第90話 暖かい湯に浸かる幸せって何だろう?
「とりあえず、納屋の後ろに迄、お湯を引いてみたのよ」
そう言って、サニーとブライトを抱えたシュルルは、グリースをちらり。スッと裏口の方へ、まるで滑る様な滑らかな動きで出て行くものだから、慌てて後を追った。
左手に上への階段、その先にある作業場らしき殺風景な小部屋を素通りし、裏口を出ると、ワッと楽し気な人の気配が押し寄せて来た。
と同時に、何とも濃密な湿気。ほんのりと温かみを帯びた湯気の様なものが、目の前を流れて行く。
「お、おうよ……」
パン焼き屋の作業場に籠る強烈な熱気には慣れていたグリースだったが、目の前の光景には目を丸くした。
ブラックサンは港町だから、裸で人がうろつく光景には慣れていたが、湯気の向こうで大はしゃぎに駆けずり回るガキ共や、その辺に腰かけて呑気に酒を酌み交わす老人連中やら、妙にごみごみしていて何とも異様な光景だった。
「いえね。あんまり子供達が濡れた裸で駆け回るものだから、冷たい井戸水で風邪をひくといけないと思って、窯の煙突にぐるっと穴を空けて、その熱で屋上に引いた水を温めてみたのよ。そうしたら、他の人達も、ぞろぞろ入りに来ちゃって……」
「お、おお?」
苦笑するシュルルは、一旦歩みを止め、その光景の訳を説明した。が、何か良く意味の判らない言葉が多々あり、グリースは最初の疑問で思考が止まり、その先に何を言ったのか聞き逃してしまった。
煙突に穴?
煙突に穴?
ぐるっと?
「お、俺は頭ぁ~悪ぃ~から良く判んねっけど、シュルルさんが迷惑だってんなら。
こいつら追い出しますぜ!」
とにかく何か威勢の良い事を言って、胸を張ってみたグリースだが、そんな様に満面の笑みを返され、結構胸が高鳴った。
「あら。良いのよ。火山の近くだと、こういうのってたまにあるの。
気持ち良いから、グリースもどう?
ついでで悪いけど、この子らも入れてくれると助かるわ」
「「ええ~……」」
「こら。グリースさんに悪いでしょ?
ねえ、グリースさん?」
小さく不平の声を漏らすサニーとブライトを軽くたしなめ、急にさん付けで呼ばれどきまぎ。戸惑いながらも、断る理由は無かった。
「お、おうよ」
「聞いたわよ。薪、都合つけてくれたんですって?
ありがとう、グリースさん。お礼を言うのを忘れてたわ。もう呼び捨てになんて出来ないわね?
おかげで、窯を止める事無くお店を開ける事が出来ました」
抱えてた2人を下ろし、改めて頭を下げるシュルルに、グリースは慌てて顔を左右に、まるで首がもげるんじゃないかって位の勢いで。
「いやっ!? そんな! 良いって事よ!
元々、ここいらの薪は、俺の差配だったからよぉ~! いくら兄弟分たって好き勝手はさせねえって事よぉ~! うえっへっへっへ……」
顔を真っ赤にさせ、奇妙に体をぐねぐねさせグリースは照れた。照れながらも、その兄弟分と袂を分かって飛び出してしまった事実を思い出し、急に暗たんなる気分に襲われ、その場で腰を落としてしまった。
「おうよ……良いって事よ……良いって……」
そう呟きながら、膝の上に乗せた腕をだらんと垂らし、指先で地面にのの字を幾つも書き出した。
そんなグリースの傍らに腰を下ろし、シュルルもその表情を心配気に覗き込むんだ。
「グリース……やっぱり無理させちゃったのよね?
ごめんなさい。
私に出来る事なら何でも言って頂戴?
納屋で申し訳無いけれど取り敢えず、皆さんでそこのを使える様にしたから……」
「納屋……?」
力無くシュルルの指差す方へ頭を向けたグリースは、左右を湯気が立ち昇る如何にもな、それでいて真新しい外観の平屋を眺めた。
「寝台は8つあれば良いわよね?
今、寝具の代わりになる物を頼めないか、街の人達にお願いしてあるから……」
言われるがままにシュルルの後を付いていくグリース達は、その中央の間口の向こう、前後左右の壁に直接生えた2段の寝台を目にし、あんぐりと口を開けた。
今やその寝台は、どっかで見た様な裸の爺さんや子供達が気持ち良さ気に寝転がっている。
「左は女性専用にしたから、入らないでね。
見るのも禁止。
守れない人には、出てって貰うわ~」
「お、おうよ! あったり前ぇ~だぜ!」
クスリ微笑むシュルルと、その光景を交互に眺め、首を人形の様にコクコクさせた。
見れば、納屋と母屋の外壁から人の背丈より高い壁が、これまた何の継ぎ目も無く生えており、その向こうからもうもうとした湯気と、女性らしい少し甲高い嬌声が響いて来る。
そして、どうやら納屋の右側は男用らしい。
衝立も無く、納屋の面積より少し広い位の湯だまりがあり、そこに犇めく様に人、人、人……
何と、納屋の壁に幾つもの湯の注ぎ口があり、そこから幾条もの湯が、湯気と共にとうとうと流れ落ちていた。そして、その下にはずらっと男達が座り込んでおり、頭や肩にぼたぼたとそれらを受け、得も言われぬ恍惚とした表情を浮かべている。
その光景に、そっと目を逸らしながら、頬を薄く染めるシュルルが少し申し訳なさそうに。
「ごめんなさいね。
グリースのお陰なのに……
ちょっと混んじゃってるから、端っこの方で……」
海辺では強い風が吹く事もあり、野外での行水は風の凪ぐ時間に良く行われている。
海や川ででサッと身体を洗う者もいれば、濡らした布で身体を拭いたり、井戸水で行水をするのも様々だ。
人の身体を浸けられる程の、大量の湯を使うのは、比較的裕福な者達に限られた贅沢な行為であり、この公都ブラックサンにおいてもあまり一般的では無い。
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