第103話 明日への1尻尾


 朝、パンを焼く香ばしい香りが充満するのがベイカー街の良い所。

 朝食用のパンを受け取りに、委託していた家の使いが、わらわらと街中から集まっては、ちょっとした賑わいを迎えるのが通例。


 そんな喧騒を背に、薄っすらとした朝もやが海より流れ込む中、狩猟部隊は荷馬車に乗り街の外へ。後に残った4尾と1人は店で朝の仕込みとなった。


 前の晩に立てた予定では、仕込み以前に食材の確保に市場へ、三日月の案内でナルエーがもう1台の荷馬車を使って出かける予定だったが、シュルル、ジャスミン、そしてハルシオンと共に仕込みの担当になっていた。


 そんな訳で、午前中だけという条件で、もう1頭の馬と荷馬車を緑海蛇団のグリース達に貸し出す事となり、彼らはここいら一帯に売って回る薪を仕入れに出掛けていった。

 実際、赤海蛇団に居た頃は、仕入れから配送を担当していたのは幹部のグリースだったが、それに使っていた荷馬車やらは赤海蛇団の財産なのだ。もう自由にはならない。その事をつい少し前まで微塵も考えていなかったのが、彼らしいと言えば彼らしい。



 皆が出かけてしまい、頭数が3分の1以下ともなると、寂しくなるかと言うと、そうでもない。

 皆で根菜や野菜を水洗い、皮むき、カットと調理場で励んでいると、表の戸口が開けっ放しになってるのを良い事に、ひょいと顔を出す人が後を絶たない。


「おはようございます~。お湯、戴けますか~?」


「あ、どうぞどうぞ~」


「失礼しますね~」


 どこからともなく、老人が小さな子供を伴って、2人、今度は3人とやって来たかと思えば、次には大きな籠に洗濯物を満載した女性陣が襲来し、お湯を使わせてくれと……

 みんなで次々に来られる方々に、唖然茫然。


「あ、あれれ?」


 改めてシュルルが裏庭に回ってみると、子供も入れれば軽く2、30人は居るのではないかという大賑わいに膨れ上がっていた。

 当然、風呂に浸かりに来た者が多いのだが、洗濯に来た者、風呂に半分浸かりながら何やらボードゲームを始める者、裸で駆けずり回って遊ぶ子供、こんな早くから一杯ひっかけている者まで、色々とカオスな状況に。


「ちょっと、ちょっと! シュルルちゃん! 昨日の話だけどねえ~……」


「あ、はい!」


 そんな所へうっかり顔を出したものだから、早速昨日のお客さんに声をかけられて、捕まってしまう。

 軽く温まったのだろう。ほんのり湯気を立ち上らせた、日焼けしたニコニコ顔のおばちゃんが、ちょっと言い辛そうにしていたけれど、えいやっと思い切ったみたい。


「うちの相談、お願いしてみて良い?」


「よ、喜んで! じゃあ、どうぞこちらへ!」


 そう言って、母屋の1階にある作業場に案内すると、椅子に腰かけて戴き、冷えた井戸水を1杯お出しする。そして、対面に座ると、羊皮紙と羽ペンを取り出した。


 大事なのはスマイルスマイル!

 明るく丁寧にを心掛け、しっかりと会釈を交わした。


「それでは、先ずは改めて、本日担当させて戴きますシュルルで御座います。

 お名前と、お住まいをお伺いしても宜しいですか?」


 そう言いながら、真っ白な羊皮紙に、黒いインクでカルテNo.1と書き記した。





 実際の採血には、ちょっとした人だかりが出来てしまいました。

 伸ばした丸太みたいな左腕にぷすりと刺した銅の針。その尻に直結したガラスの玉が、たちまち子供の拳大の真っ赤な小瓶に膨らむ様は、物珍しい事から良い見世物。


 やってて、これは不味いかもとも思えた。

 取り合えず、気を悪くされない様に。


「どうもすいません。何かみなさんに見られてしまって……」


「あら? 良いのよ! こ~んな血なんて、見慣れてるもの! ねえ?」


 おばちゃん。メアリーさんは、そう言って周りのみんなに言ってくれる。

 流石に30年以上、女をやってらっしゃらないわ。

 それに多分、ご近所さんの事は、家族構成から何からみんな知ってる事なんだろうな~。

 ご家族や、私生活に関して色々尋ねていると、人だかりが出来てしまったのだけれど、欠片も嫌がる様子が無いし。


「それより、ちょっと! 私の血! もっと良く見せてぇ~ん」


 まるで人が変わった様な、海風でガラガラになった少女の様な猫撫で声。迫力!


「はい。どうぞ! こちらがメアリーさんの血になります。

 ガラス瓶にも、ちゃんとお名前を刻印致しました」


 そう言って、一旦お渡しすると、興味津々と光にかざしては、見物人にも良く見える様にかざしてじっくり眺めている。

 眉間の動きが、凄い!

 そして、ちょっと拍子抜けした感じの声を。


「なんか思ったより、赤黒いのねぇ~」

「腹黒だからじゃないの~?」

「やだよ~、もお~!」

「あんたじゃないのよ!」

「ぎゃははは!」


 おお、皆さん凄い迫力。まるで嵐ね!

 荒野で1尾、ぽつ~んと過ごしていた事が長かった性か、この迫力には次元の違う脅威を覚えます。逞しい。いつか私も、こんな風になれると良いな……


 そんな事を考えていると、何人ものおばちゃんが、次は私の番ね!と口を揃えて、腕を突き出して来ました。

 針、あと2、3本用意しておいた方が良さそうな。

 これでは消毒が間に合わないわ。


 コトリとサンプルの赤い小瓶が作業台の上に置かれます。

 これは、本当に小さな瓶だけど。

 これは、私たちラミアにとって、本当に大きな1尻尾。


 私たちが人間の街で生きていく為の! 明日への1尻尾!


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