第99話 さよなら
どうして?
夜陰に紛れ、弾む様に屋根から屋根へと跳ぶ。
影もそれに倣い、より不可思議な軌道を描く。舐める様に地上の凹凸を滑り、着地と共にシュルルの元へと戻る。
その繰り返し。
「どうして?」
口に出してみる。
潮の香。濃密な大気が、全身を撫でては吹き抜ける。
その先にある何かに、何かがあるという予感に、全身の筋肉をしならせ。再び、跳ぶ。
「あら?」
やがて、倉庫街に近づいた頃、人の声を風が運びシュルルはふと立ち止まった。
女数人の他愛もない会話だ。そう聞こえる。
でも、こんな時間に?
気になって、上から見下ろしてみれば、恐らくは売春婦の1グループと見受けられた。
「あ~あ……たく……」
「おっかないわねえ~」
「しゃーないわ! 他あたろ!」
「せっかくの上客だと思ったのにさ!」
悪態をつく、年の頃は3~40位の女性たち。
かなりの年季なのだろう。暗がりの路地をだべりながら歩き、物おじする気配は微塵も無い。あんな物騒な連中が空を舞ってるってのに……
「あんたの顔がおっかないからさ!」
「じょーだん! あいつに比べりゃ、あたしゃ天使さ!」
「はん! 聞いて呆れるよ!」
「ぎゃはははは!」
「ふ~ん……」
もしかしたら、私たちも年を取れば、あんな感じになるのかな?
1人が地べたに座り込み、それをみんなで引っ張って、酒場へ行こうと無理無理誘って立たせる。
やれ、体が重い。だるい。
病気だから仕方ない。
最近、変なのが出る。
そんな話題を笑い飛ばしていると、路地から1人、つかつかと小走りで近付くと、いきなり女たちを殴りつけた。
途端に盛りのついた猫が集団で騒ぐみたいな有様に。
そんな有様をじっと眺め、シュルルは気の抜けた様にぽつりと。
「……行くか……」
ゆっくりと重い尻尾を上げる。
人間同士の事だから、変に関わってもね。
今は自分の事で精いっぱい。
「上着……無くした事、謝らなくちゃ……」
そっと自分の肩を抱き、目線を屋上の床に這わせた。
多分あそこで落としたんだと思う。けれど、取りに戻る気にはなれなかった。
でも、約束だから……
再びしゅるるっと走り出す。
気が重い。でも焦がれる。だから後ろ髪を引かれる。気持ちの整理がつかない。
そんなふわふわした気持ちでも、待たせていると想うと、行かねばと。
でも、会って何を話せば……
そんな中途半端な気持ちでいても、走ればいつかは港へ着く。
波の砕ける音が、次第に大きく響き、耳を委ねれば思考も止まる。
船のきしむ音。風の唸り。シュルルを包み込む世界。
遠く海鳴りに混じり、人の声が。
「今の声は!?」
どうして!?
屋根から飛び降りると、音を殺して着地。積みあがった空き箱の影から、顔を覗かせた。
小さな波しぶきが立ち、寒そうな白いシャツが闇に浮かび上がっていた。
ゼニマール。
そして、彼に対峙する黒衣の影。ずんぐりむっくりとした巨躯を揺すり、一歩また一歩と詰め寄ろうという処。
「……貴様ぁ~っ!」
「……っ!」
ここからでは良く聞こえないけれど、シュルルには黒衣の男が、誰か検討がついた。
多分、自分も知ってるお方。
一瞬、戸惑ったものの二人の間、地面でバタバタと羽ばたく物を目にし、ああ、そういう事かと納得した。
きっと、私の落とした上着を届けに来て下さったのね、と。
それだけの事よ、と。
「こんばんは」
2人の空気を無視し、すっとその場に顔を出したシュルルは、落ちている上着を手にし、サッと埃を落とし、丁寧に形を整えた。
「う……」
「やあ、お帰り」
「酷い人。こうなる事を見越してらしたのね?」
そうゼニマールに告げながらも、傍らに近づき、背中に上着をかけてあげると、肩をすくめて微笑み、白い歯を見せてくれた。
「どうだい? 海老で鯛を釣って見せたよ」
そんな人に、袖を通させてあげながら、肩を撫で、皺をならし、その下にうねる筋肉に触れ、なんのかんの言っても男の人なんだなと実感する。
お返しに、脇の皮を少しつねってやった。
「い、痛いよ」
「私は海老ですか?
デカハナ様も。明日はお忙しいのでしょう?
こんな夜更けに出歩くなんて……
わざわざ上着を届けて下さってありがとうございます。
ご心配なく。明日、夜明けと共に、この街を出て行きますから」
「な!?」
「おいおい。こんな奴の事は気にしなくて良いって」
「そうは参りません!
初日から大切な方の信用を失うなんて、商売が長続きする訳も無い!
赤が大きくなる前に、手を引くのが商人というものですわ!」
そう言って、シュルルは戸惑いの色を見せるデカハナと、何か妙に余裕ぶってるゼニマールを交互に見やり、ちょっとむっとしたが顔には出さないでいた。
「姉妹には、今夜の件が失敗した折には夜明けと共に引き払う様、指示しておきました。
荒野に帰りますわ。
もう、お二人とお会いする事もありませんわね。
寂しくなりますわ」
不思議と滑らかに口が回った。
一泣きしたお陰か、もう2人をどうにかしよう等と、欠片も思わない性かも知れない。
「そう拗ねるな。デカハナからは、俺が守ってやるって」
「ふ、ふざけるな!!」
「そうですわよ~。デカハナ様に失礼じゃありませんか?」
そう言いつつも、シュルルはゼニマールの頭を抱え込む様に引き寄せ、これが最後かなあとばかりに、こちらから初めてキスをねだった。
「本当に酷い人……」
上から覗き込む様に、彼の唇に触れるや、吐息をわずかにこぼす様にして、想いの丈を込めた口付けを交わした。
それはデカハナが目を見開いて見ているのを意識しての行為。
自棄、では無い。
見られているという事で、少しでも彼の中に何かが残ればとの想い。
受け入れられないのならば、少しだけでもひっかき傷を。
そんな子供染みた。
小さなため息ひとつ。
ゆっくりと身体を離し、ゼニマール、デカハナと流し見た。
最後まで、見ていたのね。と胸の内のつぶやき。
「それではお2人とも、ごきげんよろしゅう。
お休みなさいませ」
スカートの裾を軽くつまみ、恭しく会釈。
せめて胸を張ってこの場を離れようと、真っ直ぐに前を見据え、このまま暗闇の中へ消えてしまおうと。ああ、このままこの体が、溶けて消えてしまえば良いのに。
所詮、彼らは人……
上半身が似ているとは言え、相いれない……
違う存在……
「嘘をついても判る」
異様に熱い手が、末端まで冷え切ったシュルルの腕を掴み、引き寄せた。
ラミアの体重は人間の数倍。
その筈なのに。
まるで羽でも生えたかの様にふわり、デカハナの腕の中へストン。落ちていた。
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