第107話 一閃

「貴様、ハルシオン・マーカライトだな?」


 掠れた声で、そう呟く様に語り掛けると、ピキン。鯉口を切る音が冷たく響いた。

 途端に剣呑な空気が爆裂的に膨れ上がり、間近のハルシオンは思わず息を呑む。が、微動だに出来なかった。


 キン!


 澄んだ響きが。

 光一閃。

 すうっと、鞘へ。僅かに腰だめより持ち上げ、刀がパチリと納まった。


 イイイイイイイイン……


 金属の震える余韻が響き、どさり。ハルシオンは力無く床に腰を落とす。

 ハッと吐く。そして、ひいと吸った。

 心の臓がだくだくと高鳴り、全身の毛穴という毛穴から、どっと汗が吹く。


 斬られた。と思った……だが、生きている不思議。

 思わず、斬られた筈の胸を、腹をと冷たい指でまさぐった。


 男は油断無く、そんなハルシオンを一瞥、まるで興味を失ったかの様に呟く。


「あのイキリ屋に一杯喰わせた男と聞いておったが、まるで話にならぬ……」


 だが、口元に薄ら笑い。声色は、喜悦を彩る。その眼差しは、調理場の奥へ。

 調理台に山となった野菜根菜のその向こう、男の立つ戸口より対角線上にあるシュルルへと差し向けられていた。


 ヒュンヒュンと淡い燐光が走る。

 手首に巻いた黒革のスリングが、今やその手の内にある。

 まるで距離を測るかの様に、すっと前へ突き出された左腕は、指を大きく開き、その間から宝玉の如き青い眼で男を見据えている。

 それを受け、男の黒い暗い瞳もが燐光を帯びたかに怪しくも。


「やるな、女……貴様がここの首魁であろう?」


 カラリ


 天井に突き立った包丁より、その柄が二つに割れて落ちた。

 先程からインと唸るは、その刃。シュルルが咄嗟に放ったそれを、男は抜き身で弾いて退けたのだ。が、同時にハルシオンは己が斬られたと感じた。



「う……」


 ずるり。壁に寄り掛かった様に、ナルエーが思わず声を。

 刃2つ分の距離。斬られた訳では無い。が、無様に頬を着き、まるで壁に這いつくばるかのナルエー。

 その身を起こそうと、壁に両手を着き、カランと包丁を取り落とす。

 それを視界の隅に留め置き、男は呟く様に独り言ちた。


「ふむ……だが、お主らが噂のやっとう使いとは違うで御座るな。

 なかなかではあるが……」


 ゆらりとナルエーの姿が歪み、次には奥の戸口へと沸いた。

 虚と実。

 異変に苛まれるや、すかさずに距離を取ったのだ。辛うじて。


「な、にを……?」

「ほう? それで動くで御座るか? 使われるばかりでは無い、という事か。くく……」


「あの~、ここは調理場なので……

 申し訳ありませんがご用の向きをお伺いしても?」


 男の気が、僅かにナルエーへと向いたのを機に、シュルルはとぼけた口調で尋ねた。

 出来る事なら、目の前の食材を床にぶちまけたりする事無く、無難にやり過ごしたかった。誰それの腹を掻っ捌いたり、脳漿をぶちまけたりしようものなら、それはちょっとした調味料で御座いととぼける訳にもいかないし、人の口に入れさせてすっとぼけるなんて以ての外。それは悪趣味というもの。


 魔法のスリング、対ゼニマール戦用に開発した鉛のブリッド。衝突した物に食い込み、砕け、まとわりつく様に仕込んだ代物。

 そんな物騒な物を振り回しながら、実は奇妙な押し合いを演じていた。目に見えぬ、認識領域の押し合いだ。

 人の感覚を狂わせるそれ。賢者の塔における先達らとの訓練ならいざ知らず、この様な市井で。


「くくく……知れた事よ。

 やっとう使いを出せ。

 居るのは判っておる。

 隠すと為にならぬで御座る」


「いえ。もう、何と言うか。迷惑なんですが……

 それに、あの子は今、ボーイフレンドとデート中で……

 今日は帰って来ないかもですよ?」


「ぬ? 男にうつつを抜かしておると? 剣士としてけしからんな」


「良いじゃないですか? まだ若いんですから」


「ふん。期待外れか……ならば、お主だけでも遊んで貰うで御座る……」


「いえ、仕事中なので、ご勘弁を……」


「いいや、ならぬ……な……」


 そう言って、如何にも楽し気な舌なめずり。じりじりと間合いを詰める狂犬に、この食材の山をダメにしてしまうかもという絶望感が、ゆっくりと現実を受け止める心境に追いやってゆく。


 ああ、神様。上げては下げるのがお好みですか?


 夕べから、シュルルはこの激しいアップダウンに幾度もさらされ、絶望と歓喜の間を行ったり来たり。

 お店を開いたからには、この手のくれーまーとか覚悟はしていたけれど、人の出入りが激しいので、完全に頭の隅に追いやっておりましたとさ。



 そんな折、不意にきゃっきゃとはしゃぐ子供の声が近付き、この空気が張り詰めた調理場に闖入者が。

 ずぶ濡れのすっぱだかの子供が、如何にも楽しそうに飛び込んで来ると、それを追って母親らしき女性が布を手に追いかけて来た。


「ああ、すいません! すいません!」


 すると、表側の戸口にも別の人影が。


「すいませ~ん。お湯を戴けませんかねぇ~?」


 年配のご夫婦らしい姿が、孫らしい小さな子供を伴って顔を出した。


「失礼しますよ。はい。失礼しますよ」

「御免なさいねぇ~」


 嬉しそうに飛び跳ねる子供らと共に、奥へと消えて行く。



 徐に、男は気まずそうな顔で、腰の同田貫からゆっくりと手を離した。


「気がそがれたわ。

 女。なんぞ、湯屋でも営んでおるのか?」


 いえ、さっさとお帰り下さい。


 シュルルは心の中で、そう願った。


「いえ。そういう訳では……」


「ふむ……ならば、あれは何で御座る?

 ふむふむ……ならば待たせて貰おうか」


「いえ。お帰りはあちらで」


 そう戸口へ手を。

 だがしかし、男は楽し気に頷き、改めて腰の同田貫に手を置いた。


「ならば、女。お主がそれがしの相手をしてくれる、という事で御座るか?」


「……いえ。あの……どうぞ、奥へ……」


 だって、凄く面倒臭かったんだもの。


「ふふん。最初からそう言えば良い。

 では、邪魔をする。

 おお!? そうであったそうであった!」


「まだ何か?」


 流石のシュルルも、仏頂面に。

 だが、それすらも愉快であるかに、男は更に続けた。


「女。お主の名を聞こうではないか。

 拙者ヤシマ浪人ゲンバ。ヤシマ蛇蝎陰流の使い手よぉ~。

 なあ~に。酒の一本でも出してくれて構わんぞ。

 く、くくく……くは~っはっはっはっはっは!!」


 その余りの物言いに、シュルルは唖然とするばかりであった。


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