いているのに悲しくなって、柔らかい砂の上にへたりこんだ。

 とんでもなく疲れていた。身体も心も痛かった。ボイルドとの戦いやカジノでのことが一挙に巡ってきて、バロットの目から再び涙が盛り上がった。

 君の事件は完結する。

 ドクターに告げられた直後のことで、どこもかしこも痛かった。

 胸に抱いた引き金のない鉄の塊──ウフコックをそっと撫でた。変な感じがした。それでも声をかけた。

 ──帰ろう、ウフコック。ドクターが待ってる。

 知らないところへ来てしまった。

 いくら自分を保っていられるからと言って、強烈な経験のあとに気を失わないとは限らない。

 きっと、自動車をオートにしてそのまま気を失って、ここに来てしまったに違いない。早く帰らないとドクターが心配する。

 だが、ウフコックはうんともすんとも応えなかった。

 ──ウフコック? どうしたの?

 思い返せば彼の衝撃も強烈なものだ。引きこもってしまっても無理はない。

 バロットは長いため息をつくと、ふと、車はどこに止めただろうかと振り返った。

 車なんてなかった。バロットは怪訝な面持ちをした。目をこらしたが車の轍もなかった。背後には急峻な山が迫っていて車が通れるだけの道路なんてない。はじめから車なんて物は存在しないと言われているようだった。

 腰を浮かしたバロットはウフコックを胸に抱えたまま、黒々とした稜線が見えるだけの山に向かった。

 妙な感じだった。

 目の前にあるのに全然触れない。触ろうとすると、風が吹いて山が逃げる。遠のいてしまう。けれど、距離感は変わらない。触ろうとするたびに、バロットの手は何度も空を掴んだ。〝山が逃げる〟の意味が分からないのだが、そうとしか表現できなかった。絶対に手を触れさせてくれないのだ。

 ──……ここ、どこ? ねえ、ウフコック……

 バロットの手に、いらえはなかった。それにウフコックを触っている気がしない。ウフコックという人がいる気配がまったくなかった。

 ──道具……?

 ふいにそんな言葉が浮かび、バロットはなぜかぞっとした。

 ウフコックが道具であるわけがない。彼は私の唯一無二の人だ。バロットは懸命にその言葉を追い払った。

 ウフコックはおらず、声は出ず、帰る手段も道もない。

 どうやったって、今は、バロットに運は向いてない。

 いったいなにが起こっているのか分からない。

 疲れがどっとやってきてバロットは身体を優しく包んでくれる砂に寝転ぶと、ウフコック──もとい引き金のない銃をお腹に置いて、移り変わっていく天上の光景をぼんやりと見ていた。天上の星は、バロットの悩みなど知りもせず、ときおり流れてはちかっと光って消えていった。身体の痛みが、少しずつ解きほぐされていく。カッカしながらも沈鬱に沈んでいた身体の巡りが、正常に戻りつつあったときだ。

 頭の上で砂を踏む、かすかな音が聞こえた。顔を上げようとするバロットをその人は手で制止した。なぜか絶対に見てはいけない気がして──それは、その人の問題でもあるし、バロットに関わっているとも思えた──バロットは、小さく頷いた。

「ここの砂は癒やしの効果があるから、しばらくそうしてるといい。私の方は見ないでいい……いや、見ないでくれと頼むべきかな」

 妙なイントネーションだが穏やかで柔らかい声の男だった。危害を加えようという気はさらさらなさそうな人だったが、バロットが警戒したのが分かったのだろう。その人はバロットより少し後方に腰を下ろすと「渋川春海という」と言った。名を言うときだけ、渋川春海なる人物はちょっと誇りを込めて言った。

 バロットは考え、渋川春海にどう接するべきか迷った。

 結局、ウフコックを基準として、丁寧な風を取った。

 ──ルーン=バロットです

 声が出ないので、右手を伸ばして砂にその人に見えるようにルーン=バロットです、と書いた。ウフコックの紹介をすこしだけ迷ったが、今の鉄の塊をウフコックですとは言えず、黙っていた。

 春海はバロットの手元をのぞき込み、労う調子で言った。

「戦ってきたのだろう? あなたと胸のお人は。あなたに仇なす人たちと」

 春海の言葉をバロットは怪訝に思った。自分たちの事件は公になる類いの物だったろうか。マルドゥック市の誰もが知りうることだったろうか……と。

 ──ニュースで見たんですか? ネット?

「いや。私はそういったものは知らない」

 ──ではなぜ……?

「私はあなたの物語を読んだのだ。バロットさん。あなたの人生の一部が記された物語を」

 ? と大きく記したバロットの目の上に、乾いてかさついた手が降りて目蓋を閉じさせた。バロットははっと身構えた。なにか音がした。だがそれも春海の言葉にかき消された。

「少しお休みなさい。朝が来たら教えてあげよう」

 その言葉の通りに、バロットは急激な眠気に襲われ、深い眠りに吸い込まれていった。


 バロットの目蓋に赤い光がちらついた。身悶えすると、身体の傷がほとんど癒えていることに気づいた。こめかみの傷は完全にふさがって、痛みもなかった。巨大な赤は揺らめきながら目蓋を赤く染めた。薄目を開けると、真っ赤な太陽が真正面にぽっかり浮かんでいた。

 ──朝だ……

 けだるい朝を迎えたバロットの目に、夜には見つけられなかった小さな小屋から人が出てくるのが見えた。

「バロットさん」

 バロットに声をかけるその人物──昨晩よりも少し張りのある口ぶりの渋川春海はサムライだった。二刀を差した春海は、バロットとそういくらも年齢が変わらない溌剌とした若いサムライだった。バロットは面食らった。好事家がやっているのではないのは立ち振る舞いを見ても明らかだった。春海の姿や格好はあまりにも身に馴染みすぎて、はぎ取る方が難しいほどだった。一分の隙もなく着込まれたキモノの裾を折ってバロットの顔を覗き見た。濃い茶色の柔らかな目はバロットの傷を見ていた。ぎょっとして身を起こしかけると、春海はまたも手で制した。

「身体が大変なときに無理をしてはいけない。あなたは生きているのだから」

 頭の下に二つに折ったクッション──春海はザブトンと言った──を差し込まれた。だったら家に連れて行ってくれればいいのにとバロットは思ったが言えずじまいだった。

「重湯は飲めるかな。作ってきてみたんだが」

 あれこれと世話を焼きそうになる春海の腕を叩いてバロットは彼を制止した。さらさらとした手触りが心地いい。本物のキモノはショーで使われるサテンと違って独特の重みがあった。

 ──昨日言ってたことの続きを……

 もどかしく砂に書きつけると、春海は持った重湯のお椀を砂の上に置いた。

「せめて話を延ばせたらと思ったんだが、やはり難しいな」

 春海はきっと彼には似合わないだろう苦笑というものをしてみせた。

「ここはね、バロットさん。あなたのいた世界ではない」

 バロットはきょとんとした。登り切った朝日が赤々とバロットと春海を照らした。言われた意味が分からないというよりは実感を伴わなかった。あなたのいた世界はひとつだけではないのか。その他の世界とは、いったいなんなのか。

 ──ここはどこなんですか?

「《裁断場》というこんてんつの中の《春の浜辺》というめにゅうだ」

 春海はひどく言いづらそうに発言した。言葉を自分の物にしているのではなく、完全な受け売りだと分かった。それくらい違和感があった。

「私は《春の浜辺》を管理する《きゃらくたー》なんだ」

 ──きゃらくたー、ですか アニメやコミックのような?

 うんと重々しく春海は頷く。そのかしこまった態度にバロットは噴き出しそうになった。目をぱちくりさせる。

「そしてね、バロットさん。あなたもその《きゃらくたー》の一人だ」

 なにを言われたのか分からなかった。心が反発しそうになって、慌ててそれを受け止めたが置き所がない感じだった。

「だから私はあなたの物語を読めた。あなたも私も物語の《きゃらくたー》なんだ」

 ──意味が分かりません

「そうだろうね。でも事実なんだ。でなければ私が未だに武士の姿をしているはずがないんだ」

 バロットはしばらく考えた。

 ──でも私は生きてます アニメやコミックの《キャラクター》は生きてないですよね?

「そうだ。私たちは人だ。ここでは間違いなく。だが、ある意味で《きゃらくたー》も生きているとは言えないか?」

 ──ええ、まあ

「しかし、この《裁断場》を一歩出れば、あなたは人ではなくなってしまう」

 ──どういうことですか?

「そこは神の領域だ。あなたは夜、あの御山に触ろうとしただろう?」

 ──見てたんですか?

 いっぺんの表情の揺らぎも見せず、春海は「見た」と言った。

「……あの御山はね、書割なんだ」

 ──カキワリ……?

「大道具ということだ。ここに来る神たちの目当ては海と空だ。けれど、振り返ってなにもないということはありえない。自分たちの足場があるんだからね。だから山を作った。それだけの理由だ」

 ──触れようとしても、無理でした

「私たちには登れないが、ここに来る人たちは登れる。そういう道があるらしい」

 なにより……と春海は続けた。

「私たちが《きゃらくたー》というその理由はね、あなたの胸に抱いているそのお人のことだ」

 ──ウフコックの……?

「そのお人に魂は入っていないだろう? あなたがここへ現れるとき、そのお人は《きゃらくたー》ではなく武器とされたんだ」

 ──なんで……?

「誤読だ。読み飛ばしかもしれないし、《裁断場》の都合かもしれない。いかにしてもあなたの物語の最後で、その人は武器だった。だから、武器として現れたんだ。話しかけても答えは返ってこない。命がないのだから」

 慣れない潮の匂いと海鳴りが打ちのめされたバロットを包んだ。きゅっと唇を噛みしめた。春海はいくぶん申し訳なさそうな顔をしている。

 ──どうして私だったんですか?

 春海はどうして自分が選ばれたのかという問いだと思ったらしい。

「私もそう思った。だから、探った。色々と。そして《天の理》に触れ、バロットさんに教えたことが分かった。私たちは──とくに私は──人間ではないと。なにかの理由で、自分の物語を出て、この《裁断場》にふたたび生まれ落ちたんだ」

 春海の言葉にバロットのすすり泣きが重なった。すすり泣きながら、なあんだと放心した。自分が生きていたのは物語だったのだ。すべては物語の出来事。自分が悪いことはただの一つもなかった。そう仕向けられたのだから、そう動くしなかった。それだけのことだった。

 ──けど……でも……!

 バロットが綴った言葉に、春海は頷いた。

 あんまりではないか。

 あなたの過去にしてきたことは物語なので、あなたの生にとくに意味はないものですと言われたようなものだった。

 やけくそ一歩手前のどうしようもない気持ちだった。生々しい過去だけがきらめき、ウフコックの不在が辛かった。胸の傷が深まった。

「諦めては駄目ですよ」

 春海の物言いで、自分が《キャラクター》であることを認めるしかなかった。ウフコックがなんらかの理由でいないことも決定的な一手だった。

「バロットさん」

 春海が気遣わしげにバロットを見ている。自身の存在の正体を暴かれて不安になったと分かったのだろう。涙を拭い、ひゅうひゅう息をしながら、バロットは懸命に文字を書いた。

 ──少し 時間をください

 書くとバロットはなんとかして今の自分の運命を飲み込もうとした。運命が自分を飲み込んだように。お互いを飲み込んでやければ、なんとか運命というものに負けずに済みそうだった。

 春海はバロットの傍に腰を下ろし、しばらく考え込んでいたが小屋に戻っていった。やっぱりバロットを連れて行かなかった。

 やがて夜が来て、満天の星が大の字になるバロットを包み込んだ。

 ──北極星……

 知っている星座があった。

 バロットの視線の先、宙の一点にはっきり見えた。

 そのことだけでも安堵した。ここはまったく知らない世界じゃない。知ってるよりは知らないが多いけれど、知っていることもある世界だ。

 起き上がって、春海が置いていった重湯をすすった。すっかり冷めて膜が張ってるそれは米の味がした。ゆっくり飲み干すと、お腹に大事に抱えていた銃を傍らに置いた。膝を抱え、星を映し出す海を見つめた。細かな砂が髪や身体からぱらぱら落ちてくる。

 かつて火に焼かれたあと、あの目まぐるしい日々を思い返し、息をひとつ吸って決めた。自分がそうと決めてしまうまでが長いだけであって、決めれば実に簡単なことだった。

 流れ星が一筋流れ落ちて消えた。


 春海はバロットのことをバロットさんと呼び続けた。バロットも春海のことをハルミさんと呼んだ。すこし言いづらい「さん」だったが、面差しの柔らかな春海は微笑んでくれた。

 暇にかまけて自分たちの長い話をした。とにかくこのメニューには海と空しかなく、することがない。こうやってゆったりした気分になることが見てる者たち──神の娯楽に繋がるのだと春海は言った。

 神でも疲れることがあるのかとバロットは思い、ふと世界を創ったという神が安息日を設けたことを思い出した。

 ──ハルミさんはお城に勤めていたんですか?

 バロットの文字を読んだ春海はうんと頷いた。

「お城で碁を教えていたから。江戸城と言ってね。知っているかな」

 知らないと首を振ると、「江戸は遠くになりにけりかなぁ」と妙なことを言った。春海はサムライで、サムライが生きた時代なんてバロットにはまったく想像もつかなかった。みんな春海のように刀を帯びていたんだろうか。今まで見てきた映画ではそんな風に描かれていた。

 春海はテンシュカクが燃えたときのことをことさら強く繰り返して語った。それが時代を変えたというように。けれどバロットにはひとつの建物がなくなったことでそんなに取り乱すことの方が実感として分からなかった。

 ──テンシュカクを作り直さなかったの?

 尋ねると、春海は曖昧な笑みを浮かべただけだった。

 なんとなく間の悪さがあって、バロットは急いで付け加えた。

 ──このお菓子なんですか?

 春海はバロットに会いに来ると、バロットの食事とお菓子を用意していた。この日も脚のあるお盆に細々した料理が並び、食後にと薄い生地で包まれた饅頭のようなものがあった。食べると皮が伸びて、中から薄甘い練り物が出てくる。雑な甘さではなく、丁寧に手間暇かけた甘さだった。

 バロットの食べっぷりが気に入ったのだろう。春海は自分も手にとって頬張ると皮を伸ばして笑った。

「大福だ。気に入ったならまた持ってこよう。昔は、菓子も茶坊主に用意してもらったものだが」

 春海が急に咳き込んだ。次第に激しい咳き込みに変わってくる。口を手で覆う春海は慌てたようだった。バロットが背をさする。唇だけで大丈夫ですか? と尋ねると、いくぶんやつれた春海はバロットの手にそっと触れた。

「ありがとう。助かった」

 ──病気なの?

 ううんと唸った春海は、「まあそんなものかな」とうそぶいた。

 やがてじんわりと暖かい太陽が空の真上を通り過ぎると、春海は腰を上げた。

「バロットさん、また明日」

 きっちり会釈をすると、バロットが頷くのを見届け、小屋に戻ってしまった。

 また明日には早いのだが、太陽が中天を過ぎるといつも春海は帰ってしまう。それからの時間が長かった。御山には行けないと言われたので、小屋を外して海岸線をぶらぶらすることもあったがたいていは春海が貸してくれたふかふかのザブトンを膝に抱え、ぼんやり海を見ているだけだった。つねに傍らに置いてある鉄の塊に命が吹き込まれる予兆はまったくなかった。春海の言う神が来る気配もなかった。

 規則正しく灼熱の球体が海の向こうへ沈んでいく。宵闇が背後から迫り、やがて藍色から深い青色に塗り替えられた。

 考える時間はいくらでもあった。

 この世界はなんなのか。

 《キャラクター》と神──人間との違いはなんなのか。

 なぜ、このメニューに神は来ないのか。

 そして、春海はどうして昼になると小屋に戻ってしまうのか。

 ──ハルミさん身体大丈夫かな……

 昼間の咳が気になった。今までに一度もそんなことはなかったのだ。

 バロットの傷はすっかり癒えている。ここに来て何日目かも覚えてなかったが、たぶん四日目の夜だ。朝焼けから日没の繰り返しはバロットに平らな時間ばかり見せた。つまらないと嘆くことは出来たが、つまらないの感情さえも麻痺してしまった。

 ──ハルミさんのところ行ってみよう

 もう夜更けもいいところだったが、バロットは腰を上げた。

 中天の北極星を見つけると、バロットはちらっと微笑んだ。たとえ偽物の星空でも、ここにいる限りは本物で、バロットのことを見守ってくれるような気がした。そして、ふと、初めて春海のために行動を起こすのだと気づいた。いつも受け取るばかりのバロットには、ちょっとした進歩のように感じられた。

 春海の暮らす海辺の小屋はバロットがちょっと歩けばすぐのところだったので、自分の無精さにすこし腹が立った。

 砂を踏みわけ、小屋に向かう。

 横にスライドさせるドアをノックする。応答はない。眠っているんだろうかと首を傾げたが、ドアが揺れ、招くように横にずれた。

 ──………

 しばらく考えていたが、隙間から身体を滑り込ませた。星明かりで夜目が利いていたところから一気に暗くなったので、慣れるまでしばらく待った。やがてかすかに差し込んでいた星明かりに目が慣れると、自分が来たということを音で表しながら手探りで進んだ。

 中は土を踏み固めた場所以外、一つの部屋しかなかった。

 ──そういえばハルミさんの家に明かりがついてるのを見たことがない……

 一段高くなった板の間の隅にうごめく人影があった。じっと目をこらすとベッドではなく、フトンが敷いてあった。バロットが近づくのを躊躇っていると、「バロットさん?」としゃがれて、ふかふかした声がした。その声になんともいえぬ空恐ろしさを感じた。歯抜けのように聞こえた。まるきり老人の声だった。バロットと年の近いはずの春海が、どうして老人のような声を出すのか。よほど病状が悪いということしかない。

 バロットは上がり込んで春海の傍に寄ると、彼を抱き起こそうとし、固まった。

 月明かりが差し込み、くたびれきって枯れ枝のようになった老人の姿を晒した。老人は春海の面差しをしていた。

「やはりあなたは……」

 言いかけ身をよじって咳き込む。バロットは老人の背をそろそろさすりながら、落ち着いた頃を見計らって、老人の手のひらに文字を書いた。

 ──あなたはハルミさんですか?

「そうだ。見てのとおり、こんな姿だがね」

 春海の姿はひどいものだった。白く濁った目。歯が抜けてしょぼついた口元。痩せこけて張りのない垂れ下がり、シミと皺で埋もれた肌。申し訳程度に生えている割れた爪。粗相をしたのか、それとも間に合わなかったのかキモノが濡れて、尿の臭いがつんと鼻をついた。春海の右半身は力なく垂れ下がり、麻痺していた。バロットが知っているスラムで野垂れ死にしそうな老人そのままだった。

 ──なんで、こんなことに……だって毎日私に会いに来てくれるときには……

 なおも言い募ろうとするバロットを制すると、春海は離れるように告げた。せめてもの彼なりの矜恃だった。バロットは恥じた。

 ──ごめんなさい 私さえ見なければ……

「いいんだ。……私は毎日、死んでは生き返っている。この世界でもう何千回も」

 ろれつの回らない聞き取りづらい言葉で春海は続けた。

 ──?

 バロットの疑問を感じ取ったのだろう。春海は「そこで夜明けまで待っていなさい」と告げた。それから一切の手出しはしなくてもいいと付け加えた。

 バロットは言われたとおり、春海のフトンから膝ひとつ分離れて腰を下ろした。緊張して息が詰まって苦しい。春海の視線はぼんやりとしてつかみ所がなかった。ときおり咳き込み、身をよじる。

 春海が細く呻いたのは、どのくらい時間が経ったときだろうか。ぐうっと身体をよじり、胸をひっかく。細い枯れた手が宙に伸ばされ、バロットが受け取る間もなく、ばたんと布団に落ちた。うっすらと夜明けの色合いのなか、春海は死んだ。

 ──…………

 バロットは口をぱくぱくと何度も開け閉めした。声が出ていたら絶叫していた。恐怖に震え、頭が真っ白になった。心臓が耳に聞こえるほど強く脈打っている。

 ──ハルミさん……

 触れようとして、躊躇い、結局止めた。生きてるようには見えなかった。

 春海が死んだ。

 これはいったい、どういうことなのだ。

 小屋を出ようと思ったが、足は震えて動かない。

 夜明けまで待てと言われたとおりに待つ格好になった。

 死したことで死を加速させたように、春海の身体は急激に水分が抜け、痩けて干涸らびた。死体がキモノを着て、フトンに横たわっている。

 おののいたバロットは口を半開きにして、ひゅうひゅうと息が漏れるに任せていた。懸命に死体とともに待った。まったくなにが起こるのか分からなかった。脂汗がにじみ、冷や汗が垂れた。死体と一緒にいるのはこんなにも畏怖するのだと思いもよらなかった。

 夜が押しやられ、白々と夜明けの光がバロットと春海の死体に振りそそぐ。バロットの我慢はピークに達したそのとき。ぴくりと死体が身じろぎした。ぎょっとバロットは飛びすさった。干涸らびた死体が死を乗り越えたように、肉が瑞々しさを得た。バロットが目をむいている間に、時計の針を逆回転するように春海の身体は若返っていった。

 唖然としてへたりこむバロットの前、日が完全に姿を現す頃には春海はいつも食事を持ってきてくれる柔らかい面差しの春海だった。意識がしゃんとあり、おののくバロットを見つめると身体を起こし、身繕いをしながら悲しげに微笑んだ。

「……驚いただろう。私はね、これをもう何千回も繰り返してる。バロットさんが来るまで一人で」

 ──なんで……?

 バロットの唇を読んだ春海が首を傾げた。知っているともはぐらかすともとれる態度だった。

「さあ。……それが、ここで私に与えられた一つの生なんだろう」

 ──なんで……

 ひゅーっと息が漏れる。

 ──私もそうなるの?

 極端な生死を見たことでバロットは混乱の極地にあった。春海を襲っている生死もやがてはバロットに襲い来るかもしれない。半ばパニックになっていた。

 突然、初めて会ったとき、春海の手が乾いてかさついていたことを思い出した。あれは老人の手だったのだ。

「あなたはならないよ。それだけは私が保証しよう」

 春海と向かい合ったバロットは、目の前がちかちかした。

 ──なんでそんなこと分かるの?

「それは私がここの管理者だからだ」

 春海は染みのついたキモノの裾を揃え、フトンから出るとちゃんと正座した。空気がピンと張り詰めた。嫌なものが来そうでバロットは逃げ腰になった。

「バロットさん。お願いがある。私を殺してはくれないか」

 今度こそバロットは倒れそうになった。ひゅっひゅっと呼気が小さく漏れる。声が出ないことがこれほど憎らしかったことはない。春海はきりりとした面持ちで、一歩も譲りそうにない。

 ──……嫌です

 バロットは半べそをかいていた。殺してよかったなんて記憶はいっぺんたりともなかった。

「私は、もう飽きたのだ。最初は物珍しかった。自分の生き死にを最後まで感じ取れることが出来る。これは冒涜だとも思ったが、とんでもなく面白いとも思った」

 バロットは鼻をすすり上げた。涙で目の前が揺らぐ。嫌です、嫌ですと首を振った。

「私はね、バロットさん。永遠に星を追っていきたいと思ったことがある。ここでなら一生、それが出来る。永遠に生きられるのだから。だが、今のこの星空が憎い。なにを成しても結局、最後には辿り着かない。この星空と私の距離はまったく最初から変わらない。私はそういう《きゃらくたー》なんだ」

 ……もしかしたら、永遠を欲しいと心の片隅で願ってしまったのかもしれない。春海はそうぽつりと呟いた。それを誤読されたのではないか。春海はきゅっと眉根を寄せた。

「何度も死を試みた。だが、私では無理なのだ。必ず生き返ってくる。──バロットさん」

 万感の思いがこもっていた。バロットは卒倒しそうだった。春海が集中を切れば、ぶっ倒れていただろう。

「私を、えんさんの元に送ってくれ……」

 その声音に、バロットがウフコックを求めるのと同じ痛切な響きがあった。

 この人は、いったいどのくらい想い人と離れているんだろうか。

 ──ウフコックは見つかりますか

「大丈夫だ。必ず見つかる」

 バロットはそろそろ息をついた。目が回ってくらくらした。春海の言葉は嘘ではないと直感的に分かった。

 ──言い訳を、ください ハルミさんを殺していい、私の心が傷つかない言い訳

 春海は必ず考えておくと言った。

 そして気安く立ち上がった。そこには死を迎え続ける人の暗さは微塵もなかった。ただ底の見えない黒い目があっただけだった。

「さて、朝餉にしよう」

 まだ若い朝日が春海とバロットを照らした。



 先延ばしにするより、一息にとの春海の願いだった。

 ──私にどうやって殺せって言うんですか?

「……そうだなあ……あなたなら出来ると思うんだ。その力で」

 ──その力ってスナークですか?

「そう、そのすなーく」

 ──…………

 小屋から出て、朝飯をとりながらのことである。

 殺す者と殺される者がお膳を砂浜に置いて向かい合って春海の殺害の段取りを決めている。

 妙を通り越して奇っ怪な事態だった。

 ──なんで私なんですか?

「あなたの物語を読んだからだな。この人になら命を託せると思った」

 レンコンを摘まんでいたバロットは、ため息をついた。

 ──私は人殺しは嫌いです

「知っている」

 綺麗に骨と身をより分けた鯖を食べている春海は、うんと重々しく頷いた。

 ──知っていて託すんですか

「知らなければ託せないだろう」

 話がずれた。

 春海は今一歩、本当のところに踏み込ませてくれない。それともバロットが分かっていないだけで、目の前のサムライはちゃんと話をしているのだろうか。

 ──一日で一生を生ききるってどういう気分ですか?

 鯖から芋の煮っ転がしに移った春海は、里芋をかみ砕くと飲み下してそうだなあと言った。バロットはまったく食欲がない。

「時間がやけに早い。一瞬一瞬が恐ろしいほど早いんだ。もう自分の一生を何度も生きたな。バロットさんと最初にあった日が、ずっと遠い。千年も前のことのように感じる」

 たかだか四日程度のことを千年と体感するその途方もなさはバロットの目を丸くさせた。

 ──……自分で何度も亡くなったと言ってましたけど、それはどうやって……

「この脇差しでね」

 置いた二刀のうち、短い方をぽんと叩いた。バロットはぎょっとする。刀はなんとなくこの青年の場合、偽物でなくても限りなく嘘に近いものであるような気がしていたのだ。それほど似合わなかった。バロットのなかで今まで以上に刀が鮮明に色づいた。

「こう、水平にして喉を突いた。最初は……そう、喉、次が胸かな」

 何回かやったが、生き返ってくるので無意味だと知ったと春海は言った。鳥肌が立ってバロットは必死に肌をこすった。

「なにか別の方法を考えないといけないなぁ」

 一方の春海は、心が穏やかなのかともすれば輪郭まで曖昧になりそうなほど日の光に溶けてこんでいた。

 海も空もなんら変わり映えがない。

 ときおり靄が立ちこめたりするが、それもときおりであっていつもではない。

 雨は神が好まないのか、いっぺんも降らなかった。

 ──時間が巻き戻ってるみたいですね

「前に巻き戻る時間だね」

 ふいにバロットは理解して、思いよりも先に言葉が出た。

 ──時間……

「うん?」

 あくまで穏やかに春海は尋ねる。もう食べ終わったようで、お茶を飲んでいた。

 ──ハルミさんはここの時間なのでは?

「時間か……たしかに私は日本の時間を定める暦を作ったなぁ」

 茶碗を置いて顎をさすった。

「私が生き死にを繰り返すのは、それが理由だと?」

 ──思いつきなんですが……ハルミさんは管理者だしここがずっと同じ《春の浜辺》なのはそれが理由ではないでしょうか? ハルミさんは変わってはいけないんですよ だから永遠の生死なのかな……と

 なるほどなるほどと春海は何度も頷いた。

「そうか……自分で死んだときは、身体が動くうちだったからな。それでは駄目なんだな」

 ──はい 生死の一瞬の境でなければ駄目なんです

「まったく気づかなかった。やはりバロットさんを選んで正解だった」

 春海はまたもうそぶいた。バロットが苦い顔をした。すべて春海の手の内のようだった。

 ──言い訳、考えてますよね

「考えてる。大丈夫だ」

 まったく考えてる風もなく、春海はからからと笑った。

 バロットはこの人を殺害してもさして心は痛まないのでは? と思ったが、考えただけでも怖気がきたのでやはり駄目だった。

「今夜、よろしく頼む」

 にっこりと春海が微笑んだ。春海殺害は今夜と決まってしまった。



 日が落ち、老人の身体になった春海が小屋からやってくる。

 言い訳を、と言ったバロットに春海は「必至」と言っただけだった。

 ──なんですか それ

「あなたが必ず至る道ということだ。それからバロットさんにもう手がないという意味でもある」

 ──…………

 つまり春海は言い訳の手立てはないと言ったも同じだった。 

 バロットはもう言い訳を求めなかった。自分で背負い込んで生きるしかないのだろうと切羽詰まった思いでいた。日が落ちてから震えが止まらなくなっていた。ともすれば刀なんて握れそうにない。

「なに、あなたに責はない。すべて私のせいにしてしまえばいい」

 バロットは返事が出来ずにいた。そうはいっても殺すことを請け負ってしまったのだ。請け負った心にどうケリをつければいいのか分からなかった。

 バロットの葛藤を見抜いた春海があえて気安く言った。

「ここはあなたと私が生きた物語とは別の物語のなかだ。物語の進行上、そうせざるを得なかった……そう思えばいい」

 ──それじゃあまるで私たちに考えがないみたいじゃないですか

 バロットがきっと怒ると、春海はなんとも言えぬ笑みを浮かべた。そうしないバロットの青さと若さを羨んでいるようでも、哀れんでいるようでもあった。

 夜が深々と更けていく。星明かりがきらめき、穏やかな海鳴りが向かい合った二人を包んだ。

 春海はゆっくりと老けていき、キモノの襟から垂れ下がった皮膚が覗いた。袖口から覗く手も細く、しわくちゃになっていく。

「舟がある。私を弑したら、出て行きなさい」

 見ると小屋の近くに、艪のついた小舟があった。

 ずいぶんと準備がよすぎた。それで分かった。

 ──ハルミさんがここに私を呼んだのですね ウフコックと離して

「そうだ。《天の理》に触れてね。だが、あのお人は《裁断場》の誤読だ……本当はね、《天の理》なんかに触れなければ良かったのだろうな。そうでなければ、私は自分の生き様にもここでの暮らしにも疑問に思わなかっただろう。あなたの物語を知らなければ、このまま生き続けただろう」

 咳き込んだ春海は言いづらそうにした。

「これはね、天に抗う唯一の術なんだ」

 ようやく春海は本音を言い出した。

「《天の理》を知ったとき、もう逃れ得ぬことが起きていると知った。私はもう死ねない。死ねないんだ……」

 春海はシミの浮いた手で顔を覆ってすすり泣いた。海鳴りが強く聞こえる。

「死ねないことがこんなに苦痛だとは思わなかった。たったひとりきり、ここで永遠に生き死にを続けるにはあまりに辛い」

 バロットはなんと声がけしていいか分からなかった。なにを言っても嘘に聞こえるし、聞こえるわりには本当のこととして自分も春海も受け止めてしまいそうだった。

 だから黙した。答えはずっと後に出そうな気がした。

 ──脇差しを

 目を赤くした春海が一刀を寄越した。手にずしりと重いそれを持って考える。サムライがセップクするときのカイシャクというのはこういう気持ちなんだろうか。手の震えを無理矢理押し込めた。映画で見たように鞘を滑らして刀を抜いた。ぬらっと光る刃がバロットの青ざめて張り詰めた顔を映した。

 ──これは私が選んだ道です

「……あなたは全部持っていくのか?」

 ──私が選んで自分で決めました 誰の責任にもしません 物語なんて言わせません

 怖さがひっくり返ってむかっ腹が立った。最初の日、重湯を飲んだときに決めた覚悟が一気にわき上がってきた。

 ──私は生きるんです 

 老いて右半身と言葉が不自由になった春海が何度も頷いた。

「あのお人はこのめにゅうではないどこかにいる。それは間違いない」

 ウフコックがどこかにいることを告げられただけで、バロットは心が静まった。

 やがて春海の死の時刻になった。

 バロットの心は平静を取り戻していた。自分がゆっくり呼吸する音がかすかに聞こえた。春海がくずおれた。身体がもう保てなかった。枝枯れの老人となった春海は身悶え、胸をひっかき、大きく息をすると絶命した。

 バロットの長い時間が訪れた。目を開き、春海の死を見届け続けた。天を仰ぐと北極星が見えた。肯定も否定もしないただ在るだけの星にバロットは心穏やかになった。ふいにこの必至から逃れる手が分かった。抜き身の脇差しを放り出す。水分が抜けはじめた春海の身体に手を触れ、じっと目を閉じ、待った。

 ──1:02:23…1:02:22…1:02:21……

 その時刻を自分の身体に刻み込んだ。

 夜がしんしんと更けていく。やがて約束の時刻になった。息を吸って吐いた。

 ──0:01…0:00

 朝日が地平線の向こうから赤を放つ。

 干涸らびていた死体が息を吹き返す寸前、バロットは、春海の小さくしおれた心臓──春海を形作っている時間をスナークした。

 ──0:01…0:00…0:01…

 ふーっと息をついた。

 0:00が0:01になり、また0:00に戻る。その永遠の繰り返しを春海に与えた。死した春海が二度と生き返ることがないよう春海の時間を永久循環させた。涙は出なかった。それほど緊張していた。

 最初の晩、春海に触れられたとき、時計のチクタクという音を聞いた。春海との会話で時間についても触れている。春海がスナークと言ったのもそういう理由があったのだろう。もしやと思ったが、その賭けに勝った。しかし、長時間スナークで春海と時間を同調させ、間違えないようにするのは辛かった。春海の時間を循環させたまま、バロットは春海から手を離した。ぶるぶる震えていた。息を細く細く吐き出し、チカチカする目を何度もこすった。

 朝日がのぼっても春海は生き返ることはなかった。ようやく安堵し、へたりこんで顔を覆った。

 ──なんとか必至から逃れた……

 気が遠くなりかけ、呆然とするバロットの耳に、遠雷のように春海の言葉が甦ってきた。はっとした。

 えんさんの元に送ってくれ……

 ──ウフコック……!

 朝日を弾く鉄の塊を震える手で抱きしめた。

 一刻も早く魂を見つけ出さなければならない。

 よろめきながら立ち上がると、遺体に向かって深々と一礼した。ウフコックの身体を抱き、小走りに駆けると、舟に乗り込んだ。振り返ると、神が登るという書割の御山が見える。きっと前を向き、艪をたぐり、果てない大洋に漕ぎ出した。どこをどうすれば辿り着けるのか分からなかったが、バロットは己の力でほかの場所に行けることだけは分かった。

 やがて《春の浜辺》の縁に達すると、見えない壁にぶつかり跳ね返る海面に手を触れた。春海にしたようにおそるほそるスナークすると、別メニューの扉が開かれた。舟の上で立ち上がると扉を開ける。半身だけで遙か彼方となった海岸を見ると、扉の向こうに身を躍らせた。縁にぶつかった舟が押し戻されていく。

 朝日に輝く《春の浜辺》には、0と1を繰り返す遺体と刀が残っただけだった。

 


                                  終わり

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春の浜辺 三日月 理音 @mikazukirio07

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